核兵器にまつわる話 Q&A

このページでは、核兵器にまつわることを、質問に回答する形式にまとめてみました。

核兵器のことを一緒に考えてみましょう!

質問一覧を載せましたので、気になるところから自由に見てください。

 

歴史を正確に知ることはとても難しいものです。

ここでは、いろいろな文献や資料を元にまとめてみましたが、文献や資料によって内容やデータが違っていることも多々あり、正確に知ることの難しさを痛感しました。

ここで書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。

「本当~?」など、感じるものがありましたら、ぜひともご自身でも調べてみてください。

 

また、個人的な意見や感想が入っているところもあります。

できるだけ、意見や感想はそれとわかるような表現を心がけたつもりです。

 

参考にした文献等は一番下に書いておきます。  

(文責 焼広)

山梨県 被爆者 体験談

 
 

核兵器の開発そして原爆の投下前夜

そもそも、核兵器って何ですか?

 

 核兵器は、数ある兵器の中で、圧倒的に破壊力が大きな兵器です。一発で、そして一瞬のうちに一つの都市を丸ごと破壊する威力を持ちます。

 そのため、核兵器の配備が軍事的な大きな力に影響するのですが、あまりにも大きな破壊力のため、人類やその他の生物の存亡にも影響を与えるものとして、その開発は規制され、いずれは無くしていくことが議論されています。

 

 世の中にある物質はすべて原子が集まってできています。その原子を構成している原子核には大きなエネルギーが秘められおり、そのエネルギーを兵器に利用したのが核兵器です。

 すべての物質の中に核兵器に相当するエネルギーを秘めているというのは怖い感じがしますが、地球上で自然にそのエネルギーが外に出ることは絶対にありませんのでご安心ください。

 核兵器は地球上の自然界では起きることのない核分裂や核融合を人工的に起こすことにより、その大きなエネルギーを利用しているのです。

 核分裂を利用したのが原子爆弾(原爆)で、核融合を利用したのが水素爆弾(水爆)です。

 ちなみに、地球以外では、自然に核融合が起きているところがあります。太陽です。太陽のばく大なエネルギーは核融合で造られているのです。

 

広島と長崎で使用された原子爆弾は種類が違うのですか? 

 

 使っている原子が違います。広島で使用された爆弾はウラン原子を使い、長崎の使用された原爆はプルトニウム原子を使用したものです。

 ウラン型とプルトニウム型とでは開発を進める上でのハードルの違いや大量生産のための有利性の違い等があったため、同時進行で開発が進められたようです。

 

 

 

 

核兵器と通常の兵器の違いを教えてください

 

 核兵器が通常の兵器と違うのは、圧倒的な破壊力です。

 一発使用するだけで、一瞬にして一つの都市を壊滅させる威力を持つ兵器は核兵器以外にはありません。

 核兵器は、地上数百メートルのところで爆発し、強烈な熱線と爆風、そして放射線を放出します。

(以下の威力に関する数値は広島市のホームページを参照にしました。)

強烈な熱線>

 爆弾中心部の温度は100万度を超え、爆心地近くでは地上でも3,000℃から4,000℃になります。

 ちなみに太陽の表面温度は5,700℃、金属が溶ける温度は1,500℃です。

 また、高温により、いたるところで自然発火が起こり、あちこちで火事を発生させます。

<爆風>

 爆風による圧力は爆心地で1平方メートルあたり35トン、最大風速は秒速440メートルに達するという強大なものです。

 10トントラック3台以上が飛んでくる感じです。また、2013年にアメリカで発生し、街を壊滅させた巨大竜巻の風速は約90メートルだったそうです。

<放射線>

 核兵器は大量の放射線を放出します。目に見えない放射線は体内を通過し、細胞を破壊します。また、放射線は地表に留まり、あとから爆心地に入った人にも影響を与えました。

 

 

原爆はいつ頃開発されたのですか?

 

 第二次世界大戦の始めごろから、イギリスやドイツで開発が検討され、1942年からはアメリカで本格的に開発が始まり(マンハッタン計画)、1945年7月16日アメリカが世界初の核実験を成功させました。(そのわずか20日後に日本に投下されました。)

 開発が始まってわずか3年間で完成させたのです。

 その4年後の1949年にはソ連が実験を成功させ、その後、1952年イギリス、1960年フランス、1964年中国と相次いで実験を成功させました。

 今から70年前、わずか3年間で開発された核兵器ですから、現在の技術で作ることは、想像するより簡単なことかも知れません。

 

最初は、ドイツを念頭に開発が始まったのですか?

 

 ドイツが原爆を開発しているという情報により、ドイツが先に核兵器を保有することを恐れ、ヨーロッパからアメリカに逃れたユダヤ人の科学者たちが、政府にドイツに先駆けて原爆を開発することを進言し、開発が始まりました。

 当初は、ドイツがターゲットだったのです。ターゲットと言っても、実際に使用することを想定していたというより、抑止力としてヒトラーよりも先に手にしないと大変なことになるという危機感があったと思われます。

 途中、ドイツが原爆開発を断念したという情報が入りました。しかし、科学者たちにはそれは伝えられず、開発は続行されたようです。

 そして、1945年5月にドイツが降伏したため、本来であれば原爆を開発する理由はなくなったはずです。科学者たちは、原爆開発の理由に揺らぎを感じながらも開発は続けられ、そして完成し、ターゲットは日本になりました。

 

当時、アメリカ国内に、日本への使用に反対していた人たちはいましたか?

 

「ヒトラーが先に原爆を手に入れたら大変なことになる」という恐れから始まった原爆の開発ですから、ドイツが降伏したあと、実際に原爆を使用することに反対した科学者たちがいます。

 その科学者たちは「もし、老若男女無差別に破壊してしまうこの新兵器を人類の頭上に投下したら、アメリカは全世界の人々の支持を失うことになってしまう」と指摘しました。

 また、アメリカ軍の長官クラスの人や政府関係者の中にも、「原爆を使用しなくても日本を降伏させることは可能だ。実戦で使用する前に、無人地帯で世界に公開し、警告するべきだ」と指摘した人たちもいました。

しかし、その要請は叶うことはありませんでした。

 

反対を押しのけて、日本に使用されたのはなぜですか?

 

 原爆の使用は正しかったと思っている方は、今もアメリカ国内にたくさんいらっしゃいます。「原爆によって、日本を降伏させ、戦争を早く終わらせることが出来た。日本本土での戦いが避けられ、多くのアメリカ兵の命が助かった。それだけでなく、日本人の犠牲も少なくて済んだ。」という理由です。

 実際に原爆投下は、日本に大きなインパクトを与え、早期の降伏に影響を与えたと思います。そういった意味では「大勢のアメリカ兵を救うことができた」ことや「そのまま戦争が続いて日本本土での戦いとなったら、日本人の犠牲者ももっと増えたはずだ」ということも決して間違いだとは言えないでしょう。

 しかし、だからと言って、多数の民間人が必ず犠牲なる原爆投下を「正しい」という理由に、本当になるのでしょうか? 

 原爆投下以外に、早期に日本を降伏させる方法が見つからなかったのであれば、それは正しいとも言えるかも知れません。

 ところが、当時日本はすでに降伏に向けた模索をしていました。アメリカ側もその情報を知っていましたし、日本を降伏させるために有効と思われる条件もわかっていました。

 また、米軍の将軍たちが進言したように、まずは海上などの無人地帯に投下し、世界に原爆の威力を示し、日本に対しては、「我々はこんなすごい爆弾を開発した! 降伏しなければこれを落とす! 何月何日までに回答せよ!」という警告ができたはずです。それでも降伏しなかったので仕方なく原爆を使用した、というのであれば、「原爆の使用は正しかった」とも言えるかも知れません。

 ところが、そういった方法はとられませんでした。当時のアメリカ大統領トルーマンたちの一連の行動を見ていると、「原爆を使用せずに降伏させる」ことは優先されず、あえて「原爆を使用して降伏させる」ために苦心をしていたように思えてなりません。

 もちろん、トルーマン大統領も、このまま戦争が続いて米兵の犠牲者が増えることを避けたい気持ちはあったでしょう。しかし、それよりも、もっと優先させたいことがあったように思えます。

 ドイツが既に降伏し、日本の降伏も時間の問題となった当時、戦後世界のアメリカとソ連の覇権争いが既に始まっていました。もし、ソ連が日本へ参戦する心配がない段階で原爆の開発が成功していれば、警告のための公開爆発という方法も取られたかもしれません。

 しかし、原爆の実験が成功したのは、近いうちにソ連が参戦するという時間的な猶予が全くない時でした。そんな時、アメリカ主導で戦争を終わらせると同時に、原爆の威力を世界に示すためには、どうしても「原爆を使用して戦争を終わらせる」必要があったように思います。

 ソ連が参戦する前に、アメリカ主導で戦争を終わらせたかった理由は、次のように考えられます。

 

●戦後の世界でソ連より優位に立ちたかった。

●ソ連が日本降伏に大きな役割を果たしてしまうと、日本の一部がソ連の占領下におかれ、日本が共産圏なってしまうことを恐れた。

●対日戦争ではアメリカはたくさんの犠牲を出しているので、ソ連にいい所取りされては、国民の支持が得られない。

 

 ソ連はもともと対日参戦を8月中旬に予定していました。しかし、 8月6日に原爆が投下されたのを見て、急きょ前倒しし、8月9日に参戦してきたのです。

 その頃のアメリカとソ連の間にくりひろげられていた戦後の覇権を見据えた攻防が、相当激しかったことが想像できます。

 覇権争いの中で原爆は使用された、と言えそうです。

 

 また、原爆使用の理由には次のようにも考えられています。

●原爆を実際に使用した際の効力、特に放射線の人体への影響を知りたかった。

●膨大な費用を使った原爆開発を国内向けに正当化する必要があった。

●人種差別があったから・・・当時は今とは全く違う世界構成でした。人種差別は当然なこととして行われており、残念ながらこの理由もあったように思います。

 

 また、完成させた原子爆弾は3発で、1発は実験で使用したので、残りは2発だけだったそうです。開発したばかりで不発になってしまうことも十分にあり得ると考えると、警告のための公開爆発に使用する余裕はなかったと思われます。 事前通告も不発の可能性を考えるとできなかったと考えられます。

 これらの理由はどれが正解というのではなく、すべてが絡み合っていたと思われます。

 

ポツダム宣言を受け入れなかったから、 原爆を使用されたとも言われていますが

 

 原爆が8月6日に使用される前の7月26日に、日本に対して降伏を要求するポツダム宣言がアメリカ大統領、イギリス首相、中華民国総統のサインのもと提出されました。日本人の中には「ポツダム宣言を受け入れておれば原爆を落とされることはなかったのに・・・」と残念がったり、アメリカ人の中には「ポツダム宣言を無視したから原爆を落としたのだ」と考える方も多くいらっしゃるでしょう。

 ところが、アメリカが日本への原爆投下命令を出したのは、7月25日です。ポツダム宣言を出す前日だったのです。

 ポツダム宣言が相手を降伏させるための最後通告であれば、回答期限や受け入れなかった場合にどうするかも具体的に通告しなければならないはずです。 しかし、ポツダム宣言はそういった形式はとっていませんでした。回答期限はなく、受け入れなかった場合も「降伏しなければ、大変なことになる」というぼんやりとしたものでした。これでは、最近北朝鮮が韓国に対して「大変なことになる」と言っているのとよく似ていて、日本としては、ポツダム宣言を最後通告ととらえるのは難しかったと思えます。

 それに、当時の日本はすでに降伏の方法を模索していました。日本がこだわっていたのは、天皇を日本の精神的な象徴としてきたこの国の形の維持でした。2000年以上続けてきたこの国の形を自分たちの代で終わらせることは絶対にできない、という強い想いがありました。ですから、日本にとって、この国の形の維持は、降伏するにあたりどうしてもこだわりたい条件だったのです。

 アメリカ側もそれがわかっていたので、当初のポツダム宣言の草案では、この国の形の維持を条項として入れていました。しかし、実際にポツダム宣言が出される時、その条項が抜かれたのです。それでは、日本も簡単に降伏できません。回答期限もないし、具体的にどのような大変なことかもよくわからない状態では、とりあえず放っておいてじっくり検討しよう、となっても仕方なかったのではないかと思えます。

 アメリカの動きを見てみると、とにかく原爆を使用して戦争を終わらせたかった、原爆を使うまで日本に降伏させないように工夫した、と思えてなりません。実際、原爆を使用した後になると、日本側からアメリカに「降伏の条件に、国体維持を入れられるか?」と問い合わせたところ、それもあり得るようにほのめかしました。それを信じて日本は降伏を決断したのです。

 

ここで、ちょっと一息 ・・・・

<コラム>アインシュタインの名誉のために

 

 アインシュタインが原爆を開発したという誤解が少なからず存在します。確かに、亡命ユダヤ人科学者がドイツの開発を恐れて大統領に開発の進言をした際、当時すでに偉大な科学者であったアインシュタインにも署名を依頼し、署名に加わりました。でも、開発には一切関わっていませんし、開発が始まったことさえ知らされませんでした。

平和を愛したアインシュタインは、戦後「我々は戦争には勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説しています。

大正11年(1922年)、日本を訪れたアインシュタインは、日本の伝統的芸術ややさしい国民性に感銘を受け、数多くの日本や日本人を賛美する言葉を残しています。以下の言葉もアインシュタインのものだと言われています。

「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。

 その驚異的発展は他の国と違った何ものかがなくてはならない。

 果たせるかなこの国の長い歴史がそれである。

 この長い歴史を通じて一系の天皇を頂いてきたという国体を持っていることが、今日の日本をあらしめたのである。

 私はいつもこの広い世界のどこかに一か所くらい

 このように尊い国がなくてはならないと考えてきた。

 なぜならば、

 世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、

 最後には闘争に疲れる時が来るだろう。

 このとき人類は必ず真の平和を求めて

 世界の盟主をあげなければならない時が来るに違いない。

 その世界の盟主として武力や金の力ではなく、

 あらゆる国の歴史を超越した、

 世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。

 世界の文化はアジアに始まりアジアに帰り、

 それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。

 我々は神に感謝する。

 神が我々人類に日本という国を作っておいてくれたことを。」

 

平和を愛した天才アインシュタインのこの言葉は、私たち日本人ひとりひとりの心構えや役割を考えさせられます。

 
 

原爆投下

 

なぜ、広島と長崎がターゲットになったのですか?

 

 アメリカでは1945年4月から、日本のどの都市に原爆を投下するかの 検討が始まりました。

 都市の選定においては、次のようなことが基準になったようです。

 

●一発で破滅的なダメージを与えることができるところ、つまり、ある程度の大きさを持った都市であるところ

●軍事施設や軍事工場があるところ

●その頃はすでに都市空爆が始まっていましたから、より具体的に原爆の破壊力を確認できるように、まだ、空爆が行われていないところ

  

 最初は、17都市が検討され、そのうち京都、広島、新潟、小倉、長崎等に絞られていき、8月、最終目標に広島、小倉、長崎が決まりました。

 都市の選定の間、広島は常に第一目標でした。かっこうの大きさの都市で軍事施設や軍事工場が多くあり、さらに米軍の捕虜施設がないと思われたからのようです。

 小倉も大きな軍事工場があったため、目標として最適でした。

 広島と小倉は地理的に近いことから、天候によっては投下地点を変更できる、ということで選ばれたようです。

 長崎は軍事施設もありましたが、広島や小倉ほど多くはなかったため、あくまでも予備の目標だったようです。ですから、長崎での犠牲者は民間人の割合が多くなってしまいました。

 山梨県の被爆者に広島の被爆者が多いのは、広島の軍事施設に兵隊として入っていた人が多かったことも原因のようです。

広島に投下された時のことを教えてください

 

 当時、広島市の人口は約35万人でした。その内、約29万人が一般市民、約4万人が軍関係者、約2万人が所用のため市内に入った人たちです。

昭和20年(1945年)8月6日(月)、よく晴れた気持ちのよい朝でした。

7時9分 空襲警報が発令され、市民は、防空壕等へ避難しました。

7時31分 警報解除されたため、外へ出てそれぞれの一日を再開しました。

8時15分 いきなり、B29 4機が上空に現れ、その一機から原子爆弾が投下されました。

 原爆は、広島市の中心部、現大手町の島病院の上空、約580mのところで目もくらむ閃光と共に爆発し、小型の太陽とも言われる直径約280mの火の玉を作りました。上空約600mということは、東京スカイツリーの先端より、少し下あたりです。

 約3mだった原子爆弾は爆発によって、一瞬に直径約280mの火の玉になりました。火の玉の中心温度は100万℃を越えています。

爆発による強烈な熱線と爆風と放射線は一瞬のうちに地上に届き、あらゆるものを破壊していきました。

 強烈な熱線は、地表に届くときも3000℃から4000℃です。金属が溶ける温度が1500℃ですから、その熱線に直接あたってはひとたまりもありません。

強烈な熱線による自然発火により、いたるところで火事が起きました。

 強烈な爆風は、風圧、平方メートルあたり35トン、風速秒速約440mという強大なものでした。一気に大型ダンプ3台が飛んできたらひとたまりもありません。

 そして、強烈な放射線が飛んできました。目に見えない放射線は、体の中を貫通し細胞を痛めつけました。

 丈夫な建物の影にいて、熱線や爆風から助かった人も、大量の放射線を浴びて命を落とした人もいます。

 

<どれくらいの方々が犠牲になったのでしょうか?>

爆心地から

 500m以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90%を越え、

 500mから1km以内での被爆者では、

     即死および即日死の死亡率が約60から70%に及びました。

さらに生き残った方も7日目までに約半数が死亡、

次の7日間でさらに25%の方々がお亡くなりになりました。

11月までの集計では、

爆心地から

 500m以内での被爆者は、98から99%が亡くなり、

 500mから1km以内での被爆者では、約90%が亡くなられました。

1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、

    9万人ないし12万人と推定されています。

(「広島市への原子爆弾投下」 - Wikipedia より)

 

『きのこ雲』で体験を語って下さった方々(中には、爆心地から1km程度の方もいらっしゃいます)が、いかに奇跡的に生き残られたかがわかります。

 

<救護活動はどのように行われたのでしょうか?>

( Wikipedia 「広島市への原子爆弾投下」 より)

 広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500m以内であり、家屋は全壊全焼、職員も多くが死傷し、被災直後は救護する能力がありませんでした。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失していました。

 市内の爆心地から4kmにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となりました。(『きのこ雲』に体験談を寄せて頂いた被爆者に暁部隊の方が数名いらっしゃいます。)

 陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及びました。また原爆の被災者は広島湾の似島に所在した似島検疫所に多く送られました。

 この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設され、船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加しました。

 

長崎に投下された時のことを教えてください

 

 8月9日(木)、アメリカの爆撃機は、第1目標を福岡県小倉市、第2目標を長崎市としていました。

 10時前に爆撃機は小倉市上空に到着しました。原爆はその効力を記録するため目視での爆撃が厳命されておりましたが、小倉市は霧もしくは煙がかかっており、目標を目視することが出来ませんでした。すぐ霧(煙)は晴れるだろうと思われていましたが、一向に晴れず、その内、日本軍の砲撃も始まってきたので、約45分後、小倉市をあきらめ、長崎市に向かいました。

 朝は晴天だった長崎市も、爆撃機が到着したごろは雲が多くなっていたのですが、長崎市の中心部から3km離れた地点で雲に切れ間ができました。

 11時2分、その雲の切れ間に、原爆は投下されました。浦上地区の上空、約500mのところで原爆はさく裂し、一瞬にして太陽のような大きな火の玉になりました。 強烈な熱線と爆風と放射線を放出し、あらゆるものを破壊していきました。

 長崎に落とされた原爆は、広島に落とされたものよりも1.5倍の威力のあるプルトニウム型の原爆でした。犠牲者の数は、広島より少ないのですが、それは、 天候によって、中心市から外れたところに落とされたためであり、それはすなわち軍事施設の少ないところ、住民の上で爆発したということでもあります。

 

 

<どれくらいの方々が犠牲になったのでしょうか? >

(長崎市 「原爆の記録」より)

 当時、長崎市の人口は推定24万人でした。

その年の12月末の集計によると、7万3884人の方々が亡くなったとなっています。

この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものです。

 ちなみに、昭和20年(1945)9月1日時点の長崎県知事の報告書には、屍体検視済のもの19,743人とあり、この検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場で行われたもので、即死状態の氏名不詳、性別不詳といった、いわゆる身元が判明しない死体も約2,000体に及んでいます。累々たる死体の群れ、黒焦げや、ひどく損傷した遺体を目前にしては、身元確認の術もなかったことが、この数字からもうかがえます。

 またこのほか行方不明として届出のあった者が、1,927名あり、いずれも死亡したものと思われています。

  

<救護活動はどのように行われたのでしょうか? >

( Wikipedia 「長崎市への原子爆弾投下」より)

 当時、長崎県庁の防空本部は、市内諏訪神社下の山腹に設けられた地下壕にあり、被爆時たまたまここで空襲対策会議中だったこともあって、県知事以下の防空本部機構は健在でした。しかし、被爆直後、現地とは一時通信が途絶し、また火災が急速に拡大する中で救護活動の立ち上がりは困難を極めました。

 現地では、薬品や器材が不足する中、医師や看護師たちによって救護活動が開始されましたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。所轄警察署(稲佐署・長崎署)や警察警備隊からも救護隊が出動したが、道路の途絶や激しい火災が活動の立ち上がりを阻みました。

 こうした混乱の中、国鉄の救援列車が、原爆投下からわずか3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送しました。

 夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請しました。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送しました。

 

長崎に使用する必要なかったと思うのですが?

 

 「日本を降伏させるため」だけが原爆投下の理由であれば、8月6日に広島に落とした後、たった3日後に再び長崎にまで使用する必要は、本当にあったのでしょうか?

 普通に考えれば、一発目を落とした後、アメリカは「降伏を勧告する。何月何日までに回答せよ! さもなければ同じ爆弾を使用する」と言ったはずです。

 個人同士のケンカではないので、降伏するにも検討する期間が必要なことはわかっていたはずです。それなのに、日本に降伏を勧告することもなく、また、日本に降伏を検討する間も与えず、たった3日後に長崎に使用したのです。

  2発の原爆をほぼ同時に使用した理由は、ただ「日本に降伏させるため」というよりも、原爆の威力を世界(ソ連)に示しつつ、「アメリカ主導で」戦争を終了させることがなによりも重要であったため、と思われます。

 ポツダム会議はアメリカとソ連とイギリスの3国の首脳で行われたのに、ポツダム宣言はソ連抜きで出されました。さらに宣言の署名は、チャーチル首相や中華民国総統の署名までトルーマン大統領の代筆で行われました。一方ソ連は8月15日頃に日本に参戦する予定を8月6日の広島への原爆投下を見て、急きょ8月9日に前倒し参戦しました。こういったアメリカやソ連の動きを見てわかるのは、終戦をめぐって、アメリカとソ連の陰の攻防が相当激しかったということです。その時のアメリカの相当な焦りが想像できます。

 また、広島と長崎に使用した原爆は種類が違うもので、実戦での威力(特に人体への影響)を知るための実験だった、とも言われています。

 実際、原爆の投下は、2発を時間を空けずに投下するよう、命令されていました。 最初から2発で1セットだったのです。

 

 
 

核兵器のいま

現在、全世界に核兵器はどれくらいあるのですか?

 

 正確な数字はわかりませんが、推定される数は下の表のようになります。圧倒的に多いのはロシアとアメリカです。このうち、米ロ合わせて約1800発が数分で発射可能な「高い警戒態勢」(ハイ・アラート)状態に置かれていると言われています。(FASのサイトより)

核兵器がたくさんあるということも脅威ですが、核兵器は、とんでもない広範囲を破壊しますから、1個でも大変な脅威です。

核兵器の脅威が世界からなくすためには、核兵器の数がゼロになるだけでなく、核兵器を作る技術も完全に抹消されなければなりません。

それは本当に可能なのでしょうか?

原爆を開発してしまった人類が背負ってしまった重荷はあまりに大きいと言わざるを得ません。

 

核保有国はどのように増えていったのですか?

 

 核兵器が開発された当初、このとんでもない兵器の開発が世界中に広がることを恐れた科学者たちは、核兵器の国際管理を提言しました。しかし、アメリカ政府は、ばく大な開発費用をかけた核兵器を、みんなのものにすることにはできませんでした。核兵器を保有することで、戦後の世界で圧倒的は優位に立てるという思惑でした。

 しかし、その思惑も4年後の1949年のソ連の原爆実験成功で終わります。そして、核兵器開発競争となり、核戦争の恐怖と人類は向き合うことになりました。

核兵器保有国は

1945年・・・アメリカ合衆国 に始まり 

1949年・・・ソビエト連邦  につづき

1952年・・・イギリス

1960年・・・フランス

1964年・・・中国

と核保有国となっていきました。  

 核兵器は保有数の競争となってしまい、1986年にはこの5か国で約7万発になりました。(5か国といっても、そのほとんどはアメリカとソ連です)

こうして、万が一、核戦争になれば全人類が滅ぶ、しかも何回も・・・、という意味のない現実離れした状態となってしまいました。

 核兵器は製造にも保有することにも費用が掛かります。アメリカとソ連は1971年になってようやく核保有数の削減に取組み始めます。

 現在は、数こそ1万5千発くらいまで減りましたが、核兵器の小型化等が進み、決して核兵器の恐怖が減ったというわけではありません。

 その後、

1974年・・・インド(NPT非批准国) 

     上記5か国だけに核保有を認めたNPTを不平等

   な条約として当初から条約に批准していません

1979年・・・イスラエル(NPT非批准国)

   保有しているとは明言はしていませんが、状況

   から見て保有していると考えられています

1998年・・・パキスタン(NPT非批准国)  

   インドの核開発に対抗して開発されたようです

2006年・・・北朝鮮(NPT脱退国)

   建国当初から核保有が悲願だったようです

北朝鮮は、今年(2016年)も核実験を強行しました。北朝鮮から他の国やテロリストへ技術の移転してしまうのではないか、という疑いや心配があります。管理されない状態で核兵器が拡散してしまう恐れがあります。国際社会が協力して、何としてでもそれは防がなくてはいけません。

 

 
 

核兵器の世界的な広がりを防ぐための取組みを教えてください

 

核兵器が世界中に広がることはとても怖いことです。それを防ぐため、1968年に国連総会で、核拡散防止条約(NPT)が採択されました。

 そして5年に一度、核軍縮、不拡散、平和利用の3分野で加盟国が運用状況の討議と検証する「再検討会議」が行われることになっており、近年では昨年(2015年)行われました。この条約には世界約190か国が批准しています。

 

核拡散防止条約(NPT)では、以下の3点が大きな柱となっています。

①核兵器の拡散防止

  国連常任理事国であるアメリカ、ソ連、イギリス、

  フランス、中国のみを核保有国として、他の国が

   核兵器を保有することを禁止する

②核軍縮の義務

  核兵器保有を認められた5か国は、誠実に核軍縮

  に取組む

③核の平和利用

  核兵器保有国以外の国も核の平和利用(原子力

  発電)は認められるが、核兵器への転用を防ぐ

  ため国際機関による査察を受ける。

 

この条約は、核兵器の拡散を防止するという目的に一定の効力は発揮はしていますが、当初から5か国にだけ認めた不平等条約であるとの不満はあり、条約に批准しなかったインドは1974年に、核保有国となりました。

また、条約から脱退した北朝鮮は2006年に核保有国となり、そこから核開発技術が移転しないか、心配されています。

 

なぜ、核兵器の使用は禁止されていないのですか?

 

 戦争にもルールがあります。その一つに「民間人(市民、住民)への攻撃を禁止し、戦闘員同士の戦いに限定する」というルールがあります。

 生物兵器と化学兵器は使用すると必ず民間人も犠牲となるので、生物兵器は1975年、化学兵器は1997年条約により使用が禁止されました。

 核兵器も、使用すると必ず民間人が犠牲となるので、本来使用が禁止されるべきものです。しかし、今のところ核兵器の使用を禁止する条約は発効されていません。

 使用が禁止されないのは、戦争を起こさせないための抑止力としての核兵器の役割を失わせることができないという考えによるものと思われます。

 戦争を起こさせないための抑止力は確かに必要ですが、それを一部の国だけが保有する核兵器に頼るというのは、とても正常とは言えません。核戦争の恐怖と共にある抑止力を続けるわけにはいきません。

 世界中の人たちが安心できる抑止力を、世界中の人が協力して生み出していかなくてはいけません。

 たとえ、核兵器が抑止力としての役割を果たす場合でも、核兵器の拡散を防止するために働くべきであって、紛争の解決のために使用する、というのは示唆するだけでもよくないと思います。使用を示唆することは、小国やテロリストたちが自国や自分の防衛のために核兵器を持ちたいと思う、かっこうの理由になってしまうからです。

 
 

原爆を使用したことや核兵器について、アメリカの人たちはどう思っているのでしょうか?

 

 原爆投下に携わっていた人たちは、「この原爆によって、戦争を早く終わらせることが出来る。そうすれば、多くのアメリカ兵を救うことができる」と信じて、この任務を遂行しました。

 そして、原爆投下に成功したその日は喜びに沸き、夕方から深夜遅くまで盛大な祝賀パーティーが開かれたそうです。

 「原爆によって戦争を終わらせることができ、多くの人を救った」当時のアメリカの人たちの多くがそう思っていたようですし、その考えは現在も大きくは変わっていません。 

 今でも、原爆投下を指示したアメリカ大統領のトルーマンを「戦争を早期に終わらせ、多くの兵士を救った」という評価が多くを占めています。

 2005年に行われたウォールストリートジャーナルによる「歴代46人の大統領人気ランキング」で、核開発を進めたルーズベルトが第3位、原爆投下を指示したトルーマンが第7位でした。

 昨年(2015年)、アメリカ・ニューヨークの国連本部で核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれました。

 会議が始まる前日、ニューヨークの大通りで、1万人規模のデモが行われました。広島・長崎の被爆者をはじめ世界約30か国の方々が参加したそうです。それは、「核兵器廃絶の大切さを多くに人に知ってもらう」という真摯な気持ちであり、大きなインパクトを与えたようです。

 しかしその一方、そのデモを冷ややかな目で見ていたアメリカの人たちも多かったようです。その人たちの考えはつぎのようなものです。

 

「核兵器廃絶と言っているが、核兵器があるから大きな戦争が抑止されているんだ。もっと現実を見なくてはいけない」

 

「日本は被害者だ被害者だ、と言っているが、そもそも戦争を始めたのは日本じゃないか。なぜ、原爆を使用することになったかも考えなくてはいけない」

 

「原爆使用によって助かった命はアメリカ兵だけではない。原爆を使用しなかったら、日本本土での戦いとなって日本も原爆よりももっと多くの被害になったはずだ」

 

  日本では、「原爆は絶対にいけない」ということは日本人みんなが持っている常識のようになっていますが、アメリカの人たちにとってそれは常識ではないし、違う考えを持っている人もたくさんいらっしゃるのです。その事実を認識し、その考えが正しいとか間違いだとか、そういうところを越えたところに、核なき世界への道が開けてくるように思います。

日本も核兵器を持つべきだとする主張はあるのですか?

 

 日本も核兵器を持つべきだと主張する人は少なからずいます。

 不穏な行動を続ける中国だけではなく、北朝鮮も核兵器を持ってしまいました。また、アメリカの力も弱くなり、日米安保の信頼性に対する不安も出てきました。そういった状況を踏まえ、日本に攻撃をさせないためには核武装することが最も有効だ、という考えです。

 しかし、核兵器の恐ろしさを身を持って知り、核兵器のない世界を目指して世界をリードする役割が最もあるべき日本が、もし核兵器を持ったとしたら、それこそ、核拡散は防ぎようがなくなってしまうでしょう。

 日本は絶対に核兵器を持つべきではないと思います。

 とはいっても、核武装を主張する人達も日本を守りたい気持ちで主張しているのですから、その気持ちを尊重して、核兵器のあるべき姿や核兵器に頼らない抑止力のことを議論する必要があると思います。

 

 

参考文献等

『もう一つの核なき世界』 堤 美果著 ・・・甲斐市図書館 在庫あり

『綾瀬はるか「戦争」を聞く』 TBSテレビ「ニュース23」取材班 

                  ・・・ 甲斐市図書館 在庫

『原爆投下決断の内幕』アルベロビッツ著 ・・・甲斐市図書館在庫あり

『その時歴史は動いた―ポツダム宣言・米ソの攻防』 NHK番組

外務省ホームページ

広島市原爆資料館ホームページ

長崎市原爆資料館ホームページ

広島市ホームページ

長崎市ホームページ

ウィキペディア「核兵器」「広島への原爆投下」「長崎への原爆投下」

 

その他、多くの本や資料を参考にさせていただきました。

追って、記載させていただきます。

 

 ◇ 核兵器の開発そして原爆の投下前夜 ◇

そもそも、核兵器って何ですか?

広島と長崎で使用された爆弾は種類が違うのですか?

核兵器と通常の兵器との違いを教えてください

原爆はいつ頃、開発されたのですか?

最初はドイツを念頭に原爆開発が始まったのですか?

当時アメリカ国内に日本への使用した人たちはいましたか?

反対を押しのけて、日本に使用したのはなぜですか?

ポツダム宣言を受け入れなかったから、原爆が使用されたのですか?

《 コラム 》アインシュタインの名誉のために!

 ◇ 原爆投下 ◇

なぜ、広島と長崎がターゲットになったのですか?

広島に投下された時のことを教えてください

長崎に投下された時のことを教えてください

長崎に使用する必要はなかったと思うのですが・・・

 ◇ 核兵器の今 ◇

現在、全世界に核兵器はどれくらいの数があるのですか?

核保有国はどのように増えて行ったのですか?

核兵器の広がりを防ぐための取組みについて教えてください

なぜ、核兵器の使用は禁止されていないのですか?

原爆使用のことをアメリカの人たちはどのように思っているのでしょうか?

日本も核兵器を持つべきだとする主張はありますか?

 

 

あの時、あの場所で・・・

どうだったんだろう?

山梨県原水爆被爆者の会「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会