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甲友会より

甲友会についてや会員の想いメッセージを載せました。

甲友会メンバーの想いやメッセージを載せましたので、よろしければ、覗いてみてください。

 

いずれは、甲友会の活動状況や被爆者の方の不安に応えられる質問コーナーも設けていく予定です。

山梨県 被爆者 体験談

被爆体験

ホームページの立ち上げにあたって

 この度は、「甲友会」のホームページを訪れていただきありがとうございます。

甲友会では、今まで、「きのこ雲」という冊子を5冊発刊し、その中で、被爆経験者の体験を載せてきました。総勢約103名(匿名の方が重複している可能性があるので、正確ではありません)の被爆者の方々による132話のとても貴重な体験談です。

 私は被爆2世で、被爆2世が甲友会のメンバーとして活動を始めたのは、ほんの数年前であり、5冊の「きのこ雲」はいずれも被爆者の方々が自ら勇気を持って、綴り作成したものです。

 私は、甲友会の会員になって初めて「きのこ雲」の存在を知り、そこに記載されている体験談に触れることができました。当時の人々の思いや行動に触れ、その時のことをとてもリアルに感じることができました。そして、平和や戦争のことを考えるきっかけをいただいたのです。

 当時、あの場所にいた方々は、信じられないような経験をなさってきました。

経験談を書くということは、当時のことを思い出すことです。できれば記憶から消したい悲惨な経験を思い出すことは、とてもつらい事だったと思います。それでも、後世の人たちのためにと、勇気をもって書いてくださったのです。

 この貴重な体験談をより多くの方々に知っていただきたく、ホームページを作成することに致しました。

これまでは「きのこ雲」という冊子に、運よく出会えた方だけが知ることができた貴重な経験談を、このホームページを通じて、一人でも多くの皆様にお届けできましたら幸いです。

 

体験談を読むにあたって、​ひとつ心にとめておいてほしいことがあります。

それは、ここに体験談を載せることのできた被爆者は、運よく、本当に運よく生きてこられた方々ばかりだということです。

当時広島や長崎の被爆地近くにいらした多くの方々が、体験談を書くこともできず、お亡くなりになっています。

また体験をされた方々には、思い出すことが辛く、話すことも書くことも出来ない人もたくさんいらっしゃいます。

 そのことを心にとめていただきたいと思います。

 

平成28年(2016年)4月29日  山梨県原水爆被爆者の会「甲友会」 被爆2世 焼広和欣

甲友会について

 甲友会について

被爆体験

「甲友会」は「山梨県原水爆被爆者の会」の通称です。

 

山梨県在住で、

広島と長崎での原爆の体験をされた方々(被爆者)25人

父または母が被爆者である被爆二世  17人

合計51人によって構成されています。

主な活動は、

原爆体験を伝えることと、

被爆者の方々のご相談にお応えしていくことです。

ちなみに山梨県には、

被爆者の方が 57人(広島36人、長崎21人、平均年齢 83.4歳)

被爆二世の方が 40人(平均年齢 58.0歳)

お住いになっていらっしゃいます。(甲友会会員含む)

(令和3年3月31日現在)

メッセージ

甲友会会員の想いやメッセージ

 ここでは、甲友会の会員の想いやメッセージを載せさせていただきました。

どんな想いで活動しているか等、書かせていただきました。

 

 ★タイトル名をクリックして下さい。

  タイトルがないところは、ただいま準備中です! 

被爆体験
「HP開設にあたって...」中島辰和

甲友会ホームページ開設にあたっての思い

 

「甲友会」事務局長  中島 辰和  

広島で被爆      

 

 

 被爆二世会長を中心に若く生まれ代わった甲友会は、核兵器の脅威や被爆の実情を広く知ってもらう実相活動と老齢化した被爆者の良き相談役となる相談活動に軸足をおいた活動に特化し、呼称を被爆者の会に変更しました。

 このたびは、ホームページ開設という、今まで考えたこともない快挙を成し遂げました。被爆者が100人に満たない地方県の被爆者団体でのホームページ立ち上げは、会の存続に大きく寄与する礎となるもので、まさに、画期的なことと思います。

 ご多忙な中でホームページ立ち上げを成し遂げられた焼広和欣会長に心からお礼申し上げます。また、膨大な被爆証言の打ち込みにご協力いただいた被爆二世の阿部朋子さん、日向偉夫さん、望月由貴さん、焼広和欣さん(50音順)に深く感謝いたします。

 

 ホームページには、既刊の小冊子「きのこ雲」5分冊に掲載された県内被爆者の被爆体験や平和への願いが紹介され、いつでも、だれでも読むことができます。素晴らしいことです。

 

 ホームページが、私たち被爆者・被爆二世の核兵器廃絶への発信基地として発展し、成果が得られることを願っています。

「語り継ぐこと・・・」焼広和欣

 語り継ぐこと、今できる大切なこと  

 

 

焼広和欣 被爆二世 広島で父が被爆 


 この度は、甲友会のホームページに訪れていただき、ありがとうございます。

たくさんの体験談を掲載させていただきましたので、少しずつ何度でも訪ねていただけましたら幸いです。

 被爆者の方々は、今の時代の私たちには想像すら出来ないほどの悲惨な光景を目にし、悲痛な思いや体験をされました。その経験は並大抵なものではありません。何人かの体験談に触れていただいただけでも、あの時のことをリアルに感じていただけるのではないでしょうか。

  私は、広島に生まれ育ち、学校では「平和教育」という他県では珍しいと言われる授業も受け、成人して参りました。それでも実は、自分自身が「被爆二世」であることを実感したのは、40歳代半ばでした。いかに他人事としてしか考えていなかったか・・・。被爆二世であることを実感した丁度その頃、広島市で小学校の時の恩師にお会いする機会がありました。その時初めて知りましたが、先生は長く被爆者のことで活動されていたそうです。そんな先生が、なぜか私に「ワシはもう年じゃけえ、これからは君たちが頑張ってくれ!」と被爆に関する大切な本や資料を渡されたのです。それにもかかわらず私はそんな大切な資料を、いつか見ようと思いつつ本棚の奥にしまったまま・・・という有様でした。

 そんな私ですが、縁あって、甲友会の事務局長をされている中島さんと出会うこととなり、私も被爆二世として甲友会の活動をお手伝いさせていただくことになりました。それがきっかけとなり、被爆された方々のお話をうかがったり、『きのこ雲』の被爆体験を読ませていただいていく中で、たくさんのことを考えさせていただきました。 核兵器の何が恐ろしいのか? なぜ核兵器が使用されてしまったのか? 核兵器をこの世から無くしたいが、それは可能なことなのだろうか? そもそも、なぜあの戦争は起きてしまったのか?  戦争のない世の中はつくれるのか? 平和のために私たちにできることは何なのか? ・・・これは難問で、日々、自問自答する毎日です。

 縁あってこのホームページを訪ねてくださった皆様にとりまして、ここで紹介させていただいた被爆者の体験が、核兵器や戦争や平和について、考えるためのきっかけや参考になれましたら嬉しいです。
 それらについてどう考えるかは、もちろんみんな一人一人違うことでしょう。甲友会のメンバーも一人一人違った考え方を持っています。それでいいと思っています。というか、それがいいと思っています。

  私は、山梨県に住むようになって、初めて山梨県にも広島や長崎での被爆者がいらっしゃることを知り、「なぜ、山梨に被爆者がいらっしゃるのだろう?」と不思議な気持ちでした。

 『きのこ雲』を読むと、当時、兵隊として広島や長崎に赴任されていた方も多かったことがわかりました。

 兵隊として救護活動されていた方々は、自分たちも被爆されたにも関わらず、市民の方々を必死に救助されていたことも知りました。

 自分の命も顧みず、必死に活動してくださったお陰で、助かった命も多いのではないかと思われます。

 山梨のご家族の元を離れ、遠く広島や長崎で、そこに暮らす方々のために命を懸けて働いてくださった方々に対して、私はもっともっと感謝しなければならいと思うようになりました。

 また、兵隊で赴任されたのではなく、親御さんの仕事の関係やもともと広島や長崎に住んでいらして被爆された方もいらっしゃいます。

 原爆は、年齢や職業に関係なく、その場所にいたすべての人に対して、被害を及ぼしたことがわかります。

 東京や甲府の都市空爆や沖縄戦と同じように、国際法が守られない戦争になってしまったことが本当に無念でなりません。

 本当に今の今まで、あの時の戦争のことを知らなかったなあと思います。

 「歴史は繰り返す」と言われますが、学ばないから繰り返してしまうので、あの時の戦争のこともしっかりと学んで行きたいと思います。

 

 私は、甲友会のメンバーとして被爆者の体験を語り継ぐ役割を担っておりますが、語り継ぐことでどのように平和な未来に貢献できるのだろうか? これも日々、自問自答しております。

 核兵器が使用される悲惨さを多くの方々に伝え、世界から核兵器が廃絶されることを目指す、という大きな一つの目標があります。

 しかし、私にはまだ不安が残ってしまうのです。核兵器だけが無くなれば、世界中の人々が平和に暮らせる日々が訪れてくれるのでしょうか?

 核兵器がない世界がやってきたとしても、もし、各地で戦争や紛争が頻発し、多くの死傷者がでてしまったり、身近な所でも人を傷つけてしまうこと等が頻発するような世の中だとしたら、それはとても平和な世の中とは言えないでしょう。

 核兵器廃絶を目指すという目標に向かって歩みながら、その都度気づかせていただいた大切な役割を模索していきたいと思います。もしかしたら、それは本質的なことに心を寄せて行動することに立ち還ることになるのかもしれません。自問自答するばかりで、未熟な私にはまだわかりません。

 どうぞ多くの皆々様に被爆者の方々の貴重な体験談に触れていただき、それぞれいろいろな場所で、様々な考えや想いをめぐらせていただき、ご教授いただけましたら幸いです。

 被爆者の方々は、本当に言葉では語り尽くせないほどの辛い体験をなさっていらっしゃいました。

 その苦しい想いを超えて、後世のために・・・と語って下さったその想いが、より多くの方々の心に届きますことが、何よりも被爆者の方々の切なる願いです。

 そして、本物の平和な世の中を作ることに貢献できるとしましたら、被爆者の方々の辛い体験も、あらゆる戦争や紛争で苦しまれた方々や御霊にも報われる日が訪れるのではないかと、祈る思いです。

「平和に向けて・・・」内藤幹夫

平和に向けて私たちができること

 

甲友会被爆二世理事 内藤 幹夫 父が広島で被爆

 

①被爆体験を語り継ぐことの意味

 毎年、夏になると各地で戦争体験や空襲体験、原爆に関することなどの展示会、講演会、学習会等が開かれています。また、テレビや新聞などのメディアにおいても特集が組まれています。甲府市でも昭和20年7月6日の甲府空襲の日に合わせて、各種団体による甲府空襲展やそれに関するイベント等が開かれています。また、甲府市では昭和57年7月6日に核兵器廃絶平和都市宣言を行っています。以降、甲府市民代表や中学生代表を広島市平和記念式典に送り、その後も式典参加者による平和活動を行っています。

 今年(2015年)は被爆70年目の節目の年に当たり、原爆についての知識や意識が薄らいでいく中で、改めて原爆被害の悲惨さや被爆体験を語り継いでいくことが叫ばれています。しかし、生存されている被爆者の方も年々少なくなり、直接被爆体験を聞くことが難しくなりつつあります。そこで、私たち被爆二世が中心となって、被爆者の方々に代わって被爆体験を語り継ぐことが必要です。広島市などでは、語り部活動として、若い世代の方々が聞いたり調べたりしたことをもとに被爆体験を語り継いでいるとのことです。私たち甲友会としても被爆70年の今年をはじめとして、被爆体験を語り継いでいきたいと考えています。

 私は、現在、甲府市内で小学校の教員をしています。これまでにも授業の中などで、機会あるごとに、子どもたちに平和の尊さや戦争の恐ろしさ、核兵器の恐怖などについて話してきました。また、前述の甲府空襲展に児童を引率していったこともあります。自分のライフワークの一部として、毎年個人的に甲府空襲展や原爆についての写真展などにも出かけています。

 戦後40年目に当たる昭和60年に甲府市民代表として広島市平和記念式典に参加したことがあり、初めて実際に広島の様子を見てきました。前日の夜には多くの市民が慰霊碑に向かって拝礼し、花を捧げていました。また、当日も多くの被爆者や戦争体験者から戦争の悲惨な様子を聞きました。その関係で、現在も甲府市平和教育推進協議会の会員になっています。以来、広島の式典には初回を含めて計3回出かけています。

 

 私は甲友会の被爆二世理事に昨年就任しましたが、私の父が広島で被爆しています。中学生の頃より父から被爆体験を聞き始め、自分が被爆二世であることを自覚しました。また、前述の甲府市民代表には父も参加しています。父は、当時陸軍から徴兵され、暁部隊の通信教育隊に配属されていたそうです。昭和20年8月6日には、持ち場である壕の中で普段と同じく通信機器の整備をしていたそうです。8時15分、突然の爆風で壕の梁の丸太に直撃され、頭と首を打たれ、しばらく意識をなくしたそうです。何とか意識を取り戻し、外に這い出てみると、町は廃墟と化し、うごめく人々でいっぱいだったそうです。当日の様子はよく覚えていないと話していました。熱光線にはあっていませんでしたが、放射線被害が大きく、復員後、40度以上の高熱に半年以上苦しめられたそうです。また、晩年まで、頭と首を直撃されたことによる後遺症で、しびれがずっと収まりませんでした。

 私は、このような体験を直接父から聞いていましたので、私の職業柄この話は児童に伝えていかなくてはならないと常々思ってきました。父は会社員でしたが、生前「きのこ雲」に平和について伝えていかなければならないことを手記として掲載しています。

 

「きのこ雲」第3集(昭和60年)より抜粋(筆者 甲府市 内藤藤三)

 私たち被爆者は身をもって体験した放射能を世論に訴え、これから二十一世紀を生きていく子どもたちに、再び原子爆弾などという一発で何十万人もの大量殺人を行う兵器が、この世で使われることのないよう心から願って、核兵器廃絶を積極的に伝えていかなければいけないという責務があります。

  甲府市では昭和五十七年、全国で最初に「核兵器廃絶平和都市宣言」をしました。そして平和への願いをあらたに、平和記念事業の一環として(中略)テレビ座談会を行いました。(中略)また、昭和五十九年八月六日には広島市主催の平和記念式典に全国の自治体に先がけ、甲府市民の四十三名が平和を願う心で広島市へ派遣されました。(中略)平和記念式典への参加が、今後、地域に深く根をおろし、私たち一人ひとりが平和運動へと発展することが望まれます。

 

「きのこ雲」被爆60周年記念号より抜粋(筆者 甲府市 内藤藤三)

 「原爆の悲惨さを伝え 体験を世論に訴え」

 原爆や戦争がいかにむごいものか、生あるいま訴えておかねば、今の時代の子供や若者に残せる最大の遺産は戦争や原爆の悲惨さを伝えることであります。広島・長崎は原爆投下の熱放射による火災と火傷、その他放射線障害等から力強く立ち上がって六十年が過ぎました。終戦の昭和二十年に生まれた子供達も六十歳を超えました。世の中はあまりにも変わってしまい忘れ去られてしまうような気がします。戦争を知らない人々にこれらを語り継ぐことと、平和と永続的な安全と実現を願いながら戦争の悲惨さ、核兵器の罪深さを後世に語り伝えて、私達被爆者は身をもって体験した原爆を世論に訴え、これから二十一世紀を生きて行く子供達や若者に語り継ぐことの大切さと再び原子爆弾などという大量殺人を行う核兵器がこの世で使われることのないよう心から願って、核兵器廃絶を積極的に伝えていかなければいけないという責務があり、つらい記憶をたどりながら、思い出話を私達被爆者は皆んなで花を咲かせ、実をならせ、育てて行きたいと思います。

 

 この二つの手記に書かれているように、生前父は、甲友会理事として長年平和について伝えていく役目を担う一員として頑張ってきました。そこで、私も父の遺志を引き継ぎ、被爆者の願いを私達被爆二世を中心としたこれからの世代がしっかりと語り継いでいく必要を感じて昨年被爆二世理事を引き受けました。今後は、あらゆる機会に原爆の悲惨さや平和の大切さについて伝えていきたいと思うものです。

 

②私たちにできること・・・平和は隣からはじまる

 昭和20年7月6日は甲府空襲があった日です。毎年7月6日前後には、各種団体、実行委員会主催の「甲府空襲 戦争と平和・環境展」と題して平和について考える展示会が開かれています。甲府空襲についての展示が主ですが、広島・長崎の原爆の被害に関する展示も行われています。また、広島に折り鶴を送る活動もしています。私は毎年一般参加者として訪れていますが、この機会に多くの子どもたちも学校を通してや、親に連れられて等の形で参加しています。一年に一度でもこのような機会に平和について考えることは非常に大切なことではないかと思います。

 今年はその展示期間にあわせて県立図書館で「戦後70年」「山梨と戦争~終戦70年~」と題して、関連図書の展示もされました。その中の一冊に「きのこ雲 被爆五十年記念誌」がありました。改めて読んでみたところ、ちょうどその前年に「被爆者援護法」が制定されたということで、被爆者の方々の思いが多く載せられていました。行政からは被爆者援護法制定がよいことだったというコメントが載せられていますが、被爆者の方々からは「国家補償に基づく被爆者援護法を」という意見が入れられず残念だったという意見が多く載せられています。

 

 戦後50年たって、被爆者の方々は70歳を超える方々が多くなり、健康に不安を持ちながら生きてきたという思いが多くあったように感じました。中には、「健康管理手当受給対象の拡大を」といった意見もありました。また、重い病気にかかり手術を余儀なくされたという方も多くいました。

 戦争の責任についても意見がありました。「アメリカは原爆投下は戦争終結のためには当然のことだったといっているがとんでもないことだ」とか、「戦争についてもその後の保障についても政府の責任だ」という意見がありました。

 

 また、私達被爆二世に関わることとしては、「子どもが無事に育つか心配だった」とか、「被爆者であることをかくして結婚した」というような苦悩も書かれていました。私事ですが、子どもの頃母からよく「おまんは血が薄いからなあ」と聞かされたことがあります。そのときはあまり気にしていませんでしたが、50歳を過ぎて、この頃時々頭がふらつくことがあり、血液検査の結果から貧血気味という診断が出たことが気になっています。もしかするとこれも父の受けた被爆の影響なのかと心配になってきました。今のところ被爆二世には被爆の影響はないだろうという見解が多いですが、今後も心配です。

 東京都や神奈川県では被爆二世についても被爆者と同じように健康診断やがん検診が無料になったり、医療費が無料になったりする制度があるそうです。山梨県では被爆二世健診で簡単な検査を無料で行っています。しかし、同じ被爆二世でも、住んでいる都道府県によって対応が違うというのは不公平な気がします。国の制度として被爆二世にも全国同様な保障がなされることを望みます。

 

 これまで長い間被爆者の方々が先頭に立って活動をしてきていただいたおかげで、平和に対する意識がかなり一般の方々に浸透してきたと思います。また、今でも健在の方々により被爆体験を語り継いでいただいていることに敬意を表したいと思います。

 これからは、私達被爆二世が中心となって被爆者の方々の後を引き継ぎ平和活動を推進していく必要があると思います。それにはまず身近なところから草の根運動としてでも少しずつ平和に対する関心をもってもらうことが必要です。

  甲府市では、毎年、7月6日の甲府空襲の日、8月6日の広島原爆投下の日、8月9日の長崎原爆投下の日、8月15日の終戦記念日の正午に、甲府市長からのメッセージと共に黙祷を呼びかけています。私たちにできることは、それに合わせて平和を願う気持ちを持って黙祷を捧げることから始めていくことです。これは甲府市民に限ったことではなく、国民のみんなが平和を願う気持ちを持つことです。

 

 学校教育についても、平和について扱う時間はあまり確保されていないのが現状です。小中学校では、社会科の学習で、戦争や原爆などを扱っていますが、教科書でも7~8ページ程度で2~3時間扱いといったところが多いです。高校では、日本史で第二次世界大戦などを扱っていますが、授業としては短時間扱いのようです。これからは、社会科だけではなく、総合的な学習の時間なども使って、平和教育を推進していくことも重要かと考えます。また、学校行事として平和集会を行うことも検討していただきたいです。

 一人ひとりがまずは前述のような平和に関する行事に参加し、知識を深め、自分たちにできることは何かを考えていくことが大切です。その上で、国に対して、今も苦しんでいる被爆者の方々や被爆二世、三世、四世…などについて健康面や財政面での保障を訴えかけていくことが必要であると考えます。

 

 最近、「集団的自衛権」や「憲法9条改正」等の問題がクローズアップされてきています。「政府は日本を戦争のできる国にしたいのか。」といった意見も多く聞かれます。また、中国や韓国などとの島をめぐる問題も看過できません。二度と再び恐ろしい核兵器を使った戦争をしないでほしいという被爆者の思いも含め、今後近隣諸国との関係を平和的なものにしていってほしいと思います。そのためには、平和は隣からはじまるということを意識し、今後私たちにできることは何かを考えていかなければならないのではないでしょうか。

「広島市平和式典に…」内藤幹夫

広島市平和記念式典に参加して

甲友会二世理事 甲府市 内藤 幹夫

 

 平成28年8月6日、山梨県原水爆被爆者の会の推薦を受けて、山梨県遺族代表として広島市平和記念式典に参加しました。遺族代表としては2回目になりますが、これまでに今回も含めて4回広島を訪問したことになります。

 1回目は昭和60年、被爆40周年の年、甲府市の代表として各地区からの応募者の抽選により参加することができました。

そのときは、たまたま別に応募した、広島での被爆者である父も一緒に甲府市の代表として参加しました。たまたま親子での参加となりましたので、その時の様子は帰ってきてからYBSのテレビ

で放送されました。

 2回目は平成21年、甲府市教職員組合の一員として広島を訪れました。その際は、父が被爆した比治山をたどりました。

1回目の時にも父と一緒に比治山を訪れましたが、20年以上たっており、記憶もあいまいになっていたので再度一人で訪れました。

 3回目は、平成25年でしたが、前年に父が他界しましたので、山梨県原水爆被爆者の会の推薦を受けて、山梨県遺族代表として広島市平和記念式典に参加しました。原爆死没者名簿奉納では、

父の名前も書かれているのだと思うと思わず涙が出てきてしまいました。 

 そして今回4回目ですが、昨年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に父の関する資料を掲載、保存していただくため送ったものが展示されているかを確認に行きました。送った父の写真、母の写真、父の遺影を抱いて自宅前で撮影してもらった私の写真、父が生前書いた手記などがきちんと保存展示されていて安心しました。

 実は私にとって8月6日という日には2つの意味があります。1つは昭和20年8月6日に父が広島で被爆したこと、2つには平成20年8月6日に母が他界し、母の命日となったことです。母は被爆者ではありませんが、父の被爆により、私は被爆二世になります。

 毎回思うのですが、8月6日の広島はとても暑い猛暑日が多いです。たたでさえ暑くて熱中症になりそうな陽気なのに、そんな猛暑の中、原爆が投下され、薄着だった市民は熱線で皮膚を焼かれ、のどが渇いたために水を求めてさまよい歩いたのです。今では想像もできないような光景だったことでしょう。私の父は幸い壕の中にいて直接の難は逃れましたが、放射線による被害で苦しみました。陸軍の通信兵として召集されていた父は、山梨に復員後、高熱を出し、半年間寝込んでしまったそうです。当時は原因もわからず、ただ回復を待つのみだったそうです。そのためか、父は原爆投下後のことについてはあまり覚えておらず(もしかするとあまりの恐ろしさに記憶が飛んでしまったのかもしれませんが)、ただ夢中で過ごしたことだけが記憶に残っているとのことでした。

 父も生前いろいろな手記を残したり、講演会に呼ばれたり、テレビ出演をしたりしながら平和について訴えてきました。私は被爆二世として、父の語り部活動を引き継ぎ、子供たちに伝え続けることを強く誓っています。平成28年8月6日付の山梨日日新聞ではそのことを記事にしていただいたものが掲載され、反響を呼びました。

 毎年甲府市の学校では、広島に折り鶴を送っています。甲府市の中学校の代表が広島に行き、折り鶴の塔の近くに捧げています。今年はたまたま広島に行く列車で一緒に乗った市川三郷町の代表が持って行った折り鶴も見てきました。           

今年の5月にはアメリカのオバマ大統領が広島を訪れ、広島市平和記念館に自らが折った折り鶴とメッセージを残していきました。アメリカの大統領が初めて被爆地を訪れたことは大変意義深いことだと思います。今後さらに核兵器廃絶を進め、平和な世の中にしていってほしいと思います。

今回の訪問ではもう一つ訪れたいところがありました。昨年TBS系のテレビで放映された、綾瀬はるかさんの朗読による「いしぶみ」に書かれた旧広島二中犠牲者の慰霊碑をぜひ訪れたいと思ったのです。後でわかったことですが、実は山梨県原水爆被爆者の会の会員の方のお兄さんが原爆投下時、旧広島二中の1年生で、建物疎開に出て犠牲になったということです。放送のビデオを見直し、慰霊碑の名前も確認しました。碑の前で合掌しました。

昨年、YWCA主催のピースフェスタで講演を依頼され、50人ほどが聞きに来てくださいました。また、山城小の6年生に特別授業をしました。今後も、教員として、また、被爆二世として、父の遺志を継ぎ、核兵器のない世の中になるよう平和について語っていきたいと思っています。そして恒久平和を願っています。

山梨県原水爆被爆者の会「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

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