死と廃虚の街より        

山梨県甲府市 米内 達成さん 

当時6歳、 甲府空襲で家を消失したため、広島の母の実家に避難し被爆、爆心地から約1.5キロ 

 

 私は自分の遺骨と戒名を前にして、どんな気持であったろう。

 昭和20年8月末のある日、私と父は、向い合って長い間口もきかずに座っていた。

 父の気持が、私の心がどんなであったか、当時6歳、小学校1年生の私はあまりにも子供であった。

 

 昭和20年7月、甲府市は、大群のB29によって、空襲を受け、私と母、妹2人が住んでいた、寿町の家はもちろん焼失してしまい、集団疎開で中巨摩郡のある寺にしばらく起居していたが、母の実家である広島市に行く事が決り、7月の末に大変苦労してキップを手に入れ、広島までの長い道中、空襲につぐ空襲によって、汽車はのろのろと走っては止り、止っては走るという具合で、名古屋では汽車を全員降りて、空襲警報が解除になるのを地下道に入って待つ事もあり、現在ではとても考えられない日時を費やして、私たち一行は深夜の広島市にやっとたどりついた。

 しかし母の実家は当時強制疎開で、以前住んでいた家が別の所に移され、大変な苦労をして、舟入本町の移転先に落ちついたのは、すでに夜明けに近かった。

 今、この手記を書きながら、6歳の私、3歳の妹(イツ子)、1歳の妹(不二子)を連れて苦労をした母の気持がヒシヒシと感じられます。

 母の実家には、祖父(開業医、健在97才)、祖母(死亡)それに永年お手伝さんとして住み込んでいた、キミさんと看護婦1人の構成で内科医を営んでいた。

 私たちは遠路苦労を重ねてきた事なども含め、お互いに無事をよろこび合い、近日中に母の妹(現在の母)がトラックの運転手と共に山の中へ引越すためにやって来る、それまで広島市も空襲にやられなければ良いがと、いつまでも、祖母と母は話し合っていた。

 何事もなく、1日、2日とたっていった。8月6日(もちろん後で知った事であるが)、朝食が終った直後、空襲警報のサイレンが鳴りひびいた。しかし、短い時間で、警報は解除になり、人々はそれぞれの仕事にもどっていった。

 この日も相変わらず、広島の空は青く澄んでいたし、市内を流れる川も、まわりの山の木々も緑に輝いていた。

 私は、警報が解除になってしばらくして、すぐ下の妹をつれて外に遊びに出た。しかし、遠くから来た者に当然、友達など居るはずもなく、近くの住吉橋まで行って帰って来たが、妹だけ家の中に入れ、私は近くで遊んでいる子供たちのそばで、彼らのやっている事を見るともなしに見ていた。

 その場所は、片方にコンクリートの高い塀があり、それがこの路地に差しこむ、夏の強い陽光をさえ切っていた。

 子供たち(もちろん私も子供であったが)は、大きな丸太の上に乗り、2人で大きな鋸をフウフウ云いながら使っていて、残りの3人ほどが近くで何かしゃべりながらこれを見ていた。周囲はとても静かだった。

 突然、子供たちの1人がさけんだ。

「アッ、Bだ。」

 その声にみんな空を見上げた。かすんではあったが、重々しい重爆撃機特有のなんともいいようのない爆音が聞こえた。

 そして、ほんの少し間をおいて、一瞬、目もくらむような光が私たちをつつんだ。

 子供たちは先を争って近くの家の中にとびこんだ。私もその後を追って、勝手口と思われるところに走りこむと同時に家がつぶれ、私は気を失った。

 近くでだれかがうなり声をあげていて、その声で気がついた。

 私は、つぶれた家の下敷になったのだが幸い角材が完全に折れず、合掌と合掌(屋根の部分)が互いに交差し合ったため、地面とつぶれた屋根との間に1米(メートル)ほどの空間ができ、そこに私はうずくまるようにしていたのだ。

 うめき声をあげているのは、さきほどの子供の1人で、とびこんだところが、ちょうど窓だったため、体中にガラスの破片がささり、血だるまになって助けを求めていた。

 「いたいよ、だれかお母さんを、お母さんをよんで…。」

 「お前の家はどこだ。」と私は、息をはずませて聞いたがさっぱり要領をえなかった。

 多量の出血と痛みでしゃべる事がよく聞きとれない事と、この近所の事が少しもわからなかったが、もう少し待て、呼んで来てやると云った。

 まわりをあらためて見た。先ほどまで元気に遊んでいた子供たちが、角材などの下敷になったまま動かずにいるのが、ほこりとさえ切られた光線の中でかすかにわかった。

 しかし、つぶれた家から出る事は簡単ではなかった。自分の体がいっぱいにくぐれそうな、角材の間をぬって、かわらをはぎ取って外に出てみておどろいた。

 建物らしきものは、視界に入らなかった。近くでは、両親や兄弟を互いによび合う絶叫と、ただ事ではない空気がただよい、すぐ近くの大通りを群衆が市外にむけて歩いていくざわめきが、まっくろな雲の下に展開されていた。ついさっきまでそこにあった。母の実家がどこなのか見当がつかなかったし、よその人に聞く事も出来なかった。つぶれた家を無理して出るときパンツがひっかかってぬげてしまって丸裸のまま、もえ出した家々のかわらの上を大通りの方に逃げ出していった。

 大通りから住吉橋、それからその先の畑の方は、人また人でつながっていた。

もちろん満足なかっこうをしている者はほとんど居なかった。

ケガをしたり、やけどをしたりした人が、ほとんどであった。

 住吉橋の上まで来て、川の中を見たが、そこには美しい流れはなかった。

川の水が湯気をたて、黒こげになった人間の死体をたくさんうかべ、ほかのがらくたなどと一緒に、おりからの引潮にゆっくりと川口にむけて流れていった。

 橋の上は、ケガをした人たちが血を流し、たおれ、肉身をよび合って行進していく。もし地獄があるならばこのような状態をいうのだろうか…。

 私は、橋を越え、左にまがり土手下の畑の中に避難した。そこには沢山の人がよりそうようにして、火事のおさまるのを待っていた。油くさい雨が背中のすり傷にしみた。

そばに居た、おばさんが自分の赤ちゃんのオシメで私に、フンドシを作ってくれた。近くの竹屋の竹がものすごい音をたてて、もえ人々はおびえたように首をすくめた。

しばらくして、市街地の火事は下火になった。人々の移動が始まった。

 祖父は、つぶれた家々が焼ける少し前、油くさい雨がふり始めた頃、たいしたケガもなく、ぺちゃんこになった自分の診察室から、はい出し、火に追われるようにして逃げたのでした。

 従兄妹たちもこの日、市電の中でやられ、伯母と一番下の女の子がなくなり、一番上の男の子は、その時は別に異状はなかったが、その後、髪の毛がすっかりぬけてしまったそうです。

 広島に始めて来て、地理をまったく知らない私であったが、いずれにしろ、母の実家付近だけでもどうなったか確かめずにいられなかった。まだ、あちこちから煙りが立ちのぼり、火にやけた土は足をようしゃなくあぶった。

美しかった街も、川も山も、木々の緑もなかった。

まさに、死と廃虚の街であった。

 まだもえさかっている、住吉橋近くをさけて、一つ上流の新大橋を渡って、やっと舟入の近くまで来たが、一面焼野原でどのあたりに、母の実家があったのか見当もつかなかったし、素足でまだくすぶっている焼け跡にふみこむ事は不可能であった。

 しばらくそのあたりをうろついていたが、どうする事もできず、焼跡のある市街地をさけて、歩いていく人々の群の中に入って、放心したように歩き続けた。その先に何があるのか、何が待っているかも知らずに、終日歩き続けた。

 夏の長い日がくれかかり、なんともいえぬ臭いをのせて、いくぶんすずしい風が頬をなでていく頃、横川の駅前に出た。しかしここも同じように廃虚ではあったが、警察署が建物らしい形を残しており、コンクリートの広い一階ホールは、負傷者の収容所となっていた。

白いとはもうお世辞にも云えぬ、白衣を着た、医師と看護婦が忙しく働いていた。薬はなかった。やけどもガラスによる切傷も赤チンか、軟膏をぬり、包帯をしていくしかなかった。まったく全てが失われてしまったからだ。

 私は幸いたいしたケガもなく、オシメのフンドシ一つで無事に横川の警察署に保護された。

 次に日から、私たち(他にも小さな子供たちが2、3人居た)は、駅前に張られた、大きなテントの中の粗末なベンチに座らされ、頭の上に大きな字で「迷子」と書かれた看板を立てられていた。

 そんなある日、私の前に小さな包を置いた40才くらいの男の人がこう云った。

 「ワシの息子はアンタによう似てる。息子は小学校6年生じゃったが小さい頃にようにとる。しかし、あの「ピカ」で死んでしもうた。この包の中は息子の着とった服じゃが、ワシが持っとっても仕方がないけん、あんたが着てください。」

 目をしょぼつかせ、涙をにじませながら、何度も自分の息子のようじゃとくり返し、息子の形見である服の包を私に押しつけるようにして、ふり返りふり返り人ごみの中に去っていった。

 私はただぼうぜんとその姿を見送った。

 

 その頃、叔母は舟入本町の焼け跡の整理と遺骨をさがすため、かんたんな、いわゆる、掘立小屋に起居していた。

 叔母は、8月6日に引越のため、舟入本町まで来る予定であったが、その前日、急な腹痛のため1日おくれて市内に入ったのだった。そして、私の骨がここでひろわれたわけである。

 

 8月9日頃であったと思う。突然、トラックが1台やって来て、私たち迷子(5、6人になっていたと思う)を乗せて「可部」という所まで運ばれた。孤児院のような施設であったように記憶している。

 そこには、私たちのような子供がねる2階建の木造家屋と警察署の演武場のような建物があり、小部隊の陸軍の兵隊たちが、演武場のような建物に入っており、食事の仕度など私たちの世話をしてくれる、おばさん、当番になった兵隊たちと一緒に手伝いをさせられて、何日かがすぎた。

 ある日異変が起きた。

いつも、にぎやかに教練をしたり、食事の仕度をしているはずの兵隊たちが1人も見えなかった。

 演武場の方にまわって、窓からのぞくと、兵隊たちが正座し、正面にある古ぼけたラジオから流れてくるボソボソという声に耳をたてていた。

 そして、しばらくたった。ほとんどの兵隊たちが泣いていた。

 その内の何人かが

 「そんな馬鹿な事があるものか―!」

 「オレは信用しないぞ―!」

と絶叫をあげて、窓ガラスをゲンコツで割る者、軍刀を振りまわして庭の立木を切りたおす者など、いったい何が彼らをそうさせているのか知る由もなかった。

 昭和20年8月15日、日本帝国主義軍隊が連合軍に無条件降伏した日であり、天皇がラジオを通じて国民に放送をした日であった。次の日、兵隊たちは、荷物を整理し、隊列を組んで、長い白い道を歩いて横川駅まで進んだ。

 駅の近くのバラックに兵隊たちは落ついた。その頃私は、兵隊が歩いたと同じ道を、毛布とユカタを大事そうにかかえ、以前「迷子」の看板の下でもらった空色の学生服を着て歩いていた。

 学生服は大きく、すそは、ヒザ上15センチまであり、ズボンをはく必要はなく、もちろん、そでも大きくまくり上げていた。

 何故、その施設をとび出してしまったのか、私には今でもはっきり説明ができない。

 しばらくの間、かわいがってくれた兵隊たちが居なくなったさびしさから、彼らのあとを追ったのだろう。

 

 日がくれて、あたりがうす暗くなる頃、やっと横川駅の近くにたどりついた。

 その時、先に着いていた兵隊たちの内の1人が私を見つけて、通りにとび出して、

 「オレたちのあとを追って来たのか。そうか、かわいいやつだ。」

 と私をみんなの居るところまでだいていった。兵隊たちもよろこんで、一緒にドラム缶の風呂へ入り、彼らと共に、バラックで一夜をすごした。

 

 横川駅はごった返していた。駅とは名ばかり、かんたんなプラットホームがあるだけであった。

 兵隊たちは、汽車の窓から手を振って口々に“元気でいろ”“さようなら”と云って走り去っていった。

 私はまた一人ぼっちになった。そしていつまでも駅のプラットホームに立っていた。

 

 「ポン」と肩をたたかれて振り返ると、中学生が立っていた。

 「オイ、お前1人か?」「ウン」とうなずくと、自分は実家が大阪にあるが1人で帰るのがいやだから一緒に大阪まで行こうという。私も1人で淋しかったのだろ、大阪行きを承知した。

 彼と私は当面の食糧として「カンパン」を警察署からかっぱらって、ポケットをいっぱいにふくらませて汽車に乗りこんだ。

 もちろんデッキにすわりこんで次の日の夜明けに大阪についた。

 その日は2人で駅の近くをうろついたり、阪神電車に乗って遊びまわった。

 夕方になり、彼の家があるという方面へ、又阪神電車に乗ってでかけたが、焼けてしまって、親たちもどこへ行ったかわからず、悄然として梅田まで帰って来た。

 2人はその夜、大阪駅の地下道でねむった。この地下道には、私たちの他にかなりの数の浮浪児が居た。お互いに体をよせ合ってねむっている。

 2人は、何度も彼の親をさがすため、あちらこちらを歩いてまわった。

 そんな2、3日が続いたある朝、彼は、私の荷物と共に消えていた。

 又、1人になった、地下道のつめたいコンクリートの壁に寄りかかって、何もする気になれなかった。

 復員してくる兵隊たちが、ハンゴウをくれたり、米をくれたり、又、いくらかの金を置いていってくれたので生命だけはなんとか持ちこたえていたようだ。

 又、ある兵隊は私の身の上話を聞き、お守り袋を作ってくれて、私の住所、氏名、年令などを書いて首につってくれた。

 そうして作られた私の財産も、ある日何者かにうばい去られた。

 

 私は駅員の居ないのを確かめて、改札口をくぐった。

 阪神電車に乗り、市街をはずれ、甲子園のあたりまで行ったのだろうと思う。電車を降り、海を見ていて思い出すのは、こわかった広島ではなく「甲府」での事だった。まったく急に甲府へ帰ろうという気持になり、矢も楯もたまらず、次の電車が来るとすぐ大阪に引き返し、今にも発車寸前の「名古屋」行の汽車にとび乗った。

 車中、異様な姿の私に色々とたずねる人がかなり居たが、ある中年のおばさんがくれたおにぎりが特別うまかった事を思いだす。

 名古屋駅についたのは、夜の10時頃であった。すぐに東京行に乗りかえ、洗面所に入るとすぐ横になってねむってしまった。

 となりにすわっていた、海軍の兵隊さんに起された。もうすぐ東京だという。さらに、東京のどこに行くのかと聞かれた。

 私は守り袋を取り出し、「甲府」まで行くのだというと親切に、東京駅から新宿駅までの電車の乗り方などをおしえてくれてから、「気をつけて行け。」と云ってくれた。

 

 汽車はものすごく混んでいた。

先頭の機関車はもちろん、連結機の上まで、復員して来た兵隊たちで、文字通り鈴鳴りであった。

 新宿を発車して、大月駅までは、いずれにしろ無事に来たのだが、車内の暑さに、デッキに出て来た私は、発車の時の振動で、ホームに投げ出されてしまった。

 汽車からころげ落ちた私はまさに道化役者のようなものだった。

 「浮浪児」など見た事もない大月の人たちが、たちまち私を取かこみ、黒山の人だかりになってしまった。

 駅前の旅館の人が「おにぎり」を持って来てくれたが、汽車において行かれた悲しさで、のどを通らなかった。

 駅前の交番から警官がとんで来たが、どうしていいかわからなかった。人はどんどんふえていった。

 しばらくして、自分の名前をよばれ、おどろいて振り返った。そこには、以前甲府に住んでいた時、近所にいた女の人が居た。

 彼女は、大月に嫁ついだが、この日用事があって、甲府の実家に行くところ、人だかりがしているのでのぞいてみたら私であるのに彼女もおどろいたといっていました。

 その夜、なつかしい甲府に帰る事ができた。後で聞いた事だが、その女の人も私を連れて帰って来るのにとてもはずかしかったそうです。当然だろうと私も思います。

 その頃、被爆後の急性症状と思われる、悪質な下痢にやられていたため、下ばきなし、例の学生服の上だけを着て、体中アカだらけであった。その人のお母さんなど、臭いといって、庭にタライを置き、私の体を洗ってくれた事をなつかしく思いだされる。

 

 寿町の以前住んでいた近所の人たちは、口々に、私の無事をよろこんでくれると同時に、母や妹がなくなった事を悲しんで、苦労をして広島まで死にに行ったようなものだと云った。

 

 父は、昭和20年の春に兵隊に行き、終戦と同時に甲府に帰って来たが、広島に行った事を聞き、多分生きてはいないだろうが、せめて骨だけはひろって来なければとすぐ広島に向った。

 きっと私が大阪の地下道でうろうろしている頃、頭の上を父は、汽車で通った事と思われる。

 またたくまに3日ほど過ぎた。

父が甲府に帰って来たという知らせをうけて、私は、荒川橋をころげるようにして走り、父が立ちよった、高畑のある家にとびこんだ。

 

 あれから25年あまりになりますが、時々家族で話しに出てくるのが、父が持ち帰った、私の骨の問題です。もちろん笑い話しですが、今の母が云うのには「どうしてもお前の骨がみつからなかった。」と云う。

 では誰れの骨だったのだろうか?いまだにナゾのままである。

 

以上、思い出すままを簡単にまとめました。もちろん不充分なところが沢山あるし、説明がたりないところもありますがよろしくご判読ください。

 私たち、原爆被害者が原体験を語り続ける事によって、再び核兵器がこの地上で使用する事をやめさせることができるならば、もっともっと語り続けるでしょう。

 原水爆が地上で完全に禁止されるまで、核戦争の危険が続くかぎり―

 原水爆被害者に対する援護法が一日も早く制定されるよう、広く皆さま方のお力添えをお願いします。

 

 あの時から     

山梨県甲府市 匿 名 

           当時18歳、広島で被爆 

 

 あれから24年余り。

頭の脳裡から忘れ得ぬ日、8月6日午前8時15分…。一瞬にして地獄絵と化した…『広島』

 私は当時、千田町日赤病院のベッドに身を横たえていましたが、生まれて初めて体験した悲惨なものでした。

 

 終戦となり私も復員しましたが、24年2月、急性盲腸炎を患ってから私の体に異状な硬直痙攣(けいれん)を伴う発作でした。この発作のために精神病院に2度も入れられ、種々な治療もむなしく原因不明のまま退院しました。其の後も発作は止らず、何処へ勤めても1ヶ月、長くても3ヶ月で退職をする状態で、親兄弟からは、唯、意志が弱いから長続きしないのだ、と一言にふしてしまいます。

  段々年を重ねるに従って、被爆当時受けた左眼上の創傷も中にガラスの破片があり、冬は痛み又、手足の硬直及び麻痺が強まり、何時も手足は、死人の様に冷たく、夏は汗流がひどく、人並みに働く事も出来ません。そして28年より33年迄、脊髄カリエスという病名でギブスベットに身を固め、3年目にコルセットとなり5年目に退院しました。

 其の後、生活保護を受け、入院した事も再三ですが、生きる為には日雇人夫から屑屋等、あらゆる仕事で使ってくれるというところは、一生懸命やりました。それでもやはり人並みには働けませんでした。結婚も初婚は完全に半年で裏切られました。

 

被爆者であるために私の子供は産みたくないと…。そして、現在再婚しましたが、妻は産まれる時の母体の条件から鉗子分娩で出され、そのため高校卒業間際にてんかん性痴呆記憶喪失症となったとの事です。

 私は今やっと精神障害者の妻と生活保護を受けながら日々をしのいでいるのです。

そして去年3月発作を起した直後、右眼が見えなくなり左眼も視力を失い、現在盲学校に通学しています。

通学と生活と精神障害の妻を抱えて生きていかなければなりません。

現行の生活保護金では、家賃を払い米を買えば終りです。

私達は被爆者援護法を政府に要求して来ましたが、政府はお義理に認定患者の医療補助金を増しただけです。

私達は日々自分の病魔と生活苦にあえぎながら暮している現状を訴え斗争に明け暮れていますが、年2回の健康診断も義務的に診るだけで全く其の不親切さには激憤を感じます。

当然国で保障すべき生活保障が私たちにはなされていません。

 

私達被爆者は身をもって体験した放射能の人体に及ぼす影響と、原爆後遺症の実態を世論に訴え、核兵器の阻止と再軍備反対を、再度私達のような犠牲者を人類から出したくないために声を大にして訴える次第です。

 

 生きられるだけ…          

山梨県下部町 匿名(主婦)

           当時22歳、広島で被爆 

 

 雲一つない青い空の下で寒いのにも汗びっしょり、労働の快さを感ずるこんな時、私たちはあの恐ろしい被爆者だという事が忘れられている時なのです。

あの一閃の光のために、一瞬の間に広島の街、そこに住んで居た人々が余りにすさまじい哀しみと恐ろしさのるつぼと化したのです。主人はその時刻には部隊にいましたが、建物の材木や壁土の下敷きの中で頭が大変熱くなって髪は全部抜けてしまいこれで死ぬのだと思っている時、女中さんが私の名を呼びながら材木をゆるがせ、自分の頭から顔から流れる血もかまわないで掘り出してくれました。2人で抱き合って泣いている間もなく、遠縁にあたり住居のお世話になっている家族の人たちを次々と必死の力で掘り出し、全員揃った時は囲りが火の海となっていました。地理になれない私が一番怪我が少なく、いつも「私を頼っていて下さいよ。」と仰言っていた叔父さまは眼が全然見えなくなってしまって、広島でも上位の暮らしを広い邸の中でしていた叔母さまや子供たちは、腰や足にひどい怪我をしてみんな裸足で逃げる途中も幾度「私をおいて逃げて!」と言ったか知れませんでした。背中にはその家の6つの長男をおんぶして、片方の肩には娘さんを、片方には蚊帳を持って逃げる途中「お母さんが木の下敷きになっているから助けて」と子供がこわれた家の中から飛び出て私たちに泣いてすがるのに、その願いを聞いてあげられなかったばかりに今になっても、ふっと、その時の悲しい声が思い出されてなりません。

 

 出産には随分心配しましたが、24年経って2人の男児はどうやら人並みに育って居ります。この頃になって被爆者という自分自身の事が、その当時は生きられて良かったという事だけで、将来についての心配は今程深刻に思わなかったようでした。今は、被爆者の悲しみを見るのも聞くのもさけたいような気持が致します。いつ自分たちにその日が来るかという悲しさです。子供たちも、自分たちの両親は広島に居たという事をいつも心配し、定期健診の結果など長男は東京から電話や手紙で心配してまいります。私たちは互いに健康がすぐれませんので「生きられるだけ生きていこう」そんな言葉を口にするようになりました。でも心の底では、そんな事が起らないで今と変らない子供の成長を見ながら平和な家庭が続く事を望まない者がどこにいましょう。ですから被爆者の健康診断を“人間ドック式”に徹底的な検診を行なってもらいたいと思います。

 

現在、核兵器とあれ程騒がれながら国のために、身をもってその現実に会わなければならなかった者たちへの思いやりはどうでしょうか。広島も長崎も街は前以上に立派に復興致しました。でも、人体に及ぼした爪跡はぬぐう事は出来ません。世界に二度と繰返さない事を願うと同時に、身近にすでに苦しんでいる者たちに心のやすらぎを与えて下さい。

 

 

 

 焼煙の日日

大越 シミエさん (元甲友会副会長) 

当時24歳  長崎の海軍監督官事務所に勤務

 

 昭和20年8月6日広島、9日長崎に投下された原子爆弾で数えきれない多くの犠牲者がでました。あれから早や25年になろうとしている今日、全国でまだ約40万人近くの人々が悲しみ、そして苦しんでいます。

 

当時私は長崎市に居住し、長崎三菱造船所付けで、海軍監督官事務所に勤めて居ました。事務所は中尉以上の軍人と男女事務員、造船関係の技術者、等数十名の人々が働いて居ました。私は食事係として女子8名と共に、働いていました。

 7月28日、30日、8月1日、3日と隔日の空襲に、不安な毎日を送っていました。

 

 8月9日、その日は朝から雲一つない暑い日でした。係長より『今日は少し早いけど、又何時もの様に空襲でもあるとみんなが昼食にもありつけないから、早目に仕度しよう』と云われ、私共5人は食事準備の為、三菱電機製作所の食堂へ11時頃出掛けました。事務所から約450歩の所に石段がありました。そこまで来た時です。『ピカッ』と紫色の光を見ました。1人が『アラ溶接の光の様だけど一寸変ね。浦上の方で光ったけど』と云って、浦上の方を指差したので、皆一斉に其の方を見たとたん『ピシャン』と云う様な音を聞きました。それっきり後はしばらく解りませんでした。ふと気が付いて見ると、私は暗い所に居る様でした。がどこだか、どうしてこんな所に居るのか、さっぱり解らないのです。

 

 しばらくして暗い所に少しずつ目が馴れて来た様なので、あたりを見廻しました。人の形だけはどうやら解りました。大勢の人が居るらしいのです。友達を探しました。私の近くにやはり私と同じ想いだったんでしょう。不安そうに、手をふるわせていました。突然誰れかが『空襲解除らしいよ、外へ皆んな出よう』と呼びかけています。1人1人と、こわごわ乍ら、ぞろぞろと外に出ました。私も人の後に付いて防空壕の外へ出ました。何と云う事でしょう。ガラスは所かまわず飛び散り、板壁は無残な壊れようでした。厚さ3分も5分もあると云う大きい鉄板も所狭しと倒れているのです。食事の仕度どころでなく事務所では、守警さんを始め何人かの人が私達を案じて探して居る所でした。

 

 『オーお前達皆無事だったか。よかったなーみんなで心配して探していた所だよ』と言って、1人1人の肩をたたいて喜んで呉れました。その日は、みんな早目に事務所を片付けて家へ帰る事になり、私達も家路へと急ぎ帰りました。姑と祖母、娘3人は、近くの防空壕へ避難したとかで無事でしたので、何をおいても安心致しました。姑達もさすがに疲れたのでしょうか『早目に夕食にして今夜は早く寝ようよ。そして明日は夜明け立ちして、瀬戸へ行こう。長崎はこう毎日毎日空襲だと生きた心地もせんからね』と姑の言葉で、私は夕飯の仕度にかかりました。お膳を出しさて布巾で拭きかけた所、右の手首が『チカッ』としたので思わず拭く手を止め見ると真赤な血が流れています。お膳をとよく見ると三角に破れたガラスがつきささっているのです。思いきり力まかせに拭いたので手も思いきり深く切ったらしいのです。伯母に手伝ってもらい傷の手当てを済ませ、夕食もそこそこに終えました。今もガラスで切った傷は約2糎(センチ)程残っています。

 

 翌10日は4人共5時に起き姑の故郷へ疎開することになり、それぞれ持てる丈の食料を持って出掛けました。浦上の方は昨日の空襲でまた通れないと聞き遠廻りだけど福田村廻りする事になり、当時4才の娘を私がおんぶして歩く事になりました。その夜は伯母の知人宅に泊めて頂き11日夕方やっとの思いで疎開先の家へ落ち着く事が出来、その夜はそこで1泊し、12日は朝早く伯母と2人で長崎へ引返しました。12日は夏の事で野宿です。13日お昼頃長崎の浦上へ着きました。赤い火は、もう見えない様でしたが、あちらこちらにうすい煙が立上っていました。街へ入った、とたん何とも名状しがたい臭に思わず2人共顔を見合せました。ガスの臭の様でもあり、硫黄の臭の様でもあり、苦しい臭が立ち込めていました。道端に人か牛か解らぬ死体があり、黒い様で茶の濃い色の様でもある焼けた色でした。『哀号哀号』と泣いている声を耳にしたのでその方を見ると、裸のままで焼け爛れて泣いているのです。可哀そうに可哀そうにと2人共手をにぎり乍らついもらい泣きしました。

 少し歩いてヒョイと浦上川をともなし見ると、どうでしょう。親子らしい人達が見えます。思わず川端へ行きよく見ると母親らしい人が両手に3人背に1人を自分の身にしっかりと抱える様にして浮いて死んでいました。又泣けました。伯母と2人合掌しながら川端を離れました。泣きながら歩いていたので先方の事に気付かず居ましたが、ヒョイと思わず自分の前を見て、今度は腰をぬかさんばかりに驚きました。肩から鞄を掛け走る様な恰好をした男の学生が立っているのです。よくまあぶっつからなかったもんだと、今更乍ら思いました。こわいもの見たさに私がチョッと前に行き見ました。所が目の玉が飛び出していました。『うそではありません。ほんとうですよ』昔から物の値段が高いと『目ん玉が飛出すぞ』とよく云われたものですが、生れて始めて目玉が飛び出たのを見ました。2糎(センチ)3糎(センチ)所では話にはなりませんが、10糎(センチ)は確かにありました。もっとそれ以上長かったかも知れません。

後日、叔母とも『怖いもの見たさとはよく云うが、目の玉の出たのを見たのは70のこの年になって初めて見たよ。今思い出してもゾーとするよなー』と話した事も度々でした。

 8月15日の終戦迄其の後1回往復し合計長崎瀬戸間を6往復はしました。人の話ですと昔の道のりで13里(52粁〔キロメートル〕)だそうで、私達伯母と2人は52粁(キロメートル)の12倍を歩いた訳です。気が張っていた所為でしょうね。今では4粁(キロメートル)歩いていい所です。昭和26年肋間神経痛を患い約2ヵ月近く注射やお灸をしました。肋間神経痛が少しずつ治る頃、今度は胃痙攣を年に2回から3回起す様になり大変苦しみました。30年頃より神経痛もすっかり治り、胃痛の方もお灸でようやく治った様でした。が、34年風邪を引きひどい咳につづき急性腎臓炎を患い1ヵ月余入院生活を余儀なくされ、職場も2ヵ月休みました。やっと治った様なので11月出勤しました。所が又12月中旬頃、再度風邪で又腎臓炎と診断され、その時は入院だけはみのがしてもらい、自宅療養で3週間休んで治りました。甲府へ35年10月29日来て、37年胃痛で2日寝ましたが、その後は胃痛が来てもたいした事もなく、マアマア元気です。

 年のせいか、ひざが時々がくつきますが、たいしたこともなく、毎日毎日忙しい忙しいと云いながら1日をすごしています。自分の好きな手芸を趣味と実益を兼ねてやっております。

 

 

 

 ある手紙から

甲友会事務職に届けられた手紙から

 

 先日から御親切なるお便りをいただき、本当にありがとうございました。

 何ごとにも、こうして御通知下さいます会の皆様方のお心づかいに、なんとお礼申し上げてよいかわかりません。

 実のところ山梨に越して来てから一度も健康診断をうけたことがありません。

 先日いただいた通信にもありましたように、私も同じく、お医者様に原爆とは関係がないと云われました。

 又、どのお医者様も被爆とはちょっと見分けがつかない、などとおっしゃっても不安が残ります。

 私としては、そういうふうに云われてからはとても、お医者様の治療を受ける気持にはなれぬのでございます。

 それは、私にもわかるのでございます。主人も、原爆を受けて、病にたおれましたが、とうとう原因がわからぬままこの世を去りました。

 原爆をうけて亡くなった方も沢山おりますが、病気の原因が不明のままになっております故、無理もないと私はあきらめています。

 

 しかし、こうしていつまで、私はこの世にお世話にならねばならぬのかと思い、自分で自分の体がうらめしく思えてなりません。

 一日とて、今日はなんともないと思う日はなく、毎日まいにち、頭が痛いといって、自分1人にて苦しんで日をおくっている淋しい女でございます。

 又、主人もかわいそうでございます。

 

 いつも、ゆううつな顔ばかり見せている、今の主人に、私は気の毒に思って、私を帰して下さいと申すこともございます。

 その度に、主人は、帰ってお前はどうして食べていくのか、働くこともできない体で、死をまつよりほかないではないかと云って、私をなぐさめて下さいます。

 主人がやさしくして下されば下さるほど、私は主人にすまぬ気持にならずにはおれません。

 この弱い体でいつまで生きていかなくてはならないのでしょうか?

 人の目には、この私の苦しさなどおわかりになるわけはありません。

 つまらぬ事ばかり書きならべ申しわけありません。

 しかし、私にとりましては、お手紙にて、お話しできただけで、なんだか頭が楽になったような感じが致します。

 長らくおしゃべり致し申し訳ありません。

御一同様

 御許へ

 

追記:この手紙は、当時事務局へ届けられた手紙です。

 

 生き残り       

 山梨県甲府市 元陸軍主計官 

当時28歳、陸軍主計官として広島で任務、爆心地から3.5キロ

         

 忘れようとしても忘れ得ぬ昭和20年8月6日朝8時、爆心地より3.5Km離れた宇品の港。当時としては陸海の玄関口として幅のきいた港である。現在県庁の旧館ぐらいの壮大な建物が、船舶系総本山の船舶総司令部であった。3回北面に位置した経理部主計課に私は属していた。始業開始、軍語でいう戦斗開始の時刻である。

 定刻8時一寸前、書類を机に運び金庫より㊙の書類を出し、一服つけて開始しようとする途端、上空に爆音がした。

 耳なれない金属性の音、調子良さそうなエンジンの音にしばし耳をかたむけた。

 高級経主のお偉方が毎度の語調で、

「お客さんかな。」

 冗語を混えて諸君を笑わせた。

 までは良かった。

 途端、眼の前がピカッと閃めいた。

 さては建物のすぐそばに小型の爆弾を落して驚かしたな、ぐらいでそのままそっとしていた。瞬時して落電様を感じてドカン!の音がして、彼は本能的に訓練を生かして無意識に伏せの低姿勢の動作をとった。

 時すでに窓は爆風でバラバラ、ガラガラに裂け、書類は室内に散乱した。

 破片が嵐にまぎれ、直球で襲いかかった。

 軍衣以外の露出体部は傷だらけ、なかでも大創部からは生温かい血液が山羊の乳をしぼるように噴いて乾ききった白い地面にポタポタ落ちる。

「ああこれで人生一巻の終りかな。」と、心の中でつぶやき死に対して何の未練もなかった。ごく安い物体であった。

 ボロボロの軍衣をまとい、あてどもなく道行く人の群に混じって静かな沈黙の行進を続けた。上司も部下も戦友も誰としてとしていなかった。

 探そうとも戦友の安否すら考える余裕もない。不思議な心理状態であった。

 創口はパクパクして体内の血液が品切れではないかと案じた。

 血がいささか止ったから、これ幸いと思い道路のはしにうずくまった。

 前を老若男女、ボロボロの被服、焼けただれた皮膚、焼いたいわしのような臭気をプンプンさせながら、行進はだまって続けられている。正に死の行進である。

 一人が何の抵抗もなく倒れると、その上に力なく倒れ、たちまち積み重なって死体の小山を作る。

 埃っぽい風が吹いてくる。

 息がつまる。

 人々は水を求める。

 周囲の山々は一瞬秋の様な色になり、雑木林は裸山と化しいくらかくすぶっている。

 城の溜池はカラカラになって、魚類が速製の干物となっている。

 一瞬のピカドンによりマジックにかかったように溶かされたのである。

 昨日までは水の都広島。

  青々と茂った山の緑も、草も、すき透った流れの美しかった川も、今は秋の夕暮れを思わせる灰色と化し、川には人、畜、丸太、トタン板でせき止められるばかりとなって、無残の死の世界を露骨に表現している。

 裸体の死体。

両眼を覆ってしばし合掌し、誰にともなく祈りを捧げる。

 救護所に並ぶ列は遠々長々。

 我れ先きを競う群衆の心理的本能もない。

 機械的に列は流れていく。

 其の間に1人、2人、3人と倒れてそのまま置いてきぼりになる。

 つまりは水を求めながら他界するのが当時の常である。

 今になれば、安い生命であった。

 薬とても、赤チンに白い軟こうである。

 ただれはてた皮膚に暑い太陽が照りつけて、

 臭気鼻をつんざく。

 夕景ともなれば、周囲に蝿がブンブンとんでくる。

 死の直前、何も言い残さない。

 耳に痛く残るのは女学生らしい少女の最後の言葉だった。

 おかあさんおかあさん、二言三言、言って死んで行った。

 今もなお、印象に残る痛々しい真実の声である。

 敗戦。

 戦いは終った。

 終戦を知らずして去りし、今は亡き同胞よ。

 幸あれかしと祈る外はない。

 広島は全く廃墟と化し、見る限りの灰と、焼け瓦と、くち折れた電住と、横倒しになった市電、バスがポコンポコンと腹を出して転がっているのが、哀れにも眼に映る。

 家もなく、食もなく、田畑の区別も出来ない程荒れ、人は少なく焼け跡にたたずんで空を眺めている小集団の群があちこちに見受けられる。数日後の荒原街にも似ている。

 

 

 

ある遺族の声より「被爆の検診はお役目だ」

 

                             ―亡き夫にかわって―

ご主人が陸軍船舶兵の教官として広島で任務

 

 想い出せば昭和20年の8月6日、アメリカの手によって広島に原爆が投下された。

 ピカドンの一瞬の間に生き地獄と化してしまいました。その時陸軍船舶兵の教官として宇品に居りました。その日は休暇をとり、床に入って休んでおりました。

 あまりの出来事に驚きあわて、避難したが、生きていたのが不思議な位だとよく申しておりました。

 寝ていたので頭に光線を受けたのでしょう。親にも兄弟にも似ず、早くより頭髪が真白になってしまいました。

 復員して帰る時、医師に白血球が17,000もあるため、2、3年は気を付ける様言われたそうです。

 幸いな事に白血球も次第に少なくなり、どうやら元通り元気になりました。

 原爆手帳を支給され、検診を受ける様になりましたが、血圧が高いのみ、別に異状なく過して参りました。

 41年の正月頃より声がたたなくなり、中央病院の耳鼻科に御厄介になっておりました。3月検診の折、白血球が11,000になりました。主人も先生に色々と相談いたしましたところ、別に診察して下さるでもなく、原因が解らずじまいになってしまいました。

 夏になっても咽喉が思わしくなく、耳鼻科でレントゲンをとりましたが、幸い病気ではないとの事。

 10月、第2内科へ移り、再度レントゲンをとりましたが解らず、その頃より食事がどうもつかえるとか、夜寝ていると咽喉がやける様だと申しました。

 11月に、もう1度レントゲンをとりました時、はっきり食道ガンと宣告されました。

 12月、東京女子医大の中山教授の診察の時は手遅れ。

 翌年1月、食道ガンの手術を受け、3月末退院しましたが、9月23日には、他界してしまいました。

 41年の被爆者検診の時、白血球が急に増したさい、精密検査をして下さったなら、早期発見も出来たのではないかと悔まれてなりません。

 生前中、主人がよく申しておりました。

 被爆者の検診はお役目で、只耳より血をとるのみだ。

 主人は運悪く病気に負けてしまいましたが、病院でも異状があらわれた時は、精密検査をなさって下さいますようお願い申し上げます。

 

 広島の空の下より    

山梨県甲府市 日比野 学さん

当時32歳 海軍二等水兵として広島で任務

 

昭和20年3月1日

岐阜県土岐郡明世村戸狩849の生家より出征。呉海兵団に入団(呉2補水)1週間位して武山海兵団第403分隊第9教班に属し、3ヵ月間の教育を修了、再び呉に帰団。

この3ヵ月苦楽を共にした友とも別々になった。私は実習部隊に編入された。

最早乗る舟はなかった“カッパ”が丘に上った様である。

広島県内を転々と配置替えされた。

海軍では部隊移動が少なく、個人転勤が多かった。時には週に2度も命令を受け、次々に変るため私には戦友が出来なかった。

上官の顔や名前さえ覚える閑もない位でした。精神棒に追いかけられない様に気をつけるのが一生懸命でした。

今となっては上官や班長の名前など思い出すことは出来ない。

最後の命令で広島市内南観音町。

当時の徴用工員の宿舎であった。

その宿舎には工員達は引揚げて、係員だけが2、3人で警備していた。

そこから江波造船所までの約1キロ位を引率され、工員の作業監督、又工員達と作業を共にした事もあった。

1日の作業を終って宿舎に帰る。

そうした幾日かが続いた。

8月6日の朝6時、私は営兵勤務についた。

今日もまたよく晴れ、青空に白い大きな雲が1つ、ぽっかり広島の上に浮いていた。

暑い日であった。

午前8時勤務交代、部屋に入り早速上衣をとり、机にむかって勤務日誌に記入中の事でした。これが史上最大の出来事になるとは誰も知る由もなかった。

正に8時15分。(この時間は後で知りました)

銀色とも、黄色とも、又赤とも、ピンクとも表現しがたい光が目をついた。

続いて物凄い爆音と爆風が1つになって兵舎をつぶした。

それっと、あたりかまわず豪に飛び込んだ。

その時すでに終っていたのである。

が、何も知らない私達でした。

みんなの顔から腕から赤いものが流れて線を作った。

衛生兵が赤チンを塗っていく。

暗い豪の中で何分かの時が過ぎ去った。

汗と血と赤チンが白いシャツを染めた。

私も顔に2ヵ所、右腕に1ヵ所ガラスの破片でヒリヒリしていた。

外は一面の火の海だと思った。

しばらくして全員出ろとの命令が頭の上で、どなる様に聞えた。

みんな出た。

あっと言ったきり。

しばらくは声が出なかった。

あまりの変り方である。

夢ではないか。

広い広い飛行場か?熱風と灰が渦を巻いていた。

砂漠に立っている様だった。

火はどこにも見えなかった。

全くの原っぱだ。

肌がピリつくのを感じた。

所々にビルやデパートらしい鉄骨だけが無な姿で起っていた。

遠くの山がかすんで見える。

叫び声とも命令ともつかないざわめきに我にかえった。

みんな血まみれになって右往左往しているばかりだった。

抜刀した隊長が飛び廻る。

班長らしい人も目をむき出して、何やらどなっている。

どの班か、又どの部隊だか入り乱れて目茶苦茶になった。

指揮は完全に破れたのである。

これが生き地獄かと思った。

時はようしゃなく流れていった。

顔がこわばり、血が黒くなって剥がれて落ちた。夕沈む頃、兵舎はまがりなりにも復旧した。

急に空腹を覚えた。

破壊された水道管から、水だけが勢いよくふき出していた。

やがてあたりが暗くなって来た。

誰かがどこからか1本のローソクを探してきて班長室がパッと明るくなったが、班長の姿はなかった。

今夜の営兵は誰か、という声が出てくじを引く事になった。

私は午前2時から3時迄を受持った。

全てを失った広島の真夜中は1人無気味さを増していた。

勤務を終えて横になった。

5時に眼がさめた。

いつもならばスピーカーから起床5分前と号令が流れるのに今朝は聞こえなかった。

何だか体がだるく、気抜けした感じだった。

しばらして握り飯が渡された。

その旨さは今でも忘れられない。

朝を迎えた広島の空はよく晴れて、灰色の荒野に太陽だけが容赦なく照りつけていた。

しばらくして、全員整列して中心街の整理作業に出発した。

どこの班長か又、兵長か知らない。

ぞろぞろ歩き出していた。

周囲の山と川と道だけがもとのままだった。

次の日も、その次の日も、だまって同じように歩いた。

負傷者は?死人は?

私は1人も見なかったが、どうした事か。

命令がないままに行動が出来なかったせいか。自分自身がおかしくなった位だった。

全ての通信機関は勿論、上部からの伝達もなく、僅かな自分たちが歩き廻るだけだった。

或る日、飛行機が1基“我が海軍連合艦隊は健在なり、全員奮起せよ”というチラシを撒いたそうだ。

どこかの班長らしい男が「もう命令が来ても良いはずだが」と一人言の様に言った。

また時が流れた。

おかしい、どうした事か、不安な気持ちのまま、あと2時間待って連絡がなければ仕方がない、全員持ち物を全部焼くことになった。

1人2人と焼き出し全員終りさっぱりした。昼頃大竹兵団がまだ無事らしいから仮入団しようということで、汽車で2時間程乗り皆について行った。無事であるはずの海兵団にも係の兵の外は人影1つ見えないのに不審を抱いた。

この時敗けた事を知り、急に娑婆気が出た。

各自の行き先と下車駅を告げ、軍票を受取り、我先に営門を出た。

中には営門上等兵とか伍長とか、勝手に階級を付けて出て行った者もあった。

営門の出口で馬車が兵隊の荷物を1コ10銭か15銭で駅迄運ぶガメツイ者がいた。

陛下のお言葉も聞かなかった。

自分達には、ガメツク変っていく娑婆が想像つかなかった。人々は負けた事を自分達より早く知っていたからだ。

大竹駅に特別列車が待っていた。東に西に妻や子供の待つ所に帰っていった。

私も東に向った。名古屋で中央線にのりかえ、生家である瑞浪駅を通過し、一路妻達の待っている茅野駅に下車した。

1時間ほどで家の門に立った。なんとなく体がだるく、気がぬけたようだ。

只今、と声をかけた。家の中からびっくりした顔がとんで来た。

それもそのはず、広島は「ピカドン」とかで全滅だそうだ。当然、日比野も死んだものと半分あきらめの淋しい毎日であった所へ、うすよごれた顔が、笑って立っていたからです。

 

あの時の爆弾が「ピカドン」であった事をはじめて知らされたのです。

時に、8月29日。

 

 

<編集部より>

 この手記は、昨年8月読売新聞地方版、地方紙、山梨県民新聞にそれぞれのせられたものです。

 しかし、もともと、文集発行のために書かれたものでした。原子爆弾被害者の医療等に関する法律による、被爆者健康手帳交付を申請したのですが、海軍のため本籍地に証明できる、履歴書がなく、厚生省援護局にも、呉の海兵隊に居た事は証明できるが、広島市に移されてからのものは証明できないため、健康手帳交付が受けられなかったものです。厚生省の次官通達には、原爆が投下された時の事情を考慮し、個人の申述書をもとに、被爆者健康手帳交付にには弾力性をもってあたるよう、各県におりているのですが、この手帳交付には、いろいろな障害があり、簡単には交付されません。

 昨年7月読売新聞記者が事務局に取材に来た折に、健康手帳交付の有利な条件になればと考え、日比野氏の了解を得て、前記のような結果になったわけです。

 

 新聞に日比野氏の手記が載せられた直後、県の担当機関は、被爆者健康手帳を交付する旨、日比野氏に連絡。

 1年がかりでやっと、健康手帳の交付をうける事ができました。

 この紙上を借りて、関係各方々のご協力を心から感謝申し上げると共に、今後のご協力をお願いするものです。

甲友会 事務局 文集編集部

山梨県原水爆被爆者の会「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会