被曝50年記念号
72名の被爆者の方々に体験談を寄せて頂きました。
題名もしくはお名前のところをクリックしてください
たくさんの方々にご投稿いただいたので、①~③の3ページに分けました。
🚩1ページ
あの日工場内にて・・・・・ 西 幸児さん 当時中学2年生(14歳) 爆心地より1.2km
忘れられない光景・・・・ ・白沢 英寿さん 広島 当時27歳 兵団司令部で任務中
ピカドンと呼ばれて・・・ ・小笠原 八重子さん 広島 当時2歳
48年目、初めて語る体験 ・小田 一彦さん 広島 広島商船高等専門学校で授業中被爆
一瞬の差で・・・・・・・ ・雨宮 美恵子さん 広島 当時3歳、爆心地から1.2km
入市被爆者として・・・・ ・渡辺 重雄さん 広島 救護活動のため、翌日に広島市に入った
薬のなかったあの時・・・ ・白沢 いづみさん 広島 当時21歳
特殊爆弾と聞かされて・・ ・小林 隆一さん 広島 救護活動のため、翌日に広島市に入った
直爆をのがれて・・・・ ・石丸 照さん 長崎 当時24歳
日時も解らぬ看護・・・・ ・匿 名(男性) 長崎 衛生兵として大村海軍病院に配属中被爆
水槽の水を求めて・・・・ ・坂本 虎雄さん 広島 当時25歳 司令部で任務中
ケロイドを残して・・・・ ・内藤 昭治さん 広島 当時17歳 暁部隊で幹部候補生として任務中
原爆はいらない・・・・・ ・匿 名(男性) 広島 暁部隊で通信教育兵として任務中
何も知らなかった私・・・ ・匿 名(男性) 長崎 当時1歳
幼児期に被爆した私・・・ ・遠山 睦子さん 広島 当時3歳 爆心地から4km
妹を探した日々・・・・・ ・中村 百合子さん 広島 当時19歳
奇跡的に生きて・・・・・ ・深沢 政治さん 広島 当時28歳 兵隊として任務中
原爆病を克服して今・・・ ・匿 名 長崎 爆心地から1.5km以内のところで被爆
核兵器の廃絶を・・・・・ ・匿 名(女性) 朝食中に
子供の為に平和を・・・・ ・坂口 忠男さん 長崎 長崎に住む祖父母の安否を気遣い7日目に入市
怖い原爆と癌・・・・・・ ・藤野 道子さん 長崎 当時9歳
広島の街と地獄・・・・・ ・込山政清さん 広島 宇品派遣部隊で任務 爆心地から約4km
治りにくい風邪・・・・・・大越 シミエさん 長崎 当時24歳 海軍監督官事務所に勤務
いつか、かならず・・・・ ・吉本 富貴恵さん 広島 当時17歳
命令を待ちつつ・・・・・ ・匿 名 広島 呉海兵団
火葬場となった運動場・ ・・藤野義男さん 長崎 当時11歳 長崎市出身 爆心地から3~4k
多くの被爆者を看て・・・ ・渡辺智さん 広島 当時23歳 船舶通信隊
二世にも手帳を・・・・・ ・周防ヨシ子さん 長崎 当時18歳
目の前で倒れた子供達・・ ・桑原淳さん 長崎 当時16歳 海軍少年兵
子孫が心配・・・・・・・ ・匿 名 広島 兵隊として任務中
これからが「私」のたたかい・ ・広沢猛さん 広島 暁部隊
幼児の体験、背負う苦痛・ ・佐野真穂子さん 長崎 当時生後2か月 長崎市出身
国連で核兵器廃絶の先頭に ・・深沢芳造さん 広島 当時25歳 兵隊として任務中
三年の命と云われ・・・・ ・一瀬保さん 広島 当時18歳
運よく生きて・・・・・・ ・匿 名 広島 鉄道隊員として任務
母のお陰で今日・・・・・ ・中沢フジエさん 広島 当時21歳 勤務先の銀行に向かう途中
戦争のないことを願って・ ・渡辺幸永さん 広島 当時19歳 船舶隊
難病とのたたかい・・・・ ・山本トヨ子さん 長崎 当時9歳 長崎市出身
死体の山・・・・・・・・ ・柴山栄一さん 広島 兵隊として任務中
被爆50年・・・・・・・・・高橋健さん 広島 当時19歳 爆心地から約2km
山のような死体・・・・・ ・内藤嘉彦さん 広島 兵隊として任務中
死者にはなむけを・・・・ ・清水要四郎さん 広島 兵隊として任務中
もし私の娘であったら・・ ・杉山国夫さん 広島 当時19歳 兵務中
運命の朝・・・・・・・・ ・吉野静湖さん 広島 主婦 広島市出身
被爆のありのまま・・・・ ・越賀大流さん 広島 第2軍総司令部情報通信班
死の座をうばわれて ・・・・米内幸子さん 広島 当時27歳 主婦 広島出身
振り返る50年・・・・・・・内藤藤三さん 広島 当時22歳 暁部隊 爆心地から約2km
『きのこ雲』 第4集 ①
平成7年(1995年)発刊
あの日工場内にて
西 幸児さん
当時中学2年生 爆心地より1.2kmで被爆
私は当時、市内中心部の中学2年生でした。奇しくも市内の同学年では、私達の学校が学徒動員第一号となり、爆心地より1.2キロメートルの工場に8月1日より出勤しました。他の中学校の1,2年生と私の学校の1年生全員は、爆心地近くで家屋疎開作業に従事し、全員死亡しました。ここにあらためてご冥福をお祈り致します。
原子爆弾のことをピカドンと言いますが、ピカは光線でドンは爆風を意味します。私達は学年の身分で、工場の鉄骨に大きなガラスが嵌められた講堂の中で、丁度、朝礼開始の時間とピカの時間が同時間となり、光熱戦を感じると同時に机の下に退避して、続くドンではガラスの小破片で全員傷つく程度でしたが、屋外では火傷、木造、レンガ造りでは倒れ、崩れ、多数の方々が傷つき、亡くなられました。机の下でどれだけ時間が経っていたか、目を開けると周囲が真っ暗で何も見えませんでした。
先程までの夏の明かりはどこにいったのかと自分の目を疑いました。これは放射能を帯びたゴミの固まりでした。薄明かりを求めて、手探りで外にでて、川の土手に上がって見ると、市内の家屋が全部倒れ、所々小さな火の手が上がっており、それからどれだけの時間でしたか、土手下の倒れた家の下敷きになって助けを求める方の声を聞きながら、何の手立てもできないうちに瞬く間に火の手に追われ、唯一の退路の木造の橋が火に包まれ、川を泳いで渡り鉄道線路を歩いて疎開先の家に帰りました。
家の隣の小学校が臨時の負傷者収容所となり、当日より多くの方々が集まりましたが、その光景を見て私は一瞬に絶句しました。ほどんどの方が顔、腹、背、手、足と酷い火傷で皮膚はぐしゃぐしゃになり、中にはベロンと剥がれている。医者がいても消毒するくらいで何もできない。まるでこの世の生き地獄としか見えませんでした。
それから数日の間に火傷の後が何かがちょっと触れると、またベロンと剥がれて、そこにハエが卵を生み、体の中からうじむしがわいてくる。それを竹の箸でつついて摘み出す。ほんとうに痛かったでしょう。また原爆を憎んだでしょう。
そのうち、重症の方達は脱水状態になり一日中、水、水と水を求めながら亡くなっていきました。8月10日から15日の6日間工場に救護活動に行きましたが、途中の川には多くの方々が水を求めたのか、熱さから逃れたのか、風船のように膨らんで流れていました。
忘れられない光景
白沢 英寿 さん
広島の兵団司令部で任務中
昭和13年入営、北満州在営。昭和18年予科士官学校助教(朝霞)拝命、終戦時広島兵団司令部での勤務のため、被爆まで戦地活動皆無のため、突然の被爆(ピカドン)に光、爆風、強烈肌を射す。熱気が同時に襲来、砂塵もうもうの中に吹き飛ばされた恐ろしさは、たとえ様もない戦慄であった。
司令部の家は倒れ、火災は発生する。市の中心地には、沖天高く巨大なキノコ雲がのびあがり、その先端が不気味な紫褐色をしていたように見えた。
副官が行方不明で捜索に外に出ると、市中火煙もうもうとして市街地は見る影もない。真っ黒の顔、全裸に近い人が黒い皮膚をたらして歩いてくるのを見て驚いた。どうやら残っていた日赤病院や日陰を求めて、一時生きのびた焼けただれた人達の様相は、見るに耐えなかった、目や口唇はふくれあがり、只うめくだけ。兵隊さん水をくれ、と言われる人はまだよくて、只あえいでいる人達がほとんどだった。
その様な方達を兵団に収容するトラックが幾台も来たが、荷台から降ろすに手を添える所もなかった。その夜、ガレージに運ばれたが、うめき声が耳について眠れなかった。その方達は引き取られる者はわずかで、命絶えて昼となく夜となく海岸で荼毘(だび)にふされた。※荼毘にふされた=火葬された
被爆後山梨に帰ってから全身に吹き出物ができ、なかなか治らなくて心配したが、病気知らずと云われる程に元気になった。最近は医者通いをするようになった。
核兵器の地球からの全廃を願い、被爆者に国家補償の援護を一日も早く制定してほしい。
ピカドンと呼ばれて
小笠原 八重子さん
当時2歳、広島で被爆
私は当時2才、戦争の記憶は殆どありませんが、ただぼんやりと脳裏に浮かんで来るのは母が両手を包帯でぐるぐる巻にして、実家である滋賀県に戻ってきたその時、近所の人達が腕の無い人が帰って来たよと噂になりました。
その頃、広島に住んで居りました私達は、原爆が投下された日の朝、母は2才の私を連れて買物に出掛けて、その出先で原爆にあいまして、一瞬の爆風に私をかばう為に覆いかぶさったつもりが、気がついて見たら手にしていた物は無く、かばったはずの私も居なくて、気が動転し探し回ったといいます。幸いにも少しの怪我だけで、山のふもとに転がっていたとの事です。
そしてその日の様子を今は亡き母から「さながら地獄図だった」と聞かされました。母は背中一面におおやけどを負い、その頃は薬も少なく思うような手当も出来ずに、一週間後に母の郷里である滋賀に帰って来た頃は夏でもあり、母の背中にはウジ虫がはびこって、それから3年間は生死の境をさまよいました。
あれから50年、この歳月を被爆に遭遇した人達はどのようにその人生をマイナスからプラス志向にと変えていった事でしょう。計り知れない苦難の道のりだったと思います。その人達の苦しみを無駄にしない為にもこれからの人生を大切に生きたいと思う今日この頃です。
小学生の頃の私のニックネームというか、からかい半分なのか「ピカドン」と云われていやな気持ちでした。その頃、新聞紙上に被爆者の死亡名がよく目につき、もしかしたらと不安を感じました。
未だにどこかの国で絶えず戦争が行われている。人間のおろかな野心と欲望の為に、尊い生命が失われている事は痛恨の思いに堪えません。
48年目、初めて語る体験
小田 一彦さん
広島商船高等専門学校で授業を受けている時に被爆
私は広島生まれ、広島で育った者です。あの日の事を話したり、書いたりする事はとても出来ませんでした。語り継がなくてはならないと決意するまでに48年の歳月を要しました。
8月6日の朝、広島高専の機械科の1年生で、山本博先生の講義が始まったばかりの8時15分、教室の左側窓の外でピカッと光り、まるで大容量の電気がショートでもしたかのような白い明光が走り、続いて赤い焔(熱線)が教室の半分位まで入り込み、直後に轟音と共に、木造2階建ての校舎が倒壊しました。
私は白い閃光を見た瞬間に机と机の間の通路に伏しました。そのため火傷を免れましたが、窓ガラスの破片が、顔、頭、腕に突き刺さりました。どの位たったか分かりませんが、目を開いたときは真っ暗でしたが、順次見えるようになり、這って右手の窓に進み、校庭に降りて見てびっくり、校門を出て見たその光景はこの世のものとは思われない情景で、道行く人はすべて血みどろで、全身火傷の人は皮をひきずって、皆、宇品の方向に列をなして歩いています。
その時市内は火の海となっていました。私も着ていたシャツを引き裂いて包帯代わりに傷口に巻きながら、皆の列に入って歩きました。途中、皆実町の共済病院を見つけ、皆手当を受けようとしましたが、病院も大破しており、火傷の油性治療薬を取り出すのがやっととの事で、私は何の手当もしてもらえませんでした。
全身火傷の人が生きようとして居られる姿を見ると胸が一杯になり、悲しさと怒りが重なるのを我慢して手当の手助けをしました。病院の庭先には何十人もの人が横たわり「水をくれ、水をくれ」と言いながら死んでいくのを見て、命尽きる最後の水をコップで飲ませてあげました。看護婦さんに叱られたけれど悪いことをしたとは思いませんでした。
そこで元気そうな男の人に自宅のある十日市町は大丈夫でしょうかと聞いたら、「十日市は大丈夫」と云ってくださったので、火の手の燃え盛る中心部に向かって、母や妹の無事を祈りながら、今来た道をもどりました。
途中見かける人は殆どが衣服が焼けちぎれ、身体の皮膚が全面一皮むけて何か布をぶら下げた様に見え、全く目をそむけたくなる様な痛ましさでした。途中累々たる焼死体と火煙をさけて回り道をしながら十日市町付近に着いたのは午後も4時を過ぎていました。電車道から見る我が家は全焼中で、近寄ることは出来ません。
ただ母と妹の無事を祈るのみ、南蟹屋町の大破した学校寮に眠れぬ一夜を明かし、翌日から二人の消息捜しをはじめました。妹は爆心地から百数十メートルの場所で家屋疎開作業を行っていて、学年生徒全員焼死との事で死亡を知りました。
母は助産婦だったので郊外の立ち寄りそうな所を尋ね回りましたが安否はわかりません。8日頃より収容名簿が各所に貼り出され、見て回りましたが母の名前はありませんでした。でも私は、暑い広島の町を毎日歩いて捜し回り、駄目かなーとあきらめの心と、どうか助かっていてくれと念じる心で13日夕刻まで捜し回り、とうとう80キロも離れた叔父(母の兄)の所に行く決心をして歩きだしました。
途中2泊して、やっと山県群芸北町の叔父の家にたどり着きました。そこには6日の日から毎日毎日私の家族のうち誰か一人でも生きて帰って来て欲しいと念じながら、叔父、祖母をはじめ近所の方達が戸外で待っていて下さいました。今まで一度も泣かなかった私ですが、皆さんに「母も妹も駄目だった」と言ったきり涙が溢れ、祖母に抱き着いて大声で泣きました。その日は終戦の8月15日でした。
その後も焼きおにぎりを作って貰って、度々広島市に出て、母の生死の消息を確かめに奔走しましたが、判明しないまま、9月6日に遺骨もないまま葬儀を行っている時に、8月6日の消印のある葉書が配達され「小田トミヨを収容している。全身火傷であり至急出頭されたい」とあり、なんと丸一カ月かかって届いたのです。
すぐに弁当や薬を持って、叔父と二人で出発し、途中休息もせず歩きに歩き、翌日の昼過ぎ大野浦陸軍病院に着き、入り口受付で葉書を見せましたら、暫く書類に目を通して「この方は8月9日、全身火傷が原因で手当の甲斐なく亡くなられました。市外の親類の名を尋ねてハガキを出しました。二人の子供が広島市に居るので心配しておられました」と云われ、重体の母が死ぬ間際まで私達二人を心配していてくれたかと思うと無念で大泣きしました。病院で骨の入った箱を頂き、お礼を云って帰路に着きました。二人の葬儀はあらためて行い埋葬しました。
二人はいつまでも広島に住み、その移り変わりを見たいに違いないと思い、墓石は広島に置くつもりです。11月から呉市の借校舎で授業を始めると学校よりの通知に、早速準備をして呉市に行き無事に卒業する事が出来ました。
両親や兄弟と仲良く生活している級友などを見ると、羨ましく、自分の不運を嘆き、学生時代も夜寝床で何度涙を流した事か、あの時、家族と共に死んだ方が良かったのではと思った事が何度もあります。でも現実に私は生きています。原爆の悲惨な体験をした事を多くの人々に語りつがなければならないと考えました。
地球を人間の住む星として残したいと思うなら、皆さん原水爆の恐ろしさをよく考えてみて下さい。世界が再び核戦争を起こさないように祈ります。核兵器は子々孫々にダメージを与える極悪非道の兵器です。
日本政府は再び被爆者をつくらない為に、核戦争は絶対にしないことを約束させる「国家補償の被爆者援護法」を制定されるよう願って、生あるかぎり頑張ることを誓います。
一瞬の差で
雨宮 美恵子さん
当時3歳、広島で被爆、爆心地から1.2km
私は3歳のとき、爆心地より1.2キロの所で被爆しました。その日風邪をひいていたので乳母車で日赤病院に行く途中、暑いので日差しをさけるために日陰を歩いていたので、母も私も瓦が落ちてくる程度ですんだそうです。
現在80歳すぎていらっしゃる高校の恩師は、毎年8月6日を過ぎると暑中見舞いを兼ねた便りを私達に下さいます。よくぞここまで生きられた、必ず書き出しにあります。原爆の日を迎える毎に、あの日と同じ思いがよみがえるのでしょう。
私には被爆者でありながら、体験を何一つ語ることが出来ないのが残念です。体験した方々の言葉には説得力があります。今まで口を開こうとしなかった人達も、50
年たったから話せる、だんだん年を重ねてゆく中で今しかない、そういう中での一言、生あるうちに一言残して下さるその体験談こそ、二度と再びこういうことがあってはならないという大切な役割をして下さると思います。
入市被爆者として
渡辺 重雄さん
福山市の高射砲隊に配属中、原爆投下の翌日に広島に救護のため入った
私は福山に入隊し、鯛尾にある高射砲隊に配属になりました。原爆の投下された翌日より、広島市の比治山に行き、火傷した沢山の人々の救護をいたしました。水を下さいと云う声が聞こえなくなるともう死んでいる、次々と死んでゆく人、島の方に送りましたがその人達の大半は亡くなってしまう。何という悲しい事だったでしょうか。8月の末に福山の隊に帰り、残務整理を9月末まで行いまして、10月2日河口湖畔の我が家に帰りました。
私は40年間、被爆者ではないと思っておりましたので病気その他についても何ら心配をしておりませんでした。それが平成3年春から入院、退院後も通院が続いております。
人と敵対するな、軍事大国となるな、戦争なければ兵器、爆弾不要なり。
※「入市被爆者」 投下後2週間以内に爆心地からおよそ2km以内の入った人は残留放射線に被曝した可能性が高いため、「入市被爆者」としています。
薬のなかったあの時
白沢 いづみさん
助けを求める人の波、やっと歩を進める男女の分からぬ火傷の体を引きづって、次々と公会堂に集まる人、人、人。
それらの人達を床に寝かせ、何か薬をつけねばと思っても、ある者は赤チンのみ、どうにもならない状態に、涙の止めどもなく流れるのをどうすることも出来ませんでした。火傷の軽い人達には、おにぎりをこしらえてきて食べさせてあげるのが、せめてもの慰めでした。
主人の安否は、考える余裕もありませんでした。そしてその人達が一人一人苦しんで死んで行く姿は、一生忘れることは出来ません。
被爆して山梨に帰って間もなく、全身、あちらこちらと腫瘍が出来、寝ることも出来ない状態で大変苦しみました。余り薬もない時代、こんなことで元通りになれるかしらと心配しつつの、長かった回復でしたが今はすっかり良くなりました。数年たってから、肺ガンの疑いで手術をした方が心配が残らないからと、医師から言われましたが、清瀬の療養所の病院に3年間通い続け、もう大丈夫との言葉でやっとほっとし、現在まで生きております。最近では大変元気になり、楽しい日々を送っております。
せっかく出来た援護法なのに私たちの悲願の国家補償がぬけているのは、誠は残念でなりません。是非4文字を入れて下さいます事を願ってやみません。
焼け残った我が家で
匿 名
長崎で被爆
8月9日私は下痢のため、本原3丁目の家に一人で寝ておりました。タンスが傾いてビックリして大急ぎで裏口から出て、山の上にある防空壕に向かって走りました。その時、私の家の両隣りの家から火が出ており、私の家も焼けてしまうと思いながら防空壕の中におりました。
しばらくして防空壕を出て我が家の方に歩きましたら、家が焼けないであってうれしくて走って帰りました。弟が大火傷をして帰って来ました。両親も近所の方もみんな火傷をしておられました。私が一人無傷に近い状態でしたので、「ツワブキ」が傷に良いと言われ、あちらの山、こちらの野へと探し回って取ってくるのが私の仕事になりまして毎日が大変でした。焼け残った私の家に近所の人が集まって、一緒に2か月暮らしました。
弟は10日位たった日、火傷のため亡くなりました。家族だけになって家を修理し水入らずで生活しましたが、数年後に父も祖母も亡くなりました。子供の頃でしたが、大家族の生活は大変でした。
あれから50年、最近は右肩が痛み、手指が痺れるようになり不自由で、困ります。首の軟骨が変形しているので、手術をしても治るとはうけあえないと云われております。
もう二度と恐ろしい戦争はしてほしくないと思っております。
忘れられない光り
木下 勝雄さん
広島で被爆
8月6日、私は県外に行く用があり、乗車券の購入のため、駅まで行って、帰りは線路上を歩きながらB29の爆音が聞こえたので、空を見上げて東から西に行くのを見ながら我が家に着いた。間もなくあの原爆が投下され、稲光のような光が、それが色とりどりに見えました。この光線は今も目の奥に忘れることは出来ません。そのうちに黒い雲が出てあたりが暗くなりました。その後に街の方からこちらに来る人を見れば、顔又手や首のあたりはあの光線のためか火傷して赤身が見えていましたが、私達はどうしてあげることも出来ませんでした。
その日のうちに市内に入って見ましたが、沢山の人が火傷をし、川の中を見れば、水を飲みに行ってそのまま伏して死んでいる人が一杯で、とても見ておれないので又歩いて我が家に帰りましたが、怖い思いをしました。
肝臓を悪くしたり、胃潰瘍を病んだりして苦しみました。山梨医大で肝硬変と云われ、手術をするようにと云われ、手術をしましたがまだ体の具合がよくなくて通院しております。早く元気になりたいと思います。
原子爆弾のために沢山の被爆者が苦しんでいます。再び被爆者をつくらないよう、被爆者援護法の制定をお願い致します。
特殊爆弾と聞かされて
小林 隆一さん
救護活動のため、翌日に広島市に入った
私は原爆が投下された次の日に広島市に救護活動をするために行きました。そこには、言葉ではいいあらわせない程悲惨な、むごい、まさにこの世の地獄がありました。死体を持てばぬるぬるとして肉が手に着き、どうしてよいか分からない、そんな人達を集めて穴を掘って焼く等しました。短い日数だったけど、今も忘れることの出来ない光景でした。
上官がこの爆弾は特別の爆弾であるから家に帰っても絶対に被爆者の事や、何をして来た等言ってはいけないと聞かされ、一寸心配でしたし、昭和55年頃まで秘密を通しました。
今は心臓が悪く病院通いをしております。
長崎で被爆して
中川 和子さん
長崎で被爆
閃光の後は一瞬不気味な静寂、そしてその後は地獄絵以上の光景が展開され、残酷、悲惨等、言葉では言い現わすことの出来ない惨事を目にしてただ茫然自失・・・。猛火、傷ついた人々の血の流れ、うめき、そして死、人間が人間に対して行った、この世の中での最高の残虐行為が原爆投下であると云う事を、経験した人も、していない人も永遠に知っておくべきだ、伝えておくべきだと思う。
被爆後は下痢ぎみで、骨が弱いと、20才台から病院に行くと注意されていた。
日本政府が、被爆者に対していろんな事を熟議して頂きたい。今まではこの問題についてあまりにもオザナリすぎる。被爆経験者としては、日本政府及び米国政府にも責任のある態度がほしいと思う。日本の広島、長崎に原爆が落とされたと言う事は、日本の戦争責任をゼロにしてもいいような、重大なことだと言うことを世界の人々に知ってもらいたい。被爆者にたいする援護法も又、オザナリだと思う。
直爆をのがれて
石丸 照さん
長崎で被爆
私の主人は三菱兵器に勤めておりましたのですが、原爆の時は大阪に出張しておりまして大阪で空襲にあって、着の身着のまま帰って来る途中で電車は止まったそうです。その日は長崎に原爆が落ちた日で「きぎつ」という所から歩いて来たそうです。そういうふうに話しておりました。それからは勤めは出来なくて身体は悪くなるし、本当に苦労致しました。今でも二男が昭和21年に生まれたのですが、顔とか、身体に色々とデキモノが出るそうです。
それでお母さんを片渕2丁目においていましたので、お母さんの所に帰って参りました。私の家は浦上の山里町でしたので、みんな焼いてしまいました。その時は私も、主人のお父さんが6月19日に死にましたので、お墓参りに行こうと思ってお母さんの所に寄って居りましたら、ものすごい音でした。それが原爆でした。とてもすごいものでした。お陰様で二人の子供と共に、命だけは助けて戴きました。本当にありがたいと思っております。その後は苦労の連続でした。
書きたい事ばかりですけれども、これでやめさせていただきます。
思い出したくないあの日
匿 名(女性)
広島で被爆
あの地獄の苦しみ、私の人生を全く狂わせてしまった。あの残酷な体験を全く思い出したくないのです。絵にならない、語る言葉もない、あの悲惨、50年過ぎる今も何かずうっと惨めさだけを引きづって生きてきた様な自分が哀れになるから過去を思い出すことは嫌です。
熱線に死したる父は骨も無く
いま広島の何処に眠る
偶然か、当時としては年齢の割に子宮癌に早くから侵され、やっとの思いで死から逃れたと思うと、二男の最後の病気、看病のかいも無く、10年もの間、親子で苦しみ続けたのに結果的には11歳で天国に行ってしまった。最近しきりにその子の事を思い出しては、今頃生きていてくれればと切実に思っています。
平和を奪い、平和は有り難いと思います。現代の若い人は本当に幸せと思います。反面、平和に馴れて幸せを幸せと感じないようになっている現代の様な気がして、それが恐いです。
二度と原爆投下があってはなりません。地球上から核絶滅を叫び続けるべきと思います。
日時も解らぬ看護
匿 名(男性)
長崎で、衛生兵として海軍病院に配属中、被爆
私は衛生兵で大村海軍病院に配属中、昭和20年8月9日を迎えました。原爆が投下されたのは午前11時頃でした。午後2時頃から負傷者収容の準備に走り回って居りました。午後8時頃トラックと消防車で負傷者が運ばれてきました。病室に運ぶため動けない者は担架で、少しでも動ける者は背中におぶって運び、全部終わったのが11時頃でした。ふと気が付くと、服は血と汗にまみれ、人間の死臭と何かの焦げた匂いで食事も喉を通らない様でした。私たち新兵は着替える服もなく、不眠不休で病室を駆けずり回り、彼方で兵隊さん、こちらで兵隊さん、そこでは子供が弱々しい声でオカアチャンと親を呼んでいる。そばに行って、お母さんは明日になったら来るからね、それまで兵隊さんがついているから心配ないよ、元気を出して、と言うだけで何もしてやれない。朝になったら冷たくなっていた。又、水が飲みたいというので、盃一杯ぐらい飲ませると、コップ一杯ぐらい吐き出し、何もしてやることが出来ない。その後も、14、15歳の少年が、40度近くの熱で、うわ言に先生、先生、ハイ、ハイと勉強している様子に何かジーンとくるものがあった。私は20歳の新兵、全身火傷の20歳ぐらいの女性が兵隊さんオシッコというので、ちょっと待って、看護婦さんを呼んで来るからねと、日赤の看護婦さんにお願いしたら、貴方は衛生兵でしょう、それ位の事自分でやりなさいとのこと。仕方なく習った通りに何とか出来た、と思ったら火傷がしみるのかヒイヒイと悲鳴をあげる、起こすことも動かすことも出来ないので、オロオロするばかり。私たちは今、何月の何日か、何時何分かも解らないような激務の中で終戦、そして復員の時を迎えた九月の末、各病室を回り患者さんの皆さんに、元気を出して、早く良くなるようにと、お別れの挨拶をして回りました。皆さんに帰らないで看病してくれと、泣かれお互いに涙で別れ、なんとか我が家に帰り着きました。
老人から赤ん坊、草や木、動植物すべての物を、一瞬にして灰にしてしまう原水爆「核」これは地球上にあってはならない、又必要のない物と思います。原子力発電、電気は風力、波力、水力、地熱、太陽熱、光、又、宇宙や月で発電して、地球に送れるようになると思います。「核」の無くなることを念じながら終わります。
水槽の水を求めて
坂本 虎雄さん
広島、司令部で任務中
あの日は晴天で雲一つない暑くなりそうな朝でした。もう50年も前のことで時間の記憶も薄いが、7時10分頃、空襲警報が発令された。間もなく解除になり、防空壕に入った人も出て勤め先にと急いだ。
その時8時15分頃に突然、ピカッと閃光が走り、ドカンと大音響と、そして晴天どこへやら、暗闇となり、何が何だか分からなかったが、一番に目に入ったのはきのこ雲でした。戦友と市内を歩いたが、どこを見ても火傷の死の山、特に目に入ったのは防火用水の水槽の中に首を突っ込んでいた、どんなに水がほしかっただろう、その向こうには家に足を挟まれ、身体だけ残って死んでいる人、道路には馬が腹をふくらませて死んでいる。
司令部に帰ってみると、火傷をした多くの人々がおり、全身火傷をした人達に薬もなく、軍医も衛生兵もほどこすすべもなく、ただ寝かせて凱旋館に並べておくだけで水を求めながら死んで行った。苦しさで隣の死人に乗って死んでいる人もいた、目、口、耳からウジ虫が出ている人、生きている人は島に運んだが、おおかたは死んだようだ。日がたつにつれ、市内はハエと蚊で野宿の市民は眠れないので蚊帳を欲しがった。
焼け野原になった町を親、兄弟をみつけて歩く人々も、見当もつかず大変なようでした。
もう戦争はしないこと、被爆者全員に被爆者年金を支給する事を願っております。
ケロイドを残して
内藤 昭治さん
広島の暁部隊で幹部候補生として任務中、当時17歳
昭和20年8月6日午前8時15分、広島市への新型爆弾(原子爆弾)が投下されたその時、暁第16710部隊に陸軍特別幹部候補生として入隊、当時17才。投下の時は朝礼の最中で、上空約580メートルの所で爆発した原子爆弾により約5,000名の隊員中3,000名程が爆死、私は隣の戦友3名と共に兵舎前の防空壕に爆風にて飛ばされ、壕の中に何時間居たのかも判明しないが、近くの比治山公園に収容され、応急手当を受け、宇品港より瀬戸内海の似島陸軍検疫所へ収容となり、8月下旬広島陸軍病院に転院治療を受ける。
この間、何度となくケロイド部分よりうじ虫がわき、終戦の報は生死をさまよっている時だったため、8月下旬になって知りました。終戦になり病院の手当は不十分になり、又食事も病人には食べられないようなものとなった為、病院の許可を取り看護婦さんに付き添われて10月13日退院し、自宅へ帰郷しましたその時、父は寝床にあり意識不明のまま、10月19日に51才の若さで他界し、弟と二人きりになりました。昭和20年12月ケロイド部分が化膿し、国立甲府病院に入院、原爆患者なので2か月入院、退院後も約一年間通院をいたしました。
約10年間は冬期は左半身が氷のように冷えて大変でした。今でもケロイドが左半身と右足に残っております。
家庭の事情により19才の昭和22年3月に結婚、生まれる子供の事が大変心配でしたが、お陰様で元気に生まれて育ちまして、4人の男の子は結婚し、孫5人にめぐまれ、現在は長男夫婦と孫2人の6人家族で平和な家庭生活を送っています。が、年々疲れやすくなり弱ってしまう。
今から50年前の広島を思います時、被爆者として全世界より核兵器の絶滅を願うものである。被爆者は私達だけで十分です。絶対に使用してはならないと絶叫したいと思う。全世界の平和を心より願うものである。
あの時の・・・
雨宮 広之さん
広島で被爆、兵隊として任務中
あの時の情景は脳裏に深く刻み込まれた、生涯忘れることはない。
昭和20年8月6日10時頃、爆風で倒壊した兵舎から救出されて、練兵場の片隅にいた。
その時子どもの泣き声がするので、ふと見ると、顔全面と胸まで熱線に焼かれた母親が、苦しさに喘ぎながら、右によろけ、左によろけ、側溝に落ちては這い上がり、二、三歩歩いては、又落ちる。そのあとから5,6才であろうと思われる子が泥にまみれながら「お母さん、お母さん」と泣きながらついて行く。親は自分の火傷で子をみる余裕はない。私も右大腿部骨折で動けない。
親子は苦しみながら、泣きながら、だんだん遠くへ去っていく。
自衛の為の戦争か、侵略の為の戦争か、はたまた両方兼ね備えた戦争か何かは私にはわからないけれど、戦争の一番の被害者は一般大衆である。戦争は二度とあってはならない。
原爆はいらない
匿 名
広島の暁部隊で通信教育兵として任務中
私は徳山に入隊して、原爆投下の1か月前に広島市比治山の暁16710部隊に通信教育兵として送られ、そこで8月6日朝、兵舎のなかで教育を受けていた時、「ビカッ」と光ったのと同時に兵舎の下敷きになり、助け出された時には、頭と尻に切傷、両腕と足に打撲を受けており、大量のホコリを吸って喉がカラカラでした。比治山の病院に行く途中、丸裸で背中の皮がむけ、ボロのように引きずってる人、血だらけの子供を抱いて泣きさけびながら歩いている人、病院は重症の人で一杯でした。
水をくれと叫びながら次々と死んでゆく姿はまさにこの世の地獄の様で今も忘れる事が出来ません。
山梨に帰りまして2年間位は身体がだるく、身のおきどころもない様な日が続き、心配でした。会社に入社後も白血球が1,800位になり、これで終わりかと思いましたが、なんとか勤め終えることが出来ましたが、現在はメニエール病に罹り、耳鳴り、めまいに悩まされておる毎日です。
一発の原子爆弾により幾十万の人の命をうばい、強い閃光を受けた人は全員火傷をするという、無差別に人命を奪う恐ろしい核兵器は全世界から廃絶することを願っています。
何も知らなかった私
匿 名(男性)
長崎、当時1歳
原爆が長崎に投下された時、私は1才3か月で何も知りません。ただ、小さい時は、風邪をよくひいて肺炎になったりして心配したと母から聞きました。4才の時、長崎を離れましてから風邪をひくこともなく元気に小学校に通いました。山梨に来ましてからも病気もせず勤務でき、よろこんでおります。
原子爆弾が沢山の人を焼き、後からも病気で苦しんだ、このような悪魔の兵器はいらないと思います。核兵器のない平和を願って止みません。
幼児期に被爆した私
遠山 睦子さん
広島、当時3歳 爆心地から4km
当時3才でしたので、私は殆ど覚えていません。後で祖母がよく「この子は死にそこなったので長生きするよ」と言って話してくれていました。
8時15分少し前に起き出した私は、一人で離れで寝ていた部屋から、表の玄関の所で、ジャガイモを取り込んでいた母と祖母を、窓から顔を出して見ていた時に原爆が落ちたそうです。母はうちの本堂に原爆が落ちたのかと思う程、大きな音だったと言っていました。
私の立っていた部屋の天井は落ちたそうですが、窓辺に張り付いていたので外傷一つ受けませんでした。それまで寝ていた離れは部屋中に窓ガラスが飛び散って、寝ていた布団にもガラスが沢山ささっていたので、もう少し遅くまでいると大変だったけど私は怪我一つしませんでした。学徒動員で出ていた一番上の兄は直爆で大やけどをし、眼が見えなくなり、それでも線路づたいに3つ向こうの町まで来た時、うちの門徒さんの馬車屋さんが見つけて下さり、家まで帰れて母に看てもらいながら7日の朝亡くなったそうです。
爆心地から4キロメートル離れていて、家の中にいた事もあったのか、今までは耳鼻科とかで長い通院はしましたが、大きな病気はしないで、お陰様でこの年まで生きさせて頂く事が出来ました。
ただ、精神面で、2,3才で空襲の度に山まで逃げていたのですが、母は出征した父の代わりに寺の法務に行きますので、私は警報が鳴ると、黙って祖母の背中に行ったそうです。後から叔母に聞いたのですが、その祖母が大騒ぎをするので小さな私は怯えていただろうと、青年期になってもどうしようもない恐怖心が胸の底に真っ黒にあるのは、そのせいだろうと言われました。いまだに、夜中や朝方目が覚めるとそんな思いです。
戦争になると人に限らず、すべての物が悲惨な目に遭います。戦争になってしまったらどうしようもないことがよく分かりました。一番大切な命が粗末になります。だから戦争にならないように努力することがどんなに大切かを知りました。
それには先の戦争についてしっかりと勉強をして、人間の弱さ、不安定さを教えられて、世の中の動きをしっかりと見ていける目を養っていかなければならないと分かりました。先の戦争をきちんととらえないと又同じ事を繰り返してしまうでしょう。
この事を私の近くの人から伝えていきたいと思っております。ふたたび被爆者をつくらない為に頑張りたいと考えております。
妹を探した日々
中村 百合子さん
広島
私が被爆したのは広島市郊外でしたが、学徒動員で銀行に通っておりました妹が、7日になっても帰って来ないので、父と二人で妹を探しに爆心地に行きました。まだ家などがどんどん焼けている中を駆け足で探して歩きました。
焼けた電車の吊帯を持ったまま焼け死んでいる人、騎兵隊の沢山の馬が焼け死んでいる。その馬のそばには必ず兵隊さんが一緒に死んでいました。又、金融機関のカウンターには人馬が腐って牛ほどに大きくなり、ゴロゴロころがっておる等すさまじい光景でした。
あちこちの収容所も次々と何日も探して歩きましたが、銀行に着く途中だった為かとうとう骨の一握りさえみつける事は出来ませんでした。
妹を探している時に、死んでいるお母さんのそばで無心に遊んでいる子供を見て可哀想で泣いたことを思い、もしあの子が元気で成人していたらもう50才にもなるのだなとつくづく思いました。
昭和23年3月に家の都合でアメリカ、ロサンゼルス市に行き、4年間日本を離れての生活でしたが、戦後の苦労もなく過ごしました。最近は体中次ぎつぎと悪くなり困っております。
せっかく出来ました援護法、是非「国家補償」を入れて下さるようお願い致します。
水、水の声が
杉原 武子さん
広島
あの日、流川町まで行く用があり、支度をして出ようとした時です。一瞬にして家屋の下敷きになり、気を失ってどの位たったか、外で呼んでいる声がして気がついて、何とかして外に出ようと思うのですが、背中、腕に傷を負い、動くことが出来ません。母や姉の声で、裏の家から火が出ている、早く早くという声で気がせき、体を少し動かし天井や、かべ土の中からやっと這い出し、玄関まで出ました。母は頭から血が流れ、顔がペンキを塗ったように、姉は髪の毛が焼けてなくなり、背中一面火傷を負っていました。
学徒動員の中学生も6歳の甥も前後して亡くなり、兄も母も姉も幾年かたって亡くなりました。悲惨な苦痛の様子、水、水、水をという声が、今でも耳に残っています。
まさにこの世の地獄を見た。生きている自分が夢の中にいるようでした。考えると生きているのが不思議なくらいです。
いろいろの病気をしました。高血圧、不整脈、血尿、脳軟化症、腎のうほう等々、足も痛く歩行困難です。
もう二度と悲惨な思いはごめんです。娘達に迷惑をかけないで逝けることを願っている昨今です。
大家の娘さんの健在を祈る
勝村 田尾さん
広島
私は原爆で火傷をした人の救護や死没者の処置を8月6日から10日間続けました。死没者処置は火葬をしたのですが、全ての方の特徴、着衣等をノートに記載して警備本部に提出しました。10日から15日まで毎日1か所で10体をまとめて、約8か所から10か所で火葬にしたので、その総数は400名から500名位になったと思います。
紙屋町交差点から南へ100メートル程の所で、2階の1間を借りて生活して居りましたが、原爆投下の1か月程前に大河の住宅営団に移りましたので家内は助かりました。前に居りました紙屋町の藤井様やその付近の方々を随分さがして、藤井様の娘さんだけ生き残って、練兵場の壕に居られるのを見て安心し、力づけてあげた事が昨日のことのように思われます。その後一度広島に行き、慰霊をしましたが、すっかり様子が変わっていて、藤井様の娘さんの消息も判らなくなりました。お元気で居られる事を祈って居ります。
復員後、山梨に住むようになってから身体の調子が悪いのが半年位続きましたが、働かねば生活が出来ないので、家内共どもに懸命に働いてやっと今日に至りました。
終戦後、勝者の一方的裁判で多くの方々が処刑された事が残念に思われます。日本が戦った諸国はすべて日本の周囲の国々と植民地としていた国々です。日本の経済的発展をおそれて経済の包囲を強くし、昭和の初期では日本人は貧乏のどん底にあり、自国だけでは生活が出来なくなって居た事を皆様思い出して下さい。
戦争をしなくて話し合いで生活の道が得られたら戦争にはならなかったのだと私は今でも信じて居ります。戦争に入れば一部には行き過ぎた戦略、或いは行動が派生的に出る事はいなめませんが、戦勝国が戦後に取った政略、戦略は敗戦国といえども許されざるものがあると思います。ただ、終戦後の米国の食糧援助により死をまぬがれた事だけは日本人として有り難い事だったと思います。
奇跡的に生きて
深沢 政治さん
広島で、兵隊として任務中
8月6日私達の班は、当時中島小学校の建物が建物疎開でこわされ、近くの太田川の川辺に置かれている材木を船に積む使役につくよう命令を受けて、私と班長と21名の兵隊は8時すぎに中島公園に着き、兵たちは弁当の整理をしており、私は川の土手の大きな木の下でポケットからタバコを出して一服つけておりました。
その時です。ピカッと光ると同時に爆風が来たので思わず伏せました。しばらく様子を見ていましたが、次の爆弾が落ちて来ては大変と川の方に這って行きました。すると一緒に居た連中がもう川の中にいたので、「みんなは速かったなー」と言うと「いや、自分達は飯蓋の整理をしていたら、爆風で川に投げ込まれたんだ」という事です。
そのうちあたりが真っ暗になり、大粒の雨がポツポツと降り始め、暗い町のあちこちから火の手が見えました。「さあ大変だ」と点呼をとったら1名足りない。土手に上がったら、加藤上等兵の背中に大きな木が落ちており、ウンウンうなっている。戸板に乗せて比治山の部隊まで焼けていない処をよって歩いたが、町のいたる所に死体がころがっていて足のすくむ思いでした。
隊にやっと着いて、空襲の時、非難する洞窟に入ってその日の夕方まで居た。私は隊に着くと、すぐに朝食べた物を全部吐いた。頭が痛くてどうしようもなかった。一緒だった連中も同じ病状で、これでは使役には出られないから様子を見ようと思っておりました。
15日までは比治山に居りましたが、頭の毛が抜け始め心配です。市中の人達もこんな状態になって亡くなっているとのことで早速日赤病院と宇品の野戦病院に10名ずつ入院しました。
毛がドンドン抜け、喉ははれて痛くて何も食べられない。一週間位して戦友が次々と亡くなり、ついに私一人になってしまった。「此処で死んでは悔しい。少しでも故郷に近づいて死にたい」と強く思いながら、いつしか寝てしまいました。喉の手術をし、明日水が飲めたら助かるという夢を見、助かりたい一心から翌朝コップ一杯の水を飲むことが出来、奇跡的に一命をとりとめました。
21人の中でただ一人今日まで生きられた事に感謝し、亡くなった戦友の事を思います時、もうこんな恐ろしいものが地球上で爆発する事のないように、核兵器の廃絶を心から願っております。
今、訴えたいこと
山梨県南アルプス市 小田切 恒広さん
広島
核兵器の問題について(広島・長崎の被爆以来、その恐ろしさ、悲惨さ、残酷さを味わい体験して)
地球上の全人類が核兵器を否定し、廃絶に訴え、阻止しなければならない。
それは一体何だろうか、どうしたらいいのだろうか。これは端的に纏めると、我々生きている人間の・・・そして為政者の責任、使命問題ではないだろうか・・・とも思う。今は為政者に(指導者に)核兵器廃絶運動への、その全責任と義務がかかっている。と言っても過言ではない。為政者とは我々の代表である、その代表という機関に強く訴え理解して欲しいことを願っている。
平和という、地球上の人々が、平和に生き、立派に生きて、平和な広い社会生活を送る。その為の人々への、核兵器の廃絶運動は我々に課せられた、大いなる責任と義務である。むしろ、責任、義務以上の超越した問題であると痛感する。
最近テレビ、ラジオ等の、あらゆる情報機関の報道によっても、又はその対談等を聴いても、核兵器廃絶運動に対する阻止と反対の運動の迫力が一歩欠けているように、足りないように思われる。その切実さに欠けているような気がする。
被爆経験者でないと、人類の為に、血を吐くような核兵器廃絶運動の表現力が出せないものだろうか、等を感じている。
核兵器使用の問題は、今更ながら問題ではないが、現在・・・兵器使用の目的に保有いている国は、よく熟慮して、平和問題に取り組んでいかなければならない。
あの時、あの場所で・・・
山梨県原水爆被爆者の会 「甲友会」