被曝50年記念号

『きのこ雲』 第5集

平成17年(2005年)発刊

題名もしくはお名前のところをクリックしてください

14名の被爆者の方々に体験談を寄せて頂きました。

広島に原爆が投下された日の思い出

          ・・・・中島辰和さん   広島 当時9歳 父の仕事の関係で広島

あの日・・・・・・・・・・・日向一恵さん   広島 当時25歳 主婦 広島出身

被爆60周年死没者慰霊式典に参加して

            ・・・・中沢フジエさん  広島 当時21歳 爆心地から1.8km

 無 題・・・・・・・・・・・白沢いづみ さん   広島 当時21歳 

きのこ雲、被爆体験・・・・・長谷川 寛さん  広島 当時14歳 兵務中 爆心地から20km

ロシマの記憶から―人の命を尊ぶ世界へ―兄の死

          ・・・・遠山睦子さん   広島 当時3歳

一発の原爆の恐ろしさ・・・・名取史郎さん   広島 当時18歳 暁部隊で任務

原爆の悲惨さを伝え、体験を世論に訴え

          ・・・・内藤藤三さん   広島 当時22歳 暁部隊で任務

白血病で逝った孫・・・・・・大越シミエさん  長崎 当時24歳 

長崎で原子爆弾を体験して・・桑原 淳さん   長崎 当時17歳 魚雷班の通信兵

長崎原爆と私・・・・・・・・細田喜輔さん   長崎 当時高校3年(15歳) 

一人生かされて・・・・・・・今村淑子さん   長崎 当時16歳

不戦の誓いを新たに・・・・・藤野義男さん   長崎 当時11歳 長崎市出身 爆心地から3~4km

第16回長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加して

           ・・・・藤野道子さん  長崎 当時9歳 長崎市出身 爆心地から3~4km

 

広島に原爆が投下された日の思い出       

山梨県鳴沢村 中島 辰和さん

広島 当時10歳 父の仕事の関係で広島に住んでいた 爆心地から約2.5km

 

 60年前の1945年(昭和20年)8月6日は雲一つない快晴の日本晴れだった。午前8時15分、広島に原爆が投下され、私たち家族6人(両親、10歳の私、妹、2人の弟)は爆心地より2.5キロメートルの市内皆実町の自宅で被爆した。本来であれば父は役所に出勤し、私も学校へ行っていなければならない時間だったが、病気の母を気遣い父が朝食を作り遅い朝食に取り掛かったところで、登校を急ぐ私だけが1膳のごはんを食べたところだった。当時、父は中国地方軍需監理局(現在の広島経済産業局)務めの官僚で、同年6月まで東京の本省勤務で、戦況の悪化に伴う高官の地方分散計画が施行され、父の希望する広島へ転勤することになり、6月18日広島に到着したばかりだった。7時50分頃、朝に発令されていた警戒警報が解除され、男はパンツ1枚、女も下着1枚という姿で朝食を囲み、開放されたひとときを北側の居間で送っていた時に悲劇的な8時15分を迎えた。

 ピカッと光る強い光線を北側のガラス戸越しに見て、無意識に家の南側に逃げた。追っかけるようにグォーという音とともに物凄い爆風に曝され、私は、南座敷の片隅にひれ伏し必死に両手を目と耳に当てて難を逃れようとした。幸いに右足の大腿部にガラスで2か所の傷を受けただけで、母は、妹と2人の弟たちを連れて私とは別のルートを経て風呂や便所の近くに逃げ傷1つなく、難を逃れた。爆風が通り過ぎふと頭を上げると南北のガラス戸は全くなく、修羅場と化した家の中で瓦礫の中に座り込んでいる血だるまの父の姿を発見した。父は全身に92か所のガラス傷を受けていた。

 当時住んでいた官舎は、広島高等学校(現在の広島大学付属小、中、高等学校)の北側の小さな溝川を隔てた位置に建つ、戸建の住宅で、東西は壁構造で南北はガラス戸を多用した南向きの明るい2階建ての家だった。俗に原爆はピカドンと呼ばれているが、爆心地から2.5キロメートルの所にいた私たちにはピカッと光った直後にグオーという物凄い爆風の音が聞こえただけだった。南北のガラス戸は木っ端微塵になり、一面ガラスの破片が飛び散っていた。猛烈な爆風の通過により発生した真空現象により畳は浮き上がり、窓枠の大きな破片がその畳に突き刺さっていた。東西の壁面に床の間と押し入れがあったが、真空現象により、床の間の置物や押し入れの中に納められていたフトンなど大きな品々が壊れた建具や家具とともに屋外へ吸い出され、庭を挟んで南端にあったブロック塀の内側に叩きつけられたように瓦礫の山を作っていた。ブロック塀自体も爆風によって外側へ倒壊していた。

 父はピカッと光った光を見て、一瞬何だろうと考えた後、危険を感じその場にうつ伏したが時既に遅く、北側の窓ガラスの破片を一身に受けた形となった。習慣で目鼻を両手で覆いひれ伏せたので、ガラス片を運ぶ爆風が身体の下を通り抜けたと思われ、顔、額、胸、手足の全面に限定して92ヵ所のガラス傷を受けていた。

 当時、広島高等学校に陸軍の輸送隊が駐屯しており、兵士が直ぐ駆けつけてくれ、父の大怪我を見てすぐ軍のトラックを回してくれたので、母は病後であることを忘れ父を担架変わりの戸板に寝かせ、1軒おいて西隣りの松島さんの力を借りて兵士とともにトラックへ乗せ、父はそのまま何処かへ収容された。後に残された母と私たち兄弟は一時途方にくれたが気を取り直し、母は父の着替えなどを持って父が収容されていると思われた宇品の病院へ父を探しに行った。妹と弟を松島さんに預かってもらい、私は父の情報がないものかと瓦礫の家で母の帰りを待った。午後、父を探しだせぬままに母は帰宅した。妹と弟を引き続き松島さんに預け、母と私は瓦礫と化した家の中に小さな居場所を作り、その夜は父に関する何らかの情報を期待しながら母と2人で自宅に寝た。

 8月7日、原爆が投下された前日同様、晴れ渡った日だった。父が宇品沖にある似島に収容されているらしいとの情報を頼りに、私は母とともに似島を尋ねた。似島には馬匹検疫所があり、急遽、その建物を病棟にし野戦病院として、被災して負傷した人々を収容していた。父は最も奥まった病棟に収容されていた。92ヵ所の傷を持つ負傷者とは思えぬ元気な姿を見てほっとした。私だけが父のもとに残り、母は妹と弟を引き取りに一旦自宅へ帰り、翌日揃って父のもとへ集まり、全員が無事を喜び合った。数日後、父の傷の回復具合もよく、また自宅近くの日本専売公社の一角に診療所が開設されたとの情報もあり、自宅へ帰った。

 似島での見聞きしたことは子供の私には余りにも残酷なものだった。似島へ着いてまず見たものは、桟橋に続く真っ白な砂浜に数え切れない多数の死者が筵で覆われ並べられている光景だった。多くの人々が筵を1枚ずつ剥がし、必死に肉親を捜し求める姿は悲痛と言う以外の言葉を探すことはできなかった。病棟と化した兵舎には多くの患者が横たわっていた。殆どの患者は酷い火傷をしていた。夏場でハエが蔓延し、火傷の傷口にウジを産み付けていたので患者は痛みを訴え続けていた。付き添う肉親がピンセットで1匹ずつウジを取り除く姿は何とも悲惨で残酷なものだった。患者の間を通りぬけて父の姿を求めたが、喉の渇きを訴え「水をくれ、水をくれ」と手に縋る患者も多くいた。医者や看護婦から、水を飲ませると直ぐ死んでしまうので絶対に飲ませてはだめだと、事前に注意を受けていたので、心を鬼にしてそれらの手を払いのけ前に進んだ。

 後にこの野戦病院へ運び込まれた人は1万人と言われていたが、連日、多数の患者が運び込まれ、多数の患者が死んでいった。父がいた一番奥まった病棟の更に奥の広場では火葬作業が続けられていた。直径・数十メートル、深さ・数メートルの大きな穴を掘り、敷き詰めた薪の上に死体をびっしり並べ、その上に薪を敷き詰め、更にその上に死体を並べるというように何層にも積み上げられた上に油を撒いて、夜を徹して数人の兵士が焼却していた。その作業は毎夜続けられ子供心にも随分残忍な光景だったと覚えている。

 似島から自宅に帰り診療所通いのリハビリが始まった。近くにあった専売公社内には臨時の診療所が設置され、毎日近所からリヤカーを借りて父を診療所へ連れて行った。父は役所へも出勤できず、私も登校の目処もなく自宅で後片付けの日々だった。

 8月15日玉音放送があるとの知らせがあり、幸いにも私の家のラジオはあの爆風にも耐えて故障していなかったので、近所の人が多数聞きに集まった。正午から始まった玉音放送に涙していた父や多くの大人達を強く記憶している。戦後、父の傷の回復を見ながら、父に付いて食料の調達へ行った。1ヵ月位経った後の市内では数少ないバスが走っていた。窓はなくすし詰めの車内では天井を真っ黒にするくらいのハエが群れをなしていた。一面焼け野原には、未だくすぶっているものや動物の死骸が放置され異臭を発っていた。

 基町の陸軍病院の跡地に急遽市営住宅が建設され、移り住むことになった。小さな庭のある家で極度の食糧不足から庭を全て畑に耕した。土の中から次から次へと遺骨が発掘され、近くに緑地帯があったので、その一角に供養塔を建て、地域の人々とともに遺骨を埋葬し、冥福を祈った。遺骨の発掘は数年続いた。昭和26年父の退官を機に広島を離れた。昭和60年、父は76歳で、母は平成16年、89歳で他界した。

 私たち家族は被爆1ヵ月前に移り住み爆心地から2.5キロメートルの所に居ながら、母の病気、父の炊事が幸いし全員家の中で被爆し、更に父の重傷のお陰で全員似島へ渡ったために悪い雨や空気に出会うことも少なかった。本来なら、父は八丁堀の職場で被爆し死亡していただろうし、重傷でなければ事務所の後片付けに出勤し原爆症を患い死んでいたと思う。私は学校で被爆し多くの友と一緒に他界したか、良くても校舎の下敷きになり大怪我をしていただろうと思う。将に信じられない幸運に守られていたと思う。

 子供の私には判らなかったが、昔かたぎの父には多くの同僚の死に遭遇しながら自分だけが生き長らえたことが絶えられなかったろうと思う。終生、父から被爆の話を聞くことはなかった。

 私の右足の傷跡は、今でもケロイド状をしている。被爆したとはいえ幸運に恵まれていた私の、消えてしまっても良いような傷跡が鮮明に残っていることは、被爆に起因する障害の特異性を示すものだと思う。最近になって原爆症の認定を認める裁判所判断が出てきたことは喜ばしいことだ。被爆の責任は政府にあると信じ、未だ被爆が要因で苦しんでいる被爆者を助け、世界で唯一の被爆国として、核兵器のない、更に、戦争のない平和な世界作りに貢献してもらいたいと願うものである。

 

 あの日

山梨県身延町 日向 一恵さん

広島 

 

 主人は、あの朝8時1分前に送り出した私に敬礼をして、長靴に軍刀の当る音を残して部隊へ行きました。遠縁に当る松岡家の4人と私、女中(行儀見習)さん2人で朝食をいただき始めた時、天井の明かり取りのガラスから強い光が射して全員お台所の土間へ吹き付けられて、大きな食器戸棚、柱、土、などの下敷きになってしまいました。ここで死ぬのかな、私が幼いうちに母が亡くなったので父はどんなに苦労したか、自分が大きくなるにつれて父を優しくお世話しようと思っていたのに、涙が頬を流れました。でもバリバリ音がして、女中さんと2人が何の道具も持たないで、柱を動かし板をはがして私を助けてくださいました。力をかして1人、2人と全員揃ったときは抱き合って泣きました。

 朝早く建物疎開で、兵隊さん10人位を案内して外に出ていた松岡の小父様は、眼がよく見えない、と言いながら、ひどい火傷でおいでましたので、みんな揃い、無事を喜び合いました。明け方B29が来て空襲警報が出され、皆さん身支度もしたのに解除になり、「暑かった」と上着、モンペを脱いだ後へ来た飛行機が、あの恐ろしい新型爆弾を落とすとは誰も思いませんでした。

 つぶれた建物の上をつたわって行きましたら、離れの2階へ行けました。モンペ、上着、履物、蚊帳、浴衣1枚など大きく包んで背負って出て、皆さんに着ていただきました。

 直撃に遭ったと思いましたのに、外の光景はこの世のものではありませんでした。女中さん2人は、髪の毛は立ってしまい、血が頭から顔へと連なって固まり、鬼のような形相でした。

 小母様が、山の手へ親戚へ、と申されましたが、地図のわからない私は、山の手の親戚がどちらか分かりません。1ヵ所だけ火に囲まれていない所へ、体のアチコチ痛めている皆さんをはげまして、橋を渡り海の方へ逃げました。この橋も夕方には焼け落ちたそうです。

 ちょうど川上で農家の庭をお借りして木から枝へと蚊帳を張りましたら、順に入って来られて横になりたいのにできないようになりました。でも小父様は私の浴衣を掛けて苦しそうに寝ておりました。一夜明けて松岡家の避難先を書いて棒の先に着けて、兵隊さんのボートで川を渡り、松岡さんの黒く焼けた松の木の根元に立ててきました。それでご親戚の方々が見えて松岡の皆さんは行くことになりました。

 2晩過ぎて私も主人のことが心配になり、今日は何とか部隊へ行ってみようと決心しました。朝早く支度をして皆さんにもお話しして、水筒に水を入れて、真夏の暑さに、帽子も傘もなく出かけました。目印の建物は焼けてしまって、電車、バスも横になって焼けていました。死んだ人がごろごろ、何もまとわないように焼けて歩いている人、母は死んでいるのに赤ちゃんはその下で生きている親子、「兵隊さんお水をください」と叫んでいる人、地獄の中を歩いているようでした。

 やっと比治山につきました。部隊の建物もこわれていました。テントが張られている所に行ってみると、焼け焦げた隊員の亡きがらが高く積まれ、お花も供えられて、お焼香の煙が漂っていました。私はお尋ねするのがつらくて、こわくて前の大きな蓮池を3まわりして、やっと考えをまとめました。つらくて、つらくて仕方のないことでも、積み重なっている1人が主人だと告げられたらお焼香させていただき、連絡も取れない家へ抱いて帰ってあげようと決心しました。

 テントの前で部隊名と個人名を申し上げて待っていましたら、主人が白い三角巾で腕を吊って、3人の兵隊さんと山を降りてきました。「昨日兵隊10名ばかりで松岡さんのまわりの死体をいちいち見たがわからなかったので、そのうち骨を拾いに行くつもりだった。悪運の強い女だなー」と言って、笑いながら本部のある山へ登って行きました。それから私は部隊長様の所へ4人の方々と一緒にお世話になり、1週間後故郷へ無事帰りました。

 あのような恐ろしい爆弾を広島・長崎に落とした米国は許せません。

 

被爆60周年 死没者慰霊式典に参加して

山梨県甲府市 中沢 フジエさん

広島 爆心地から約1.8km

 

 平成17年8月6日、山梨県遺族代表として参加させて頂きました。あの日の広島と同じ青空と猛暑でテントのない会場でしたので、暑さに閉口しました。

私自身あの時、1.8キロメートルの屋外で直爆に会い、地獄から奇跡の生還し、約10ヶ月余り苦しい病床生活を体験した事を思い出しました。午前8時15分、平和の鐘が鳴らされ、1分間の黙祷をしました。私の頭の中は運悪く、建物疎開で勤労奉仕中に直爆に会い亡くなった父(8月18日 50歳)が最後に私にがんばれとはげましてくれた言葉が思い出され、涙が止まりませんでした。又、ヤケドのひどかった私、苦しさの余り、殺して殺してと泣き叫ぶ私をやさしく看病してくれた母も、やっと屋外に手を引かれて出られるようになった私と、散歩中、看病疲れで倒れ、51歳で亡くなりました。主人は爆心地から3.4キロの師団司令部の中で直爆を免れたが、当日から救援隊長として入市、残留放射能を浴びていた。その時、死体処理に従事した事を思い出しては罪の意識を感じ、精神的に悩み、自分の被爆した事をかくしていました。甲府へ帰り、家業をつぎましたが、体調が悪く入退院を繰り返し、私の体の方を心配してくれました。最後に心臓バイパスの手術中、血が止まらなく、やっと被爆した事を医者に告げました。苦しい入院生活を4ヵ月して70歳で亡くなりました。こうして3人の肉親の命をうばった原爆を今でも憎み、うらんでいます。私がこの式典に参加出来た事が夢のようです。

 1947年山梨に嫁いだ頃は貧血がひどく、30歳までの命と医者から告げられた私でしたので…。今まで肉親や廻りの方々にほんとうに迷惑ばかりおかけして助かった事を唯々感謝しお詫びしています。

 平和への誓い、秋葉広島市長、小泉首相、衆参両院議長と次々に挨拶がありました。特に子供代表のはっきりとした言葉には心打たれました。

 過去は繰り返さないと誓った私達の責任を再認識し全ての原爆犠牲者の御霊に哀悼の誠をささげました。核兵器の恐ろしさを世界中の人に訴え、戦争のない平和な世界を築くことを祈りました。式終了後、原爆死没者追悼平和祈念館にお参りしたかったのですが、参加者が55,000人と大勢でしたので、それは叶わず残念でした。8月8日は被爆者代表の白沢さんご夫妻とご一緒でしたので心強く、夕方無事甲府へ帰りました。

 

 無 題

山梨県笛吹市 白沢いづみ さん

広島 

 

 「きのこ雲」第3集を出版するに当たり、当時の惨状は「50周年記念号」で記した故、この度は「広島原爆投下60周年」に当たり、広島に出向いた事を記す事にする。

 平成17年8月6日原爆投下60周年を迎え、広島に死没者追悼の式典に県代表として参加す。県のはからいで主人の付き添いも許され一緒に行く。山梨放送の記者の申し出にて御一緒下さるとの言葉に有り難く道中遺族代表の中沢フジエ様も御一緒す。広島への長旅も1人より2人がよし、ましてや若い記者の同行を得て万人の味方を得し如く、安んじて広島駅に着く。駅は物凄い混雑で日本国中、外国の代表も混じえての人々の間をくぐり抜け、中沢様の姪御夫妻が車でお迎え下され宿舎に無事到着。6年前に来た広島とは又打って変わった復興著しき街並に唯眼を見張るばかりなり。

宿舎に遺族代表の人達と合同で夕食の宴に招かれる。全国から集まった人達と当時の惨状に思いを馳せ、遅くまで熱の入った会話に時を過ごし、それぞれ決まった宿舎に戻る。

 翌日、式典会場の平和公園にバスにて送られる。老若男女、外国の代表も混えて55,000の大集会に自分の居場所すら解らぬ程なり。

 小泉総理、衆参両議長、広島市長等の挨拶も38度の炎暑の中に、当時の暑さとおそろしさを思い偲び乍ら聞く。杖をつきびっこを引き、まがる腰に老いを庇い生き続けし数知れぬ被爆せし人、幸いに生き残りても深く刻み込まれし傷に苦しみ抜きし姿を・・・小泉総理よ、よく眺めたであろうか。今後共、平和憲法を順守すると共に非核三原則を堅持し核兵器の廃絶に全力で取り組むことを誓うと、その反面、平和公園の裏で「小泉は帰れ」「小泉は帰れ」のデモの声は何を物語るや。

 やっと平和の世になった現在、戦争に向かって歩く事は絶対にしてはならない。戦争は私達の世で切り捨て、今からの若者の為にもかたく平和の鐘を鳴らして欲しいと願うばかりなり。

 

 きのこ雲、被爆体験

山梨県都留市 長谷川 寛さん

広島 当時14歳 爆心地から20km

 

 ハワイ真珠湾の奇襲から始まった第2次世界大戦も、南太平洋の島々からの撤退または玉砕で負け戦となり、昭和20年3月の東京大空襲以後、戦力が殆どない日本に対し、米国は、戦争を終わらせて平和な世界を取り戻すとの言のもと、広島と長崎に原爆を投下した。原爆による被害の大きさは世界史上類を見ず、一瞬にして両都市を壊滅させた。広島の被害状況は爆心地からの距離や居場所で様々だが、爆心地から半径1.2キロメートルの範囲では殆ど全壊・全焼、2.0キロメートルの範囲では半焼の状態で、死傷者は推定20万人にも及んだ。

 

 私は、昭和6年生まれで当時中学2年生の14歳で動員に招集されていたが、原爆投下前日の8月5日以後、広島市内から20キロメートル離れた郊外の作業場へ配置転換され、1日違いで命拾いした。

 8月6日は早朝から良く晴れた熱い日照りであった。サイパン島の米軍基地から広島に向け発進したB29爆撃機が四国沖に達した午前7時30分警戒警報が出され、引き続き四国山脈を越え瀬戸内海に達した頃には空襲警報が鳴り響いたが、間もなく解除されたので毎日恒例の朝礼に参加し広島市に背を向けた隊列で先生の話を聞いていた。突然目も眩むような閃光と熱風が全身を襲った。目の回りは閃光で何も見えず熱いと感じた瞬間、今度は大音響と地響きである。これがピカドンの命名由来である。

 直ぐ近くに爆弾が落ちたのかと思い全員地べたに這いつくばった。数分後に恐る恐る顔を上げて周囲を見回したが異常はないようで、ただ山々の木立ちが揺れてざわめき山肌が崩落しているのを見た。広島市の方角を見ると、白い入道雲が勢いよくニョキニョキと立ち昇り、やがてキノコ状の雲に変化した。そのキノコ雲の下で大火災が発生し市民が燃え盛る街を逃げ回っているとは誰も想像しえなかった。先生の判断で作業は中止され解散し、家族の安否を気遣いながら家路についた。交通機関はストップしていたので徒歩で帰宅した。途中で、広島市は「どえらい爆弾1発」で火の海になり死者、負傷者は数知れない状態だとの噂が伝わってきた。

 負傷者は、やがて線路を伝わって非難してくるという。私は解散後1時間ほどしてわが家に辿り着いた。自宅の様子は、広島側に面した窓ガラスは破れ落ち足の踏み場もない状態で、床の間に懸けてあった三味線の皮は破裂していた。広島市から10キロメートルも離れて地点でそんな被害を受けており、いかに爆風が凄まじいものであったか想像できる。母と弟2人は奥の部屋にいて怪我もせず無事であった。やがて姉2人も帰宅し、お互い無事を喜び合った。

 お昼前に続々と被害者は逃げてきた。母、姉と私は、近くの私鉄駅で避難者を迎え駅前の広場に寝かしつけ、衣服の取り替えなどに奔走した。避難者の姿は、髪の毛は爆風で逆立ち、衣服はボロボロに焼け焦げ、さながら幽霊を見るような思いであった。それは、小さい頃お寺で見た地獄絵図のようであった。医者はいないし薬もないので困っていたが、誰言うことなしに家庭の天ぷら油を持ちより爛れた皮膚に塗ってあげた。避難者は口々に水を要求した。水を飲むと死ぬよ、と言い聞かせたが、余りの要求に水を飲ませてもらったケガ人もいて間もなく息を引き取った。瀕死のケガ人には水は命取りである。

 各家庭から僅かな食べ物を持ちより飢えを凌いでもらった。避難者は数日続いた。2~3日も経つと膿と油に集まった蝿の蛆虫が全身の傷口を這っていた。見るも無残な光景であった。

 

 漸く猛火も下火になった8月8日から母校に集まり焼け落ちた校舎の後片付けをした。未だ死体は放置されており、死体を焼く煙があちこちで立ち昇っていた。その異臭は現在では絶えられないが、戦時中の心理状態の中では何とも思わず、早く安らかに眠れと祈ったものである。川面には、暑さに耐えかねて飛び込み力つき溺死した水死体が一杯浮かび、大人達が引き上げ作業に懸命に従事していた。私は広島市内に働きに行く時は母が水筒を持たせてくれたので作業中その水で喉の渇きを癒していたが、水筒を持たずに来た友達は井戸水を飲んでいた。その井戸水には死の灰が多量に含まれ高濃度の残留放射能に汚染されており、後日白血病となり長く苦しみ死亡した。母は水が汚染されているとは知らなかったが、昔から他所へ行ったら水を飲むなとの教えに従ったのであろうと思われる。しかし私も放射能に汚染された材木などを運んだので、やはり放射能に汚染されており入市被爆者の2号患者に認定された。後片付けの作業は8月15日まで続いた。その日、日本は敗れ、戦争は終わった。

 

 街に電灯が灯り明るさが戻り子供心にも嬉しかった。しかし学校へ行きたくても校舎は焼けて無く、先生達も負傷したり戦地にいたりで勉強はできなかった。

 8月8日から15日の終戦の日までは軍隊が存続し広島市外から応援に来た軍人達が復旧作業に当たり、早くも8月9日には一部区間で市内電車が運転された。因に、当時復旧された電車は現在も市内を走っている。3輌だけだが車両番号600番がその電車である。終戦で軍隊は解散し軍人はそれぞれの故郷に帰ったので復旧作業はストップしたが、追いおいに広島へ帰ってきた人達により復旧作業は続けられた。2年ほど過ぎてバラック建ての校舎ができ学生らしさを取り戻した。若くして爆死した同級生達は美味しいものの味も知らず、きれいな洋服を着ることもなく、ましてや今日の繁栄を見ることもない死で可哀想であった。

 

 75年間人畜は住めず草木も生えぬと言われた不毛の土地に、被爆後10日も過ぎないうちに赤や白の夾竹桃の花が咲き乱れ被爆者の心を和ませた。その時の喜びから夾竹桃は広島市の市花として親しまれている。

 

 広島で被爆し助かった数少ない人達の話を披露したい。当時広島市は中・四国地方随一の軍隊と工場の都市であった。隣の呉市は海軍の基地で連日空襲されていたが、広島市は米軍の原爆実験の予定地として空襲もせずに温存していたそうだ。原爆は晴天でないと威力が半減するので、8月6日の気象情報を確認し原爆投下に踏み切ったそうである。

 原爆は地上580メートルで炸裂し爆弾の中心温度は摂氏100万度を超え、地表近くの温度は3~4000度の熱さのため鉄骨も飴のように曲がり倒壊し、木造住宅は一瞬にして発火したそうである。

 

 戦後60年過ぎた今日、広島市は完全に蘇り120万の人口を誇る大都市に変貌した。しかし、あの悲惨さは忘れてはならない。中東の戦争が戦争の悲劇を思い出させてくれた。皮膚の色、言葉、宗教などの違いを乗り越えて、1日も早く世界に恒久平和がくることを望むものである。

 

              「修羅を見し川ゆるやかに広島忌」    合掌

 

 ヒロシマの記憶から 

   ― 人を、いのちを尊ぶ世界へ ―

      兄の死 

山梨県富士吉田市 遠山 睦子さん

広島 当時3歳

 

 1945(昭和20)年8月6日、私が3歳の時、広島に原爆が落とされました。一番上の兄は、中学1年生で学徒動員の作業に行ったため、爆心地より500メートルのところで爆死し、亡くなりました。

 兄は広島二中の1年生でした。二中の被爆者の記録を綴った『いしぶみ』によりますと、その頃、中学3年生以上は軍需工場へ働きに行き、1、2年生は学校に残ったというものの、勉強はほとんど出来ず作業ばかりだったようです。当時は食料事情が悪かったため、今の小学5年生くらいの体格しかない小さな中学生でした。空襲のたびに逃げ隠れる異常な状況の中でも、真面目な生活を送り、いつか落ち着いて勉強出来る日を楽しみにしていたと記されています。

 

 8月6日、兄は足に怪我をして10日頃まで休むつもりだったのですが、ノートの整理でもするといって無理をして出かけ、途中で作業日と聞いて集合場所へ行って被爆したのです。そこには、二中の生徒322人と先生4人が集合して整列していました。B29から落とされたドラム缶の形をした原子爆弾を見た生徒もいました。一瞬の閃光と熱で目は見えなくなり、服は燃えだし、爆風で吹き飛ばされ、建物などの下敷きになりました。

 兄は砂に埋もれ、一時目が見えなくなり心細かったようです。しばらくして、見えるようになって周りを見わたすと、あたりは火の海で、仕方なく川の中に入ったそうです。即死の生徒、川に入って流された生徒、泳げないために万歳を言って沈んでいった生徒。「兵隊さんと同じだよ」と言って“海ゆかば”を歌って勇気づけた先生。そんな中、まだ力の残っている生徒は、お父さん、お母さんに一目会いたいという一心で、大火傷で腫れあがり傷ついた身体を引きずりながら火の手とは反対の方へ逃げていきました。

 兄も火が衰えてから電車道沿いに歩きだしましたが、また目が見えなくなったため、人の手を借りて途中まで帰りました。しかし、動けなくなったので、家の場所を伝え、「連れて帰ってほしい」と叫んでいるところを馬車屋さんに助けられました。他の負傷者と一緒に、小学校の援護所へ行き治療を受け、近所の人たちに担架で連れて帰ってもらいました。家にたどり着いた兄は、興奮して母に語り詰めだったそうです。

 母はいつ空襲があるかわからないので、モンペをはいたまま一晩中看病しました。近所の人が、空襲の時には山へおぶって逃げてあげると言って下さったのですが、兄のこんな姿を見せたくないとの思いから断り、夜中に空襲があったときは一緒に死んでもいいとの覚悟で布団をかぶっていたそうです。水を欲しがる兄に、水を飲ませると早く弱るからという注意を守り、我慢させたようでした。

 翌7日の明け方、缶詰の桃を腫れ上がった唇から押し込んでもらった兄は、「おいしいよ」とよろこんだそうです。2度目のみかんは食べられませんでしたが、お見舞いに来て下さった2年生の友人とは、しっかりと話ができました。しかし、午前10時に亡くなりました。

 先生方は大火傷を負いながらも、生徒たちに指示を出されましたが、途中で亡くなられました。生徒たちの中には、家まで帰りたくても帰れないで、知らない人の中で1人死んでいったり、救援所にトラックで運ばれて家族に会えた生徒や、会えないまま亡くなっていった生徒がいました。そんな悲しい死の中で、お父さん、お母さんと呼ばずに、「天皇陛下万歳」と言ったり、「治ったら敵を討つぞ」と言いながら死んでいく生徒もいたそうです。結局、8月6日にあの場所に集まった生徒と先生は、11日までに全員亡くなりました。わずか12年の命でした。

 これまであまり聞かされずにいたのですが、50年が経ってから『いしぶみ』を読んで初めて詳しく知り、涙が出て仕方ありませんでした。

    

原爆と戦争

 

 8月6日の午後には広島が1つの大きな爆弾でやられたという話が広まりました。この時同居していた女学生だった叔母は、兄を捜しに市中に行きました。街には放射能が満ちていたのですが当時の人たちは何も知らずに夫や妻や子どもを捜しに行きました。

 叔母は2次放射能に冒され、50歳を過ぎてからは入退院を繰り返し、1995年7月に亡くなりました。6日の午後爆心地に入ったのですが、あのひどい光景を見たのでしょうが、結婚しても家族には一言も話さなかったそうです。ただ一度、来客に娘の結婚が難しいことを言ったのを、家族は聞いていました。叔母は結婚した娘たちに、子どもがなかなか出来ないことを「原爆の影響か」とも心配していました。あの惨状を誰にも話せないで胸にしまっていた叔母は、どんなにか辛かっただろうと今にして思います。

 市井の優しい人たちがこんな悲しい惨めな死に方をしていくのです。広島にはこうした悲しい話がいっぱいです。原爆は他の爆弾と違って後後まで影響を残します。この原爆は8月9日には長崎にも落とされました。長崎にもこんな悲しい話がいっぱいあるのでしょう。

 広島から山梨に嫁いでくると、甲府の空襲で父を亡くされた友人が、その後の生活の大変さから自殺を考えたという話を聞いたり、東京の大空襲の模様を近所の方から聞いて、原爆だけが悲しい話ではないことを知りました。

 1994年、敗戦50年に、沖縄で50回忌法要が行われ、参拝しました。その時、ひめゆり部隊に所属していた方から、じりじりと追い詰められながらも負傷兵を看護した話を伺いました。また、戦いに巻き込まれ、その犠牲になった島民が追い詰められた壕を訪れたとき、原爆とは違う悲惨な状況を知りました。あのたおやかで、のどやかな沖縄の人々も胸一杯の辛い悲しい思いをしたのです。

 兄と一緒に亡くなった326人、原爆で亡くなった人30万人、沖縄で亡くなった人20万人、日本中では300万人余、この大戦で亡くなった人は世界中で7千万人にものぼります。この7千万人の人たちにも、兄を亡くして嘆き悲しんだ私の父や母のような人がいたはずです。そのことを思うと、とても心が痛みます。

 こんな悲しいことは全て戦争によって引き起こされたのです。戦争の目的は勝つことにあり、そのために手段を選びません。人が戦争の道具となり、人間らしい感情は捨て去らざるを得ない状況になっていくのです。

 

戦争のない世界に

 

 ではその戦争は誰が起こしたのか、なぜ起きたのかを私なりに考え続けてきました。先の大戦の始まりは、不況で行き詰った日本が韓国や中国へ活路を見いだそうと侵略していったからです。その時、韓国や中国へ考えられないような残虐な行為をしました。日本の文化の源流であるのに、韓国や中国を見下していたからだと思います。天皇陛下のため、お国のためと吹き込まれて近隣へ攻め入る日本と、世界の国々が自分の都合で同盟を結んだり、離れたりして大きな戦争になっていきました。そして終わりにアメリカが日本に原爆を落としました。

 1994年、山梨の被爆者遺族代表として、初めて広島の平和式典に参列したときも、引揚者の方の「今にして思えば、日本が悪かった」という述懐や、韓国人のお父様が、強制労働に従事させられて被爆し、二重の差別を受けた辛い話をその娘さんから聞かせていただきました。

 この様に、相手の国の人々を人間として見ない差別意識が戦争を起こす1つの要因になっていることを学びました。こんな悲しい、むごい戦争を起こさないためにはどうしたらいいのでしょう。

 イラクの子どもたちと戦争を描いた『お兄ちゃん死んじゃった』という本に出合いました。その本に登場するヌハード君は『大人たちへ』として、どうして戦争を始めたのですか。私たちは戦争なんて嫌いです。戦争なんて望んでいません。平和が欲しいんです、と叫んでいます。この本をまとめた谷川俊太郎さんは『こころを平和にする』と題して、まず自分の心の中で戦争をなくすことから始めたい。平和を自分の外につくるものだと考えると、平和を目指して戦争をするということになるから、難しいけれど自分の心を平和にしよう。人を憎んだり差別したり無理に言うことを聞かせようとしたりする自分の心が戦争に繋がる、と言っています。

 1人1人 尊いいのち かけがえのない人生 みんな尊びあおうよ いのちが いのちを ふみにじり 人間が 人間を 馬鹿にすることが あってはならんのですね 

波北彰真というお坊さんが毎月中学生に出していた葉書通信『尊びあう』の一説です。今、私が一番大切にしている言葉です。

 

 1発の爆弾の恐ろしさ

 

山梨県南アルプス市 名取 史郎さん

広島 

 

 

 

 昭和20年2月10日陸軍船舶特別幹部候補生として香川県小豆島の若潮部隊に第3期生として入隊、2月25日広島市皆実町の暁16710部隊へ転属。4月の初めに中区の千田町の千田小学校を借りて船舶通信の教育を受け、6月頃から2期生が半分に分かれて宇品の船舶司令部に夜間警備に行くようになり、行く時は軍歌を歌いながら行進で、帰りは広島市電の電車で8月6日朝8時頃電車に乗り、広島市電の本社前で電車の進行方向で真っ白いものすごい光、私はその時、真中へんで吊り革につかまっていましたが誰かが大声で「座れ」とどなり、座ってすぐにドカンと大きな爆発音、でも電車はそのまま100メートル程してやっと止まり、引率の教官が血みどろの顔で、隊へ集合の号令で電車を降りて回りをみると、建物は皆んなペシャンコにつぶれ、上空を見上げたら巨大なきのこの形をした雲が、何が起きたか解らず、やっとの事、小学校へ着いたら小学校もペチャンコつぶれ、校庭で朝礼の時でしたので半袖半ズボンの候補生の身体の左半分火傷で右往左往するばかりで誰が命令したか解らないけれど、比治山へ避難しろの命令、火傷した候補生を励ましながら途中道路に倒れている民間の人達が、「兵隊さん助けて、日陰に寄せて、水をくれ」と叫び、中にはコンクリで造った防火用水の水槽の中へ顔を入れ死んでいる人、川の中には数え切れない程の人が浮いているし、家の下敷きになってうめいている人、助けようと思っても、あちこち火の手で自分たちが非難するのがやっと、全く地獄を見たのも同然、やっと比治山へ着いたら、誰かが私の名前を呼ぶのでそばへ行き、お前は誰だと聞くと、内藤だというので、顔の半分火傷で声で解った位で、何でも良いから水をくれと叫び、私が水を飲むと死ぬぞと言って水はやらず、良く見ると顔、左手半分、左足は火ぶくれが破れてたれさがり、その皮を自分の足でふみつけながら、やっとここまで来たとの事、一番の仲良しの内藤君、同郷のよしみで日曜日の外出はいつも一緒、八丁堀の福屋デパートへ行き、雑炊を食べに行ったものでした。比治山には長いトンネルのような防空壕が幾つもあり、食糧や兵器も備蓄して有り、火傷には油が良いとの事で鉄砲へ塗る油を塗ってやったが、後で化膿の原因になったようです。

 

 ケガをした人達は少したってからトラックが何台も来て、荷台へ乗せて宇品へ運ばれて似島へ運ばれ治療を受けていたそうです。

 

 私は2日ばかり過ぎてから隊の上官と2人で1週間ばかり、にぎりめしとカンパンと水を持って行方不明の戦友達を探し歩き、広島城は石垣が残っていただけ、電車は鉄骨だけになり、市全部が焼野原、無残なものでした。8月の末頃から日赤の病院へ看護に交替で行くも、火傷は化膿しハエがたかり、ウジがいっぱいで病院中悪臭で食べるものも喉をとおらないくらいでした。私達も下痢がひどく、今思えば放射能の影響かと思います。1週間交替で病院で亡くなった仏さんの死体の処理、焼けぼくを積み油をかけ仏さんを上に乗せ火葬約2時間位して、手の指が骨になれば茶封筒に名前を書き骨を入れ本部へ納め終了、1週間ばかり同じ事が続き、9月中頃、復員の命令が出て9月16日広島駅から貨車に乗り9月17日甲府駅へ無事到着。原爆1個で20万人も死んだ戦争、もうこれからは今の平和な暮らしがいつまでも続く事を願うだけです。

 

 

原爆の悲惨さを伝え 体験を世論に訴え

山梨県甲府市 内藤 藤三さん

 

 広島・長崎に原爆が投下されて60年の節目を迎え、過去を振り返り遠い記憶や当時の光景がよみがえり、思い起こせば一瞬にして20数万人の尊い命が奪われ生き地獄と化した。その残虐さは目を覆うばかりでありました。

 当時は特殊な新型爆弾、どんな爆弾かわからなかった。原爆が投下された時私は壕の中でした。壕の中まで襲うものすごい爆風、瞬間的烈風の風圧で天井から丸太が落ち、頭と首を直撃され数分間意識を失いしばらくして意識が回復し、ただ死に物狂いで壕の外へ出て周りを見ると、驚いたことに今まであった家が無い、広島の町が消えていたのです。

 まちの全体の建物が破壊され家らしきもの1つ見当たらず、コンクリートの壁が数ヵ所に建物らしく見えるのみで、すでにあちらこちらから煙が立ちのぼって家がみんな燃えているんです。これだけの広範囲を一瞬に灰と化したのです。あのピカーッと来たとき、吹っ飛ばされた人もいる。耳に入ったのは建物の下敷きになって家族を泣き呼び合う声、助けを呼ぶ悲鳴ばかりで、それが方々から聞こえてくる。それから光熱射線で火傷した人、川の中にもその炎の中から飛び込んだ人がうごめいていました。

 男か女かもわからない焼死体だらけ、そして全身火傷でみんなお化けみたいな人たち、ガラスの破片が無数に刺さり血のかたまりが、それは生きた人間の姿ではなく見るも無残で全く悲惨な光景でさながら地獄絵図でした。

 幸に私は壕の中にいたため、光熱射線は受けず命拾いをしましたが、8月6日被爆して15日終戦を迎え、軍隊生活から復員し山梨の自家に帰宅しましたが、放射能を多量にあび、それが原因で病気を起こし、8月終わりに高熱病にかかり病床につきました。

 光熱がでてチフスと赤痢の伝染病ではない、といったい「これは何の病気だ」治療方法はわからないまま40度からの高熱状態が数日間続き、当時病名はついにわからず一時は危篤状態となりました。

 当時は原爆と言うことは分かりませんし、放射線と言うことは当然分からない、その後放射線障害とわかりました。せっかく広島と山梨で2度も命をとり留めたのだから苦労しても生き抜かねばとの思いに支えられて半世紀以上を超えました。

 復員直後、放射線障害の大病をしてからいろんな疾病を併発して、回顧してみると薬漬けでよく生き長らえたと思います。現在も病気と闘っています。会社勤めのかたわら通院の日々です。

 訴えたいことは被爆60年、過去を振り返り複雑な心境であります。原爆や戦争がいかにむごいものか、生あるいま訴えておかねば、今の時代の子供や若者に残せる最大の遺産は戦争や原爆の悲惨さを伝えることであります。

 広島・長崎は原爆投下の熱放射による火災と火傷、その他放射線障害等から力強く立ち上がって60年が過ぎました。終戦の昭和20年に生まれ子供達も60歳を超えました。

 世の中はあまりにも変わってしまい忘れ去られてしまうような気がします。戦争を知らない人々にこれらを語り継ぐことと、平和と永続的な安全と実現を願いながら戦争の悲惨さ、核兵器の罪深さを後世に語り伝えて、私達被爆者は身をもって体験した原爆を世論に訴え、これから21世紀を生きて行く子供達や若者に語り継ぐことの大切さと再び原子爆弾などという大量殺人を行う核兵器がこの世で使われることのないよう心から願って、核兵器廃絶を積極的に伝えていかなければいけないという責務があり、つらい記憶をたどりながら、思い出話を私達被爆者は皆んなで花を咲かせ、実をならせ、育てて行きたいと思います。

 

 白血病で逝った孫

   ―おびえて生きる被爆者ゆえの切なさ―

山梨県甲府市 大越シミエさん 

     長崎の海軍監督官事務所で23歳の時被爆  爆心地から 2.5km

 

 

忘れようと 思う心の片隅に

  おびえて生きむ 吾は被爆者

 

ひたぶるに 祈る外なし 愛孫(いとまご)の

  白血病に 勝ちくれよと

 

 原爆投下後、55年になります。いろいろありました。一番悲しく切なかったことは、ようよう1年生を終えて8歳になる女の孫が亡くなったことでした。病名は「急性B型白血病」と言いました。「おばあちゃんが長崎で原子爆弾を受けているので、智ちゃんが白血病にかかったんよ」と言っているような声が聞こえてきた気がしました。渡しの耳元で「原爆だよ、原爆だよ」と誰かが叫んでいるような思いでした。

 原爆当時4歳だった長女も、平成5年5月30日、51歳9か月で急逝しました。発病してから14時間後でした。病名は脳内出血とのことでした。

 

 ふたたびは 帰りきませぬ 吾子(あこ)いくつ

       みれんなきかな 現(うつし)この世に

 

 亡くなった孫は、トマト、イチゴ、キウイ等、実のなる植物が大好きでした。家族5人で植物市を見物に行ったとき、キウイの木を見て植えたいから買ってというので皆で話し合い買うことにしました。お店のおじさんの話では、「1本では実がならないから、メスとオスを植えた方がいいよ」とのことでしたので、メス2本、オス1本を買いました。おじさんが「もう一言」と言って「3年目には実がなるよ」と教えて下さったのです。

 

 家に帰り玄関の空き地に3本植えました。 植木屋のおじさんから教わったことを思い出したんでしょうか、キウイに「早く大きくならないかな~」とか「早く3年経たないかな~」と話しかけたりして、待ち遠しい様子でした。

 夏が過ぎ秋が訪れ冬が来ました。また春を迎えました。背丈もいくらか3本とも大きくなったようです。孫は大喜びでしたが、平成2年4月20日すぎ、白血病と診断され入院。治療の繰り返しがしばらく続きました。12月27日の夜、口から鼻から大出血でした。苦しい息の元でお母さん、お母さん、2回呼びました。が、娘夫婦は私と交替し福生市の自宅へ帰っていましたので、さっそく電話で容態を伝え、すぐに来るようにと連絡を取りました。2人はすぐに車で来ました。

 

 「智絵(ともえ)」「智ちゃん」と2人で名前を呼びましたが目も開けません。左右の目尻から涙がとめどもなく流れていました。大きいため息をついたり、すすり泣きのようなしゃくりあげをしていました。

 10時過ぎ、大きい息を一つ、つきました。それが最後でした。医師の「ご臨終です」の声に娘夫婦も私もお互いに我に帰ったのでした。

 

 8歳の孫の命は永久(とわ)に絶え、この世とも、最愛の父母とも、愛しい妹の麻衣とも、祖母の私ともお別れです。楽しみにしていたキウイも、もう見ることも、触ることもできませんでした。

 平成5年秋、実がなりました。小さい小さい実でしたが、智ちゃんが待ちに待ったキウイです。少しでも大きくなってと思い待ちました。秋の終わり頃、ようようハサミを入れて、今はなき智ちゃんの墓前にお供えしました。「智ちゃん、待っていたキウイよ、来年はもっと大きくなるからね!」と声を出して語りかけながら、一人で泣きました。

 

 孫植えしキウイようよう初実つく

     今亡き孫に 供(そな)う切なさ

 

 孫に先立たれ、そして娘にも先立たれました。が、生きられる限り生きていかなくてはなりません。おびえて生きるこの苦しみと切なさ、被爆者ゆえのこの思いは何人(なにびと)にもしてもらいたくありません。

 核はもちろんいりません。世界が平和でありますように、戦争はどこの国でもありませんようにと、私は夜、床に入る前は、手を合わせて祈っております。

 つたない私の思いを聞いていただきまして、ありがとうございました。

  

   ※2000年8月「山梨 平和のための戦争展」でのお話を文章化しました

 

 長崎で原爆を体験して

山梨県上野原市  桑原 淳さん 

    長崎 当時17歳 魚雷艇の電信兵として任務 爆心地から2.5km

 

 昭和20年6月、私は17歳魚雷艇の電信兵でした。私の艇は本土決戦に備えて、天草下島牛深港の近くの小島小串郷に、艇を艤装して待機していた。天草派遣隊指揮官からは、敵機が来ても撃ってはいけない、敵の艦船または敵軍上陸とか指揮官の命令なくば射撃禁止、敵機が来たら常に隠れること。艇にはいつも山から切ってきた木の枝葉で空から艇がわからないようにカムフラージュしていた。ときどき係留場所を変える等の作業の毎日でした。

 ここで、魚雷艇について記してみます。

全長 18m、幅 6m、トン数 15~20t、乗員 9名、速力 30~40ノット(時速40~60km)、武器 魚雷両舷1(対艦攻撃用) 爆雷 6個(対潜水艦用)機関銃1丁13~25mm(対空用)

その他 小銃2丁・拳銃1丁 であった。

 小串郷には、他に同型魚雷艇1隻、震洋艇29艇、震洋艇とは、乗員1~2名、予科練甲飛13期、乙飛19~20期の18~20歳ほどの若者で航空隊を希望したが、昭和18~20年、飛行機はすでに無く水上特別攻撃隊になった人たち、艇はベニヤ板で造った全長5mほどのモーターボートで爆薬を積み敵艦に体当たりする水上特攻です。

 昭和20年4月頃には、制空権、制海権ともわが方に無く東シナ海九州近海まで敵機動部隊が来ており、毎日のように艦載機による空襲があった。

 昭和20年、我が基地の品物、魚雷調整用油、日用品、新たに手榴弾の火薬等々、本隊川棚基地(大村湾の内にある)受領の命令が私を含む6名(下士官3人、兵3人)にありました。船は30トン程の徴用貨物船で出発、夜間航行で2日間かかって川棚本隊着、3日間ほどで積み込みを完了、川棚基地を出発、常に日没後の夜間航行2日目長崎半島手前三崎、午前3時ごろ船のエンジン(焼玉エンジン)の調子悪くこの状態では牛深まで行けそうもないと船長が判断、長崎港まで静かにゆっくり走行し、やっと長崎港着、林兼鉄工所で修理することになった。

 長崎市旭町の鉄工所前の岸壁へ船を係留しエンジンを陸上げした。長崎では、毎日のように9~12時ごろに空襲があり三菱ドック等軍需工場が爆撃を受けていた。

 そして、運命の昭和20年8月9日11時2分、人類史上、広島に次ぐ2度目の原子爆弾の投下の日を迎えた。当日は、夏のギラギラ輝く暑い日でした。近所の少年たちがいつものように4~5人船のまわりで水遊びをしていた。私らは船で食事を作り食していたが、一昨日から係留していた船の前の民家の奥さんが「兵隊さん、家の炊事場を自由に使ってください」と言われたのでありがたく使わせもらっていました。その日は、先輩下士官3名の食事を後輩に任せ、私は洗濯してから食事をと思い洗濯物を抱えて屋外の水道のところに行こうとした時、突然私の瞼の内を青白い強烈な光が走り、続いて爆風と大音響、右側の窓ガラスが割れ、それとものすごい風圧により私の身体はゴムマリのように通路の板壁にたたきつけられ転倒、身体の上に土壁が崩れて落ちてきて、私はすぐに起き上がることができず・・・何が起きたのか?そうだ近くに爆弾だ・・・やっとの思いで板や壁土を押し上げ、立ち上がったら私の右顔面右手からかなりの出血、左手で刺さったガラス片を払い落とし、家の前の道路に出ました。

 先ほどまでまぶしく輝いていた太陽はなく、港は夜のように暗く風がものすごい勢いで渦巻き、木片、屋根のトタン板、ゴミ、土が舞い上がり飛び交い、とてつもない大きな竜巻が渦巻いているような、もしかしたら貨物船に積んである手榴弾の火薬が誘発したか・・・と思いながら船に走りました。

 しかし船は大きな波を受け、上下に大きく揺れているが異常はないようだ。これはいつもの爆弾とは違う「新型爆弾だ』と思った。船の近くで水泳をしていた少年たちが「熱い熱い」と手で自分の顔や身体をさすっていた。すると、皮膚がベロ~っと30~40センチもむけ落ちてしまうのです。そして私の目の前で「兵隊さん助けて助けて」と叫ぶが、私には何をしてやることができませんでした。私も右手右顔面からの出血のため立っていられなく、目の前が暗くかすんできました。そのうち家の中にいた先輩、下士官が飛び出して来て「桑原!しっかりしろ!」と私を抱えるようにして、稲佐山の下にある救急所に連れて行ってくれました。そこで係の職員が、上腕部をひもで強く縛り止血の処置、薬等もなく座っているだけでした。高台にあった救急所から見渡す長崎の港、街、それは先ほどまで明るい静かな港、街並みはどこにもなく、家は倒れ破壊され、方々から火災が発生、次々に救急所へ来る血まみれの負傷者、頭の毛が焼け焦げた火傷の夫人、等々、本当にどうしようもない惨状に、この世の地獄絵でした。

 その夜は、近くの防空壕で対岸の長崎駅、県庁、市街地方面の火災を見ながら朝を迎えました。

 翌日、三菱ドックの半分爆弾で崩れかかった病院で、左手の傷を3針ほど縫ってもらいました。その医師は昨日から一睡もしていなかったようで、目が赤く充血してものすごく疲れている様子でしたが、「兵隊さんは、次の任務があるだろうから」と右手傷口3針縫い合わせてくれました。本当に頭の下がる思いでした。

 しかしその間も、戸板に乗せられて来る人、被服がボロボロに破れ、体中に水泡がいっぱいできている人、顔が黒焦げで頭の毛が焼け焦げてしまい男女の区別がわからない人達、昨日の救急所と同じ惨状でした。本当に私の負傷くらいで治療してもらう等恥ずかしいものでした。(後で知ったが、私の被爆地点旭町は、爆心地松山町から2.5kmだった)

 広島に続いて長崎にまた新型爆弾投下の報があったので、川棚本隊から代替船が11日に迎えが来た船に荷物を積み替え、天草牛深へやっと帰りつきました。

 そして、8月15日終戦、それぞれの魚雷艇に乗り昼間、航海18日部隊着、搭載武器すべて武装解除、8月23日部隊解散、大村線南風駅から石炭殻の入った無蓋の貨車で帰途に、食料は乾パンと水筒の水だけ、雨に降られたり、トンネルに入った時は手持ちの毛布をかぶる。広島駅で2時間動かなかった。

 この地が原爆1号の地であること、一面の焼け野原だった。今でもあの日見た広島・長崎の倒壊した町と重ね合わせ、私は生涯忘れないことでしょう。

 3泊4日程かかって、やっと上野原に帰り着きました。

 

 長崎原爆と私

 山梨県上野原市 細田 喜輔さん 

長崎 当時高校3年生 報国隊として工場内で働いている時

 

1.8月9日

 当時、私は県立工業高校の3年生だった。昭和20年3月から級友たちと一緒に、三菱兵器製作所大橋工場へ、長工報国隊として動員されて働いた。工場内の配属先は数か所あって、私たちのグループは鋳造工場の木型場に配属となった。ここで、魚雷(魚型魚雷)の安定舵や操縦器の部品の格納函(木製で30㎝四方程度の大きさ)のカンナ仕上げや、取手金具の取付け穴あけ作業等に従事していた。

 そうして運命の8月9日(木)の朝を迎えた。今日も晴天でギラギラと、暑い一日になりそうな朝だった。工場へ出かける前に父親に昨日の大詔奉戴日(毎月8日をそう呼んでいた。正確には12月8日)に工場の特配で貰ったにぎりめし1個(7分づきの黒いにぎりめしで醤油がまぶしてあった)の話をした。そうして7時ごろ、松山町173番地の自宅をあとにしたのである。父親との、このにぎりめしの話題が最後の会話になろうとは、まったく知る由も

なく1.3km離れた大橋工場へ。

 工場では今日もいつものように警戒警報、空襲警報が相次いで発令されて、私たちは駆け足で場外に退避した。所内の鉄筋コンクリート建て本館の屋上には機関砲が据え付けられていた、空襲警報が発令されると、海軍警戒隊の兵士が配置に着いたようである。私たちの場外退避所は、大橋工場の南手の丘にいくつも掘られた横穴壕だったが、私たちはいつもそこに入らないで、その丘の上の松の大木がいくつもあって涼しい風が吹き通す場所だった。そこに避難した私たちは、いつも涼風に吹かれながら、寝ながら時を過ごしたものである。そこからは下の街も見渡せた。

 そして警報が解除になっても、つい居眠りを続けて、工場へ戻るのが遅くなることがよくあったのだが、不思議に工場の人たちからも、門前で立哨(りっしょう)している海兵隊の人たちからも叱られたことはなかった。

 

2.原爆炸裂

 さて、その9日も、そこでそのように時を過ごし、やがて今日も何ごともなく開会警報が解除されて、再び職場に戻って生産に取り組んで間もなくのことであった。

 それは何の予告もなく、突如としてすさまじい閃光が走った。引き続いて轟音(音の状態は聴覚的にははっきりと表現できない)と共に、ものすごい爆風が襲ってきて、爆心方向に面した窓際の足踏みボール版を操作していた私は、後方へ数メートル吹き飛ばされた。鳴りが収まるまでどのくらい時間が経ったのだろうか、目に見えない絶大な力に全身が押圧されて、ただ全くなすがまま身動き一つできなかった。この間カメラのフラッシュを眼前で連続的に浴びているようで、一面真っ赤(としか表現が難しい淡黄色、紫色)で何も見えない、もちろんすぐ眼は閉じたと思う。

 やがて、ウソのような静寂が来た。私は身を起こそうとし手が動かない。倒壊した木造木型場の下敷きになった私の身体の上には、屋根や梁が覆いかぶさっていた。「このままでは死ぬぞ!」と予感した私は必死になってもがいた。渾身の力を込めて何回も何回も繰り返した末、やっとのことで這い上がることができた。

 起き上がって私が最初に見た光景・・・、それはつい先ほどまでギラギラ照り付けていた真夏の太陽が消えてしまった暗闇の大地、広大な敷地に当時従業員約6,000名を擁し、昼夜を分かたぬ軍需生産の響きが一瞬にして沈黙してしまった無音の世界、荒野の大地であった。

 

3.傷つきながら

 やがてあごから胸にかけて、血だらけになった級友の松尾君が現れた。周囲はやや明るさが戻り始めていた。「松尾!ヤラレタナ!」と私が声をかけると「細田!お前もヤラレタナ!」と彼が言った。彼の言葉に我が身を振り返った私は“ゾッ”とした。全身血だらけだ。左乳部が深くえぐられ乳部が半分内ではないか!!

 暗がりの中から、友を呼ぶ声か?「ウォーウォー」と低く訳の分からぬ言葉を発しながら、1人2人3人と、」だんだん数を増やしながら、人々は逃げ走ってくる。渡辺(高)、渡辺(正)、松崎、寺田、谷口、吉岡君等友達も集まってきた。それぞれ負傷しているが比較的軽傷で元気そうだ。逃げねばならない、いちように皆そう思ったに違いない。誰ということなく「逃げよう!」といった言葉に私たちも一団となって他の人たちに混じって、山の手目指して駆け出した。友の助けを借りながら、私も必死に駆けた。

 負傷のため、桃の皮をむいたように、黒く日焼けした身体の表皮が垂れ下がり、その下から白い肉の肌をさらけ出したたくさんの人達。もはや面相もわからなく立った人達、そのような人達に何人も何人も出会った。皆一瞬の出来事のためか、あまりの重傷のためか、痛さを訴えるのでもなく、ただ恐怖に難く表情をこわばらせていた。しかもそれらの人達は、皆1か所に立ち止まらないで右往左往していた。私たちはただ驚愕するだけだった。

 新型爆弾だと分かってきたのは、この頃だったろうか。被弾直後はあまりにも急激な周囲の状況変化に身も心も動転してしまってよく判断もつかなかった。電気の大災害、そう私は思ったほどである。

 過去に戦争体験など何一つない15歳の少年だった私たち。3日前に、消防署に勤務していた兄たちから、広島の新型爆弾のことは聞かされていたのだが、すぐ今の状態がそれだと判断できなかったのは、無理からぬことであったろう。

 自分自身の負傷もさとり、周囲の膨大な負傷者を目の当たりにして、今までのチャンバラ映画や戦争映画のカッコよさとは似ても似つかぬ悲惨さ、怖さを身を持って体験した私は、恐怖におののきながら逃げ回っていたのである。逃げる駆け足のさなか、半壊した民家の床の間に飾られた御真影の無事を見ては大日本帝国の無事と戦争の必勝を見た想いを抱きながら。

 

4.燃えている浦上

 市中が見わたせる小高い丘。例の私たちの避難場所では、松の大木が根元から吹き倒されていた。つい先ほど被弾の時、私たちがここにいたらどうなっていただろうかとと思うと、強い衝撃を受けた。皆励まし合いながら山の奥深く徘徊していった。雨が降ってきた。小鳥が飛ばないのを友が見つけ、叫びながら追い回した。小さな清水の流れているところで一休みした。友の一人の渡辺君が布切れに水を下して、私の顔面の血を拭いてくれた。少し離れたところで別の友人たちが私に聞こえぬよう小さな声で「細田は助からないのでは」と噂している。私は気が気でない。「俺は死なないよ、俺は死なないよ」泣かんばかりに、自ら言い聞かせ元気づけていた。

 皆、腹が減ったと畑のキュウリをかじる。「昼食はどうしたのだろうか」と私が友に問うた。「まだ昼食前だったのだ」と友が答える。全く時間の経過がわからない。キュウリを食べた友は皆嘔吐した。私もかじって嘔吐した。

 「燃えている、燃えている。これで当分仕事はできない。家へ帰れる」徴用工さんたちの声。「ヒリつくよ~、ヒリヒリする」と叫ぶ動員女学生の悲鳴があちこちから聞こえてくる。私の負傷個所からの出血はまだ続いていた。このようにして私たちはどのくらいの時間、山中を徘徊していたのだろうか?やがてその後の攻撃の恐れがないのに安堵して下山していった。

 家野町付近のまだらな農家や民家はみな余燼(燃えさし)がくすぶり、あたり一面に立ち込めていた。このあたり一帯も負傷者があふれ、ひしめいていた。無事を喜び合う人達。水を求める人達。ここで出会った工場の山口工長さん達も私たちが助かったのを喜び励まして下さった。最初に逃げた時の友人はもうバラバラになり、ここに来たときは、私と寺田君2人になっていた。私は無性に水が飲みたかった。寺田君が卵の殻でどこからか水をすくってきて飲ませてくれた。一杯ではとても足りない。「負傷者に水を飲ませるな」「出血しているものに水をやってはいけない」とあちこちから叫ぶ声々。丁度その頃、兵隊1名が来て大声で叫んだ。「皆よく聞け。市内は相当な被害を受けた。負傷者の手当ては到底できない状態だ。間もなく救援列車が来るはずだから、重傷者を介添えして線路際まで下りるように」こう言い置いて去った。寺田君に助けながらわたしはまた力無い歩みを始めた。

        (以下略)

 

※この一文は、当時神奈川県に住んでおられた著者が、「ヒロシマ・ナガサキの声」創刊号(1987年、長崎の証言の会)にお書きになった者です。長文なので最初の部分だけを掲載させていただきました。

 

 一人生かされて

山梨県甲府市  今村淑子さん 

長崎 当時16歳 

 

 私の家族は九人で山里町(現在平野町)平和公園の隣の町で暮らしておりました。

 私は当時16歳、前から足のおできが痛くて休んでおりました。薬もなく包帯もなく不衛生なので治りも悪く、痛いのを我慢して9日、7時に姉の作ったジャガ芋入りのお弁当を持ち電車に乗るため、遠い始発駅まで行かねば乗れない状況でした。

 始めからギュギュに詰め込まれ、人間だかなんだか分からない、窓も入り口も人が溢れている状態です。米の配給など30日遅れ、米櫃はいつも空っぽ、田舎に買い出しに毎週行きました。リュックに南瓜、ジャガ芋、切り干し、それさえ中々売ってもらえず、情けなく涙を何度こぼしたことか「欲しがりません、勝つまでは」と、私達は頑張っておりました。

 あののろわしい9日の11時頃に、物凄い音と爆風で畳の上の机や椅子が1メートル以上も持ち上がり、窓ガラス片がメチャメチャに降ってきました。

 「空襲だ!」皆机の下に潜り、様子をみました。火の手が上がらないので、ガラスの上を飛ぶようにして防空壕に走りました。 当時は昼夜を問わず空襲警報がなり寝る間もなく毎晩防空壕に走りました。灯りは一切つけられないモグラの様な生活でした。

 少し経って外へ出てみますと、浦上の方が真っ赤に燃え黒煙が上がっています。私の家の方向です。心配でワナワナ震えました。

 そのうち山越えで逃げて来た人がゾロゾロ列をなして火傷で皮膚がぶら下がり、赤い肌が血まみれの人たちは、毛髪はジリジリ、衣類等ボロボロで表地など見えない位むき出しで弱り切っている人達、背中一面焼け爛れた叔母さんが「助けてください」と手を出して縋るのですが、赤チンすらない、何もない救護班もまだない、行き絶え絶えの人たち、「水をくれ、水をくれ」拝まれるのですが「やったら死ぬぞ」駄目と言われ、どうすることも出来ず呆然とするのみでした。

 これが地獄なのか、生きているのか、夕暮れ迫るころ、運のよい人が防空壕で助かった人もいると聞いて、早く両親姉妹、8人の安否を知りたくあせるのみです。通行禁止で家に行くことも出来ずに、ただ心配で心配で寺の境内で不安の一夜を過ごさねばなりませんでした。敵機がまだブンブン上空を飛んでいます。

 住職さんが「被災者の皆さん、今宵限りの命と思ってください」とお話があり、お別れの「おにぎり」が1個ずつ配られ、みんな食べながら泣きました。闇に「ゴーン」と低く鐘が鳴り、ああこれで終わりの日だと手を合わせ、父母姉妹の顔が幾重にも涙にうかびました。

 朝まだ命があったので、寺を降りて浦上に行くには電車道をと思い線路まで出ました。ガレキと死体と、馬は大きく膨れ四足を空に向け、真っ黒焦げの電車、とても通行出来る状態ではありません。判別できない死人の山、通行止めなので山越えと決めました。山は隠れるところがないので敵機から丸見え、山の窪みに隠れながら進み山頂に着きました。

 「こんぴら山」の上から見た浦上は、まるで竹箒で掃いた様に何も残っていません。家も庭の木々も何もない瓦礫と化して、長崎医大の横にある石段と、焼けただれた校舎の一部が残っているのみ、何とか家の跡地にたどり着き、我が家の大柱が一メートル位残して無惨に焼け落ちていました。掘り起こすことも不可能で、ただ呆然と声も出ません。現実なのか悪夢なのか、半年位考える力がなく、叔母の家に厄介になりました。

 

 今でもその日のことが鮮明に思い出されます。原爆投下者はボールデイベツ機長で、米国では英雄として尊敬されているそうです。

 

 防空壕にいて助かった女性から、私の母や妹甥が松山町の(今、平和公園のある所)家に居たと話をしてくれました。そこは高台なので全員崖下にとばされ、死体が山積みになって焼けて骨だけと聞かされ、捜すことは出来ません。

 この地獄は体験者しか分からない、一生忘れる事ができない。長崎の町は毒が一杯と言うことで、叔母の田舎の家に行きました。すこしたって吐いたり下痢したり熱が出て、1週間死線を彷徨いましたが、やっと命を取り留めました。

 夢に姉が出て来て、地下で「助けてくれ」と叫ぶので、人を頼んで家の跡地を掘ってもらいました。台所の地下室の階段のところで、すぐ上の姉(禎子)が逆さになって、まだ頭蓋骨に毛が残っていました。中庭には父らしい太い骨が、そばに細い骨が寄り添うように押し潰されてありました。丁寧にみかん箱に泣きながら収めました。

 被爆者の家族として送る悲しみ、運命を変えられて、どんなにか耐え忍びましたが、また結婚も出来ない友、子供を産むことを諦める人、病院で苦しんでいる人、戦争は絶対反対、核を持つ国が増え、権勢しあっている状態では平和を叫んでも覚束ない。

 被爆洗礼国としてもっともっと強く、国は世界に訴えるべきです。「核廃絶」若い人たちにこの訴えを続けてもらいたいと思います。

 

 忘れてはいけない「二度と核を使わない」

 

 不戦への誓い新たに  

山梨県甲府市  藤野義男さん

長崎 爆心地から3~4km

 

 昭和20年8月9日、アメリカの爆撃機B29から投下された原子爆弾は長崎市松山町の上空約500メートルで炸裂した。強烈な爆風と4,000度を超える熱線、そして恐るべき放射能が浦上地区を地獄の底に落としいれた。

 当時、小学生だった私は、厳しい日差しの中で近所の友達とキャッチボールで遊んでいた。11時2分、一瞬の閃光で目が眩み何も分からないまま家の地下壕に駆け込んだが、ふと妹がいないのに気が付き慌てて母と2人で表に飛び出し路肩にうずくまり泣いている妹を家の中に連れ戻した。

 建物疎開で本下町(現・築町)から新中川町に転居し、爆心地から3,4キロメートル離れていたが、玄関のガラス戸はめちゃくちゃに壊され、箪笥の上のラジオや置物は畳の上に落ち、障子の桟や屋根瓦の一部が飛び散っていた。

 水を求めて焼け爛れた身体の半分を川の中に浸けて息絶えた人、座ったままの姿が地面のコンクリートに焼き付いて死んだ小学生、蝉取りの格好のまま山中で焼け死んだ子供たちなどその惨状は筆舌に尽くし難いものであったらしい。

 戦後に米軍は、三菱長崎造船所と三菱兵器製作所そして街の中心地(浜の町付近)を結ぶ三角形の中心に当たる長崎駅に狙いを定めて投下する予定だったが、風で北方に流され浦上上空で炸裂したのだ、と言う噂があった。

 いずれにしても、一瞬にして7万余の生命を奪い、多数の被爆者をつくった核兵器を許すことは出来ない。

 急遽、市内の小中学校の一部に救急診療所が開設され、救護及び被爆者の収容が行われた。医薬品の不足と患者数の多さで十分な治療ができなかったそうです。

 それから数日後、私が通学している小学校の運動場が臨時の火葬場となり、建物疎開のあとの家屋を取り壊した廃材を組んで遺体の火葬が行われた。荼毘の炎は昼夜の区別なく天を焦がし、悲しみの嗚咽が運動場一杯に何週間も続いた。荼毘の炎の中に犠牲者の悲しい声が聞かれた。

 私達被爆者は、この地獄のような体験から戦争と核なき平和をめざし、核兵器の廃絶を全世界に訴えなければならない。

 最後に、不幸にして被爆で亡くなられた人々と、戦争で犠牲になられた数多くの人々の御霊の安らかなることを心から祈念します。

 

 第16回 長崎原爆犠牲者

   慰霊平和祈念式典に参加して

山梨県甲府市   藤野道子さん 

長崎 当時9歳 爆心地から3~4km

 

 

昭和20年8月9日、長崎市内は一瞬の閃光が、人々の運命を変えたと言っても過言ではないと思います。

 今年被爆60回目の長崎原爆の日を迎え、山梨県代表として、式典に参加させていただきました。 

 式典当日も、60年前と同様厳しい日差しの炎天下の中で、式典が粛々と執り行われました。式典には、小泉純一郎首相を始め、各政党の代表、遺族代表、被爆者、長崎出身のさだまさし等著名人の方々、そして6,250人が参列し、「長崎の鐘」が鳴り響くなか始まりました。

 今年7月迄の1年間に、2,748人の方々が亡くなられたそうです。その中には私の母と兄も名簿に記載され奉安されました。

 60年前私は9歳でした。8月9日の朝、「いってらっしゃい!」と三菱兵器に勤めている父を送ったのが最後の父の姿でした。母は父を探しに爆心地に毎日毎日行き、消息がわからないので、重い足を引きずりながら一日一日が、むなしく過ぎていきました。

爆心地から3,4キロ離れた中川町に居住していた私どもの所にも、火傷した人、皮膚が半分垂れ下がった人達が山を越え戻って来ました。2,3日後には、小学校の運動場は火葬場に変わり、その惨状は筆舌に尽くし難いものがありました。色々話しても話しても、話が尽きることのないくらいの惨状だったことを覚えています。

 式典の間、自分の半生を振り返り、もう60年たったのかと感慨無量でした。

 原爆で父を亡くし、その後、教職につき女手一つで子供3人を育て上げた母も、昨年天寿を全うしてこの世を去りました。天国で60年ぶりに父に再会し、私達の成長を話してくれていると思っています。一歳違いの兄も、幼少の頃から肺が弱く病気がちでした。母と前後して昨年9月に旅立って行きました。あちらで両親に精一杯甘えている事と思っています。

 これからの世の中、いかなる理由があっても核兵器を使ってはならないと思います。

 被爆者の高齢化が進む中、この苦しみ、惨たらしさ、怒りや悲しみをどれだけの人達に理解してもらえるのでしょうか?被爆の惨劇を風化させてはいけないと、心から願い式場を後に帰途につきました。

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会 「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会