「きのこ雲」 第3集

昭和60年(1985年)発刊

題名もしくはお名前のところをクリックしてください

24名の被爆者の方々に体験談を寄せて頂きました。

九死に一生を得て・・・・・・渡辺 渡さん    広島 当時21歳 兵隊の教育隊として広島に勤務中被爆 

短 歌・・・・・・・・・・大越シミエさん 長崎 当時24歳

原爆で亡くなった家族・・・・中村百合子さん 広島 当時19歳

一生の生地獄・・・・・・・・守屋政重さん  長崎 召集兵として長崎へ

三年の命を生きのびて・・・・川口仙一さん  広島 船舶隊に所属

不安をもちながら・・・・・内藤藤三さん  広島 当時22歳 暁部隊に所属 爆心地から約2km

平和を願って・・・・・・・・河野六郎さん  広島 当時22歳 暁部隊、壕の中で任務中

忘れられぬ長崎の朝・・・・・桑原淳さん   長崎 当時16歳 海軍少年兵

無 題・・・・・・・・・・・白沢いづみさん 広島 当時21歳

広島原爆・・・・・・・・・・渡辺光雄さん  広島 暁部隊、徹夜の任務後、就寝中

十六才で被爆して・・・・・・宮原正司さん  広島 当時16歳

運よく生き残って・・・・・・八幡ミツエさん 広島 当時32歳 主婦、朝食の支度中

無 題・・・・・・・・・・・日々野 学さん

思い出したくない思い出・・・中沢フジエさん 広島 当時21歳 銀行に通勤途中、広島駅前で

地獄からの叫び声・・・・・・白沢英寿さん  広島 当時27歳 船舶集団司令部で整列した直後

運よく生きて・・・・・・・・遠藤善作さん  広島 当時18歳 鉄道隊員として任務 爆心地から2.5kmで被爆 

ヒロシマーあの時の手記・・・小田切恒広さん 広島

皆んなでなくそう核兵器・・・伏見成夫さん  広島 当時20歳

猛火の中の子と母・・・・・・小沢万彦さん  広島

うらめしい原爆・・・・・・・中村美智さん  広島

悲惨な原爆の思い出 ・・・・鈴木寅男さん  広島 当時19歳 初年兵として訓練中

やっと生きのびて・・・・・・小草よし子さん 広島 自宅で

死線をのりこえて・・・・・・匿 名     広島 船舶教導連隊で演習が始まった時

生き残って・・・・・・・・・米内幸子さん  広島 当時27歳

あとがき ・・・・・・・・・米内幸子さん

 

「九死に一生を得て」  

山梨県身延町  渡辺 渡さん

当時21歳  兵隊の教育のため広島にいるときに被爆

 

「きのこ雲」第2集に、広島での私の被爆の状況を書いたが、この度はその後どうやら帰郷することができた11月4日までのことを書く。第2集に書いたように、私は鳥取第四補充隊で初年兵教育にあたっていたが、広島教育隊に小隊長教育のため派遣されそこで被爆した。8月24日に広島を後に、鳥取に帰り夜11時ごろ営門に着いた。赤江中隊長が迎えに来てくれた。被爆後消息不明になっていたので、明日にも死亡の広報を出すところだったという。部隊では夜おそくまで、書類を焼く日が続き、軍紀はみだれ、物資の欲張りっこという有様で、10日前までの「皇軍」であったものがこの始末とは情けないものであった。

 鳥取に帰ったころより、全身に紫の斑点が出始め、歯茎から出血があり、加えて頭髪が抜け出した。毛髪をつかんで引っ張るとつかんだだけ抜けてしまう。鏡で自分の顔を見たもの部隊に帰ってからだったが、余りの形相というか我ながら醜い姿に、いっそ広島で死んだ方がよかったと何度も考えた。熱は常に38度前後であった。鳥取陸軍病院にも大勢の被爆者が入院していたが、死亡者が多くて空きができたので、部隊に残っている被爆者全員が入院することとなり、27日頃私も岡本見習士官(31年3月死亡)と一緒に入院した。部屋は大部屋で、患者が太陽に当たってはよくないとかで、窓という窓は全部暗幕が張られ、輸血やリンゲル注射等が必要な重体の人たちが多かった。 

 入院後採血されたが、これは白血球の検査のためで、被爆者の白血球が減少するからだという。しかし、あなた方は元気だから白血球も大して減ってないでしょう、と看護婦さんが元気づけに言ってくれ、自分でもまたそう信じていた。11時半ごろ、輸血するというので、「俺の白血球は少ないのか?」と聞くと、心配することはないが輸血した方がよいと言われ、輸血というものを初めていした。間もなく、昼食が運ばれてきたので、食べようとした時、急に寒気がした。夏だというのに震えが止まらず、布団を一枚増してもらったがどうにもならない。どのくらい経ったろうか、震えが収まったころには、ひどい熱で殆ど記憶も定かでないが、その日の夕方別室に運ばれたことを覚えている。この別室は重症患者室で、私の他に二人いたが、この二人は私が入院中になくなってしまった。熱は41度2分、こんな熱が9月2日まで続いたが意識は割合はっきりしていた。

 近くに屍室があり、朝になると棺桶が5つ6つと廊下に運ばれていき、間もなく鐘の音がして読経の声がかすかに聞こえてくる。明日は我が身か、と動揺する日が続いた。輸血とリンゲル注射が毎日行われ、その輸血も腕からではなく、胸板にドリルのようなもので穴をあけ、心臓近くに輸血するのだが、その苦痛は今も忘れない。症状があまり芳しくないことは凡そ察しがついていたが、白血球は入院患者中一番少なく、たったの900であった。家の方には31日、電報が2通一緒に届けられた。「ヤマイオモシ」「キトク」の知らせだった。戦争が終わり息子二人が帰ってくる。それをどんなに待ち遠しく感じていたであろう父母にとってこの知らせは大きな衝撃であったろう。後々まで当時の話はよく聞かされたものであった。

 この頃からの記憶は殆んどなく、それだけ高熱で重体だったのだろう。主治医の錦織軍医の他に院長が来診したように思う。中隊の戦友がベッドの周りに立っている。その姿がはっきりしたかと思うと、また消えて行く。遠くの方から「渡辺少尉」と叫ぶ声がかすかに聞こえてくる。そんな中で院長が言う、「親に逢わせてやりたい。郷里はどこだ?」「少し遠いな」「どんどん強心剤を打ってやれ」どれ位時間が経ったのだろうか。意識が戻った時、部屋の入り口に父が立っていた。「広島にいたんだってな。大変だったろう。少しも知らなかった」という父の顔に涙が一条、二条流れていたのをはっきり思い出す。今もこのことを書いていて、人の子の親となっている私は、当時の父の心境を思うとき、涙が流れてどうしようもない。それは9月3日の夕方であった。意識不明が一日以上続いたのだった。

 父が来てくれたのと危機を脱したことが重なって、熱も下がり始め心身ともに楽になった。父が来たので私は個室に移された。私は「白血球が少ないので、鼻血が出ると止まらないから、2,3時間で終わりだよ。亡くなった人たちにはそういうのが多かった。」と父に話しておいた。5日の夕方、口の中がおかしいので唾を吐いたら真っ赤だ。あお向けに寝ているので、鼻血が口の中に溜まったのだ。父が慌てて軍医のところに走り、すぐに止血剤を注射したが、白血球が少ないからあまり期待が持てないことを父に告げた。それは死の宣告だった。意識がはっきりしているのに、あと2,3時間で終わりだと思うと、この時ほど死の恐怖を感じたことはない。父が氷を見つけてきて、凍傷でも起こすかと思うほど顔面を冷やしてくれた。それがよかったのか、30分位で偶然のように鼻血が止まり、軍医は驚いていた。今考えても私はほうとうについていたように思う。この後も、いつまた出血するかと当分の間は鼻血恐怖症になっていた。

 7日後、義兄が私の生存を確認して、母を伴ってやってきた。母は私がすでにこの世のものではないのではあるまいかと、病院に入るのが怖くて、義兄を先に寄こしてそれからやっと入院室に入ったのだった。汽車は復員する兵隊で混雑をきわめ、長い道中立ったまま一睡もしないで、死ぬような思いでやって来たとのこと。その上私の安否を気づかって、その心労は並大抵ではなかったろう。それが思いもかけず生きて逢えたことがどんなに嬉しかったかと、その時の話になると母はいつも声をはずませて話してくれる。その翌日、父と義兄は帰り、母と二人になり、数日後に復員した兄も来てくれた。もう会うこともないと覚悟していたのに、敗戦で今ここに親兄弟再会できたことはこの上ない幸せで、生きていることの喜びをしみじみ感じたことであった。

 兄も帰り、母と二人の異郷での長い病院生活が始まった。それは白血球との戦いのようなもので、多くの人が白血球の数が3~4000の中で私は900だったので検査がある度に母と二人でその増減が一番気になっていた。「広島に原爆が投下されたがドクダミだけは残っている。だからドクダミが一番白血球には良い。」と誰に聞いたのか、母はドクダミをとって陰干しにしてそれを煎じて呑めと言う。しかし、私はこれだけは呑まなかったが、それを呑んだ人も多かった。他の人と違って私の白血球数は、検査の度に増えたり減ったりはせず、少しずつではあるが必ず増えていった。それでも5000近くになるまでには相当期間を要した。

 長い入院生活で寝ダコには悩まされたが、病院の裏の稲が刈り取られる頃には退院する人も多く、病室もガランとしてきた。そのころには廊下を歩けるようになり、徐々に足腰をならして退院に備えた。11月3日退院ということになり、その前日母と二人で切符の購入に鳥取駅まで行った。頭髪は抜け、顔は火傷のあとが生々しく残っている自分の姿を見て、街行く人々は奇異に感じたことであろう。駅に着いて、かつての部隊本部の少将が早々に復員し、背広姿でいるのを見たときは無性に腹立たしく跳んで行って、ぶん殴りたい衝動にかられた。長い道中、苦労しながらも、途中人の情けにもすがって、11月4日、生きて郷里の地を踏むことができた。

 私は幸いにして九死に一生を得たが、不幸にして亡くなられた多くの広島の犠牲者の冥福を心から祈りたい。

 戦争と原爆の悲惨さを体験した被爆者の一人として、核兵器を憎み、それが世界からなくなることを願う次第である。

 

  

     短 歌

山梨県甲府市   大越 シミエさん

当時24歳 長崎で  

 

 

 

     被爆者のいかりの声あわれなる

         いやましきこの吾も被爆者

 

     悲しみ多きこの街に今立ちて

         想いは吾をかけめぐりおり

 

     忘れようとおもう心の片隅で

        おびえて生きん吾は被爆者

 

 原爆で亡くなった家族  

山梨県河口湖町 中村 百合子さん

    当時広島在住 勤めていた会社の中で被爆

 

 当時私の家が広島市にあり、私の勤めていた軍需会社、三菱工作機械株式会社の社員が皆で、市内の建物を壊す作業を交替で行っていました。原子爆弾が落ちら瞬間、ちょうど会議か何かで皆、一つの橋に集まっていました。そして、落とされた後、広島市街が見える比治山の中腹に逃げていました。それから、火の手が上がったのがわかり、家が近くにあったのですぐに帰りました。途中、皮膚が手袋のようにはれあがったり、焼けただれてぶら下がっているような人達が郊外へのがれていく中を、どんどんかき分けて、市内に入っていきました。会社の作業へ行った人にも会いましたが、その人たちの中にはあとから亡くなったり、その場で亡くなったりした人もいます。騎兵隊があった所では、大きな馬が死んでいて、兵隊の死体が転がっていました。また、母親が亡くなって、子供が生き残っていたり、まったくひどいものでした。今だから言えるのですが、あのジャガイモの腐ったような臭いは死体の臭いだったのです。

 家は燃えなかったけれども半壊で、ミシンが一部屋突き抜けて、飛び出したというくらいの爆風でした。縁側にいた母と弟は、ヤケドをしましたが、叔父に歯医者がいて、いろいろ薬や手当をして奇跡的に治りました。しかし、弟は幼かったので亡くなりました。 

 妹は行方不明になりました。横川の方の銀行へ勤めていた妹が夕方になっても帰らないので、いろいろと聞いてみました。よく家の方から妹と同じバスに乗っていた人が、そのバスを降りて、乗り換えのバスを待って並んでいるとき被爆して亡くなり、死体がありました。妹の死体がないので、それを探して父と広島市内を歩き回ったのですが、わかりませんでした。銀行に入った瞬間に落とされたのではないか、と云うのですが・・・。

 死体はありとあらゆる所に、転がっていました。焼けてわからないので、歯の治療をしていた妹の金歯を手掛かりに、死体をひっくり返しては、口をあけてみました。父と銀行の建物の中にうす高く横になっている死体をひっくり返すと毛が抜けてしまったりして・・・。口では全く言い表せませんでした。

  白血病で亡くなった弟

 忘れもしない57年8月、実家の弟が白血病であと3週間の命との広島からの連絡。

 普段は大変元気で、7月末日の納期の迫った工作機械の修理を、残業残業で忙しく働いているとのことでしたので、電話を受けてただ驚くばかりでした。主人と二人急ぎ広島大学病院に直行しました。弟は広大原爆放射線内科に入院していました。家族の話では、仕事も一段落した8月に歯医者に通院していて歯医者の勧めで、すぐ近くの開業医にかかり、急ぎ広大病院に紹介していただいたとのことでした。血小板が異常に少なくなり、歩行も禁じられていて絶対安静とのことでした。白血病には新薬がどんどん出ているので、もし体質に合えばよい結果が得られるかもしれない・・・その後は、主治医も言葉をにごすだけでした。

 秋に病院を訪れた時は、薬の副作用のためか、頭髪が抜け落ちてしまい、検査検査で大変つらい等、泣き言を言いながらも11月には退院をして甥の結婚式にも出席するほどになりましたが、・・・再度入院、広大のご厚意によりフレッシュな血液を500人分もいただきながら、56歳の若さでとうとう帰らぬ人となりました。仲間12人で、有限会社菱機製作所を作り、3年目に入りどうにか軌道にのってきた矢先のことでした。B29からの一発の原爆のため、これで私の実家では4人の犠牲者を出しました。そして戦後40年が過ぎた今も、私たち被爆者はどんな小さな体の異常にも神経をとがらせてしまいます。

 

 「二度とあの過ちを繰り返さない為に」

 そして、日本国民全他の生存にかかわる、否人類の生存にかかわる核戦争阻止を、核戦争廃絶を叫べども、日夜報道されるニュースは、あまりにも私たちの願いとはかけ離れていて、むなしい限りです。ソ連の戦闘艦隊としては最大規模、五島沖に南下・・・、米国のMXミサイル計画でソ連は新しいミサイルを開発・・・、気になるニュースばかりです。でも、私たち生き残った被爆者は、言論の自由もない中で、原爆の犠牲になった幾十万の善良な市民のためにも声を大にして核兵器反対、核戦争を起こすなと叫び続けることが、残されたただ一つの義務だと思います。

 

 

 

 一生の生地獄

 

    山梨県甲府市  守屋政重さん

長崎で被爆      

 

 

思い出すのも恐ろしく、語ることさえ恐怖におののく、これが私ども被爆者のみが知る共通の悩みであり、苦しみと不安の戦後30余年の足跡だった。「きのこ雲」第3集を発行するにあたり今こそ身を以って、死線を超えた体験と核戦争に依る恐ろしさを、未だその実情を知らないこれからの若い世代の人々に強く訴え、永遠の平和を築く道標となれば幸いと、ここに当時を追憶して、その悲惨な一端を記してみた。

 

 昭和十九年春、召集兵として横須賀海軍工作学校第七十三分隊に入隊。翌二十年春、佐世保、呉、の工作兵が新たに派遣され来、直ちに校内で部隊の再編成を行う。今までの戦友とは離れ離れになり、一面識もない兵士が多く語り合う間もない。そのような折、上官より出動準備が告げられ、あわただしく夜半横須賀を発った。行く先は誰も知らず、二日後に着いた所が長崎市だった。当時の長崎は南方島々への玄関口であり、派遣されて来た陸海軍兵士で大変混雑していた。目的もわからないまま私達もその渦中の一員となった。直ちに長崎兵器工場の寮の一部を兵舎として何日かが過ぎた。ある朝、上官より今日これから兵器工場に赴き、学徒、女子挺身隊、などを急ぎ指導するように命ぜられ、それ以降は文字通り朝夕兵舎と工場の間を隊伍を組んでの毎日であった。工場内は「一億一心火の玉だ」の標語の下で誰もが黙々として増産に励んでいた。

 やがて春も過ぎ夏が訪れた。

 このところで、生涯忘れないあの恐ろしい八月九日を迎えた。

その日の長崎の上空は雲一つなく、よく晴れ渡って風もない。11時近く工場内のサイレンが一斉に鳴り響いて警戒警報発令を告げた。このところ隔日のように警戒マンタは空襲警報で誰もが慣れてしまって、敵さん今日もご苦労さんと、動ずる様子もなく只ひたすらに増産に励んでいた。突然、昼なお暗い工場の隅々まで、青白い閃光が走り、目もくらむ。その瞬間耳をつんざくような、轟音がした。それまでは記憶があったがその後のことは何も覚えていない。どのくらいたったであろうか、「火が廻った。早く退避せよ。」との叫び声に、ハッと意識を取り戻したが、暗くて何も見えない。手さぐりでさまよったのがどのくらいの時間であったろうか。やがて暗闇の中に一筋の光が差し込んでいる。「自分は生きられる」との実感が沸いてきた。夢中でガレキの山をかき分け、やっと屋外に這い出すことができた。

 ここで見たものは、あまりにも変わり果てた現実であった。「黒ト茶色ノブチ色」まるで犬の鼻づらのように焼きただれていき絶え絶えの人や、死がいとなって息絶えている人たちがそちこちに散乱していて、その様はまるで地獄絵の如くで目も覆うもの凄さであった。一瞬の間にあまりに変わり果てた光景に私はただ唖然となってしまった。生き残った者は夢遊病者のように右往左往するばかりで、悲惨そのものであった。家屋という家屋は一様に押しつぶされて至る所に真っ赤に燃え上がっている。不思議なことに周囲の緑の山々までもあちらこちらと白い煙が一筋、また一筋と立ち込めている。助けを求め泣き叫ぶ声がまるで渦巻のようにあるいは近く、また遠くに聞こえてくる。

 私はいつの間にか兵舎の方へと足を向けていた。死がいや倒れた家屋で足の踏むところもない始末。やむなく田のあぜ道を行くが、早く早く時は焦るばかり。すると目の前に、ヤケドと切り傷を負った可憐な女子挺身隊員が私にすがりついて、「兵隊さん水をくれんね」「水を」と蚊の鳴くような声をして離さない。ああ可哀そうにと思った。水をやってはいけない、と一度はためらったが、このような状態ではとうてい生き残ることに望めないだろうと意を決して、田の中の水を口に含ませてやった。「しっかりしなさい。しっかり。」と声をかけたが、彼女は大きく目を見開きしばらくして息を引き取った。両親や兄妹と離れ離れで,御国のためとは言いながら、見知らぬ私の手で最後の水を飲んで引き取った幸せ薄い挺身隊員は誠に哀れで、今思い出してもただ涙で私の脳裏に深く刻まれて離れない。上空に再び敵飛行機が二機旋回し始め、生き残った人たちは我先にと曲がりくねった用水路の中に飛び込んでゆく。火傷の痛みをいやすのか、それともあの飛行機が再び恐ろしい爆弾を落とすのではと考えてか、川の中はさながら帯のように黒く人の波がうごめいている。やげて、やがて敵機も去り、川の中より、這い出してきた人たちは男女の別、大人子供の区別もつかない。傷や、ヤケドで、ふらふら歩いていく姿がさながら生ける屍のようだった。

 やっとの思いで目的の兵舎にたどり着いてみると、ここも全部押しつぶされ、盛んに燃えている。生き残った兵士が一人二人と戻ってき、しばらくして下士官が見えて点呼をとる。集合した兵士の数はわずかなものであった。そこで負傷者やヤケドを負った人たちは、応急の処置として臨時貨車で練早の海軍病院に直ちに入院するように命ぜられた。2時ごろ、目的の練早の海軍病院に到着したが、すでにこの病院も負傷した人々やヤケドをした人々で大混雑を呈しており、廊下と言わず、物置と言わず、屋外までも負傷者で溢れていた。

 屋外で被爆し、上半身軍服までヨレヨレになった兵士が、外傷で血だらけの私たちに、「頑張れよ、たいしたことはない。」と励ましてくれた。しかしその兵士も数日後には無言となり、看護兵に担架で運ばれていく。その変わり果てた姿を見ると、私どもも次にはそのようになるのではと、不安におびえたものである。屋外で爆光を浴びて入院した人たちは、ヤケドで肌が焼けただれて皮がむけ、そこに「ウジ」が湧き、痛い痛いと泣き叫びつつ、ようやく峠を越して生きのびる人、苦しみ悶えながら死んでいく人、この悲惨さは想像を絶するものであった。当時はすでに薬もなく、ウジを看護兵が「ピンセット」で取り除き、「ヨウチン」を付けるだけという誠に何ともお粗末なものであった。私の勤務地は爆心地近くのすぐ近くであったが、爆風で飛散したガラスが身体に食い込み、家屋の下敷きとなり、裂傷を負いはしたが九死に一生を得たのは不幸中の幸いであった。苦しい日を送ったが、日が経つにしたがって、病状は回復してきた。一か月近く過ぎて静養中に終戦を知った。病院でも看護兵が二人減り、三人去って、責任者さえもわからない状態で、私は着の身着のままで病院を抜け出し原隊の工作学校へ戻った。しかし、時すでに遅く隊は解散しており、何の連絡の術もなく、すべての状況はわからないままに私はやむなく故郷に帰った。ケロイド、傷跡を一生追って苦しい人生を今なお送っている人たち、また亡くなられた多くの犠牲者、そして苦しみ抜いて三十余年のこの歳月を生きてきた私たち、並みに遺族の方々に対し、何の援護もしない今日の為政者はどのように思っているのであろうか。援護法の制定が一日も早く実現することを被爆者の一人として強く訴え、平和の毎日が送れるよう願うものである。最後に被爆者皆様の幸あらんことを祈って拙い筆を止めさせて頂きます。

 

  

 三年の命を生きのびて

山梨県市川大門町  川口仙一さん

広島の船舶隊に所属中  

 

 

 

 広島に原爆が落とされた日は朝から雲一つない良い天気でいた。広島の船舶隊に所属していた私は、朝食を済ませて演習に出ようとしたとき、警戒警報が鳴り続いてすぐ空襲警報になったので、急いで防空壕に退避しました。それまでに広島は一度も空襲がなく、今日は本当に来るのかと思ったのですが、しばらくすると空襲警報が解除され、続いてすぐに警戒警報も解除になり、ほっとして演習のため繋船場へ向かいました。ふと見ると斜め左上空に一気のB29が飛んでおりました。このため今の警報が出たのだと思いました。

 更によく見ると、その後方にパラシュートで何か光る物が静かに落ちておりました。これが原子爆弾だったのです。私がいつもでもそれを見ていたならば、おそらく失明したでしょう。ものすごい熱線を持った強烈な光。この一瞬の光によって、幾万の人たちが焼き殺されていたのでした。光のあと「ドカーン」というもの凄い爆風。これで幾銭という家屋が全滅したのでした。一瞬私たちは近くのガスタンクが爆発したのかと思いましたが、そのタンクに異常はありません。その方向に一本の火柱が上がり、その真ん中は赤いというかレンガ色というか、日のかたまりがもくもくと立ち上がっているではありませんかこれがいわゆる」「きのこ雲」で、周りは雲のようですが、真ん中は火のかたまりです。

 広島市内の方を見ますと、火が燃えているのに誰も消火している様子がないのです。どうしたんだろうと思っておりましたが、そのうち連帯本部へすぐに集合するようにとの伝令です。行ってみますと、今の爆弾によって多数の負傷者が出たということで、すぐに救援に行くことになりました。

 負傷した学童を、陸上隊は御幸橋まで運び、海上隊は似の島まで運ぶのでした。どの児も顔に腕に胸に足にひどい火傷で、皮膚は垂れ下がり、顔は腫れ上がりまるで幽鬼のようでした。

 みんな「水をくれ」「水をくれ」と異口同音に叫ぶのですが、水は絶対ダメと言われているので「頑張るんだ。すぐに先生に診てもらえるから。」と励ましながら似の島へ送ったのでした。

 翌日私は兵隊三人と共に、市内警備のため爆心地に近い今の原爆ドーム前に衛兵所を開設して警護にあたりました。まだ電車の中で折り重なって死んでいる人、防火用水のそばで倒れている人、まるで地獄そのものでした。

 その当時、爆弾は相生橋の上流100mでさく裂したと言われておりました。私はその地点を見ましたが、一抱えもある松の枝がポッキリ折れており、また相生橋の市電の軌道が5~6cmも沈下しており、その爆風の強烈さに驚きました。元安川にも無数の死体が浮いておりました。火傷のため水を求めて川に行き、そのまま絶命した人たちで一杯でした。その辺りは梅が近いので川の流れは緩やかで死骸は干潮の時は流れて海に行き、また潮が満ちてくると戻ってくるということを繰り返しておりました。爆心地付近の焼け方ですが、ところどころ少し黒ずんだところがあり、それが人の形をしており、それはそこで人が死んだものです。全然お骨というようなものはなく、ただ黒ずんだ灰となっているのです。火葬場であの高温のバーナーで火葬しましてもお骨は残っておりますが、爆心地付近がいかに高温であったかがわかると思います。

 私が衛兵所にいるとき、60才位の男のひとが訪ねて来ました。その人はすぐ前の日赤の広島支社の小使い(用務員)をしていた人で、まだ出社前に原爆にあい、住居が宇品に近いところだったため、風で倒れ、奥さんが梁の下敷きになったそうです。何とか助け出そうと努力してもなかなか思うようにはかどらない。火は猛烈な勢いで迫ってくる。「もう私は助からない。貴方も逃げないと死んでしまします。早く逃げてください。」と言われ、私も熱くて我慢が仕切れませんので、まだ生きている妻を見殺しにして逃げてしまって助かりましたと、また思い出したのでしょう、涙を流しておられました。市内の死体の清掃も軍隊の手で進められ、幾日か後に私たちも衛兵所を引き上げて本隊に帰りました。本隊は臨時の陸軍病院になっており、営庭(兵舎の庭)にまでムシロを敷いて兵隊や一般の人たちを収容しておりました。毎日毎日おびただしい死体の処理で大変でした。一見どこにも傷あとのない兵隊が、負傷した重体の戦友の看病をしているうちに、その戦友よりも先に死ぬといった例はたくさんありました。身体に受けた放射線のために、外傷はなくとも突然バッタリ死ぬのです。40年近くたった今でも、私たち被爆者にはそういうことがいつ突然やって来るのかわからない恐怖がつきまとっているのです。


 私たちは残務整理を終えて9月中旬に復員いたしました。私たちは本体に帰った時、身体検査を受けたのですが、全員が白血球減少で、絶対安静の状態だったのです。復員するときには、あと3年の寿命だと宣告されたのでしたが、あの多くの死んでいった人たちのことを考えるとたとえ3年でも生きられて郷土に帰れるのは幸せなんだという気持ちで復員したのでした。それから39年余り、何とか生きながらえてきたのですが、今後再びあのようなことのないよう、核の廃絶と援護法制定を叫び続けてきたのです。慰安はあの広島に落とされた爆弾の200倍以上の核兵器があると言われています。こんな兵器が使われるような戦争が起きたなら世界は滅亡してしまいます。今アメリカとソ連で保有している核兵器の10%が炸裂したならば地球上の全生物は滅亡して地球はただの星になってしまうと言われております。私たちヒバクシャは当時の広島、長崎のあの惨状をこの目で見、この肌で感じたものです。再びあのようなことがないよう、声を大にして叫びたいのです。昨今は米ソの核軍拡競争に反対して、アメリカをはじめヨーロッパの各地で核反対が叫ばれております。日本でも軍備拡張の機運に反対して、あらゆる階層の人たちが立ちあがっております。被爆40周年の今年こそ、全世界に向けて核廃絶の運動を盛り上げなければならないと思います。

  

 

 

 不安をもちながら 

山梨県甲府市  内藤藤三さん  

             当時22歳 暁部隊、壕の中で任務中 爆心地から2kmで被爆

 

 

 広島、長崎に原爆が投下されて40年になります。思い起こせば一瞬にして20数万の尊い命が奪われ、生地獄と化したその惨虐(残虐)さは目を覆うばかりでありました。その時私は、広島市で被爆しました。私が被爆したところは、爆心地から2キロ以内の比治山町というところでした。私は当時軍隊生活をしており、広島市に原爆が投下されたときは、暁部隊(陸軍船舶部隊)の通信教育隊に配属されておりました。原爆が投下される2か月前には、広島市のすぐ近くの呉市への空爆で、たびたび何十機と敵の爆撃が飛来し、空襲を受けているのを目のあたりにしました。しかし広島は、一度空襲を経験しただけで、この時は屋根すれすれに戦闘機が機上掃射しながら飛び去って行きましたが、それが本当に一度だけのことでむしろ不思議に思っていたほどでした。

 

 そして8月6日、原子爆弾が広島市に投下された朝がやってきたのです。その時、いつものように壕の中で通信機材の整備をしておりました。その壕は横穴へ丸太と板塀で造られており粗末なものでした。原爆が投下されたとき爆風と同時に丸太が落ちてきて、頭と首を直撃されて意識を失いました。しばらくして意識が回復し、ただ死に物狂いで壕の外に出ました。すると驚いたことに町全体の建物が破壊され、家らしきものは一つも見当たらず、コンクリートの壁が数か所に建物らしく見えるのみで、すでにあちこちに煙が立ちのぼっていました。これだけの広範囲を一瞬に灰燼(かいじん)と化したのです。耳に入ったのは建物の下敷きになって助けを叫ぶ悲鳴ばかりで、それが方々から聞こえてくるという全く悲惨な光景でした。

 

 それから光熱射線です。8月6日は盛夏ですから半袖、開襟だったので、肌が出ているところは全部火傷してそれが水膨れになり垂れ下がってそこを触るとペロッと剥げてしまって、その後が化膿してまず手の付けようもないのです。これを応急手当てするにも、ガーゼも絆創膏もないので、ろくな手当はできません。また、ガラスの破片その他の負傷では埃で体中真黒で、どこが傷口やら見当が付きませんでした。男女の区別もつかないように頭髪も顔も黒々と焼けてしまった負傷者、すでに死亡してしまったもの、「兵隊さん、兵隊さん。」と叫びながら息を引き取る者等、それは生きた人間の姿ではありませんでした。8月6日の一日はどのように過ごしたか記憶に残っていませんが、ただあわただしい一日であったような気がします。私も負傷していましたので、重傷者の手当てもできない状態で、8月6日から復員までその間、広島で夢中で過ごしました。

 

 幸い私は、壕の中にいたため原爆の光も受けず、命拾いをしたことになったのですが、原爆の光熱射線は受けませんでしたが、放射線を多量に浴び、体に障害をきしたため、9月に復員しても、10月初めごろに頭がふらつき、高熱病にかかり、病床につきました。当時は本当の病名は遂にわからず、翌年4月かいきしましたが、快気しましたが、中間のことは高熱のためわからず、看護してくれた人達に聞いたところ、40度からの熱が数か月続き、一時は危篤状態になったそうです。熱が下がり周囲がわかるようになってからのことですが、寝たきりで長い病床生活だったので、床から起きようとしても起きられず、赤ちゃんの歩き始めと同じく柱とか、物につかまり歩く練習をして、杖をついてようやく歩けるようになりました。現在もまだ病気と闘っています。大病そしてからはいろいろな疾病(しっぺい)を併発して、回顧してみると復員してから薬漬けで、よく生き長らえたと思います。

 

 現在も肺気腫と、耳鳴り、そして爆風で頭と首を直撃されていますので、その後遺症で手首から指先までシビレが生じて、毎日病院において理学治療をしております。病院とは縁が切れない状態で、今後いかなる原爆症を発病するだろうかと心配しております。生ある限り定年はないのです。努力して生き続けていかなければなりません。被爆40年になった現在、被爆による労働能力の衰退で、日常生活能力を失い、精神的苦痛に悩まされて行かなければなりません。また再発の不安を常に心に待って生活をしています。私たち被爆者は身を以って体験した放射能を世論に訴え、これから20世紀を生きていく子供たちに、再び原子爆弾などという一発で何十万人もの大量殺人を行う兵器が、この世で使われることがないよう心から願って、核兵器廃絶を積極的に伝えていかなければいけないという責務があります。

 

 甲府市では昭和57年、全国で最初「核兵器廃絶平和都市宣言」をしました。そして平和への願いをあらたに、平和記念事業の一環として、昭和58年8月13日と16日の2回にわたり、原甲府市長と甲府市に住む高橋、米内、内藤の被爆者3人とのテレビ座談会を行いました。テレビ山梨の小笠原アナウンサー司会で、県下にUTYテレビの30分番組で放映され、皆様もご覧になったと思いますが、大きな効果があったことと思いました。また、昭和59年8月6日には広島市主催の平和記念式典に全国の自治体に先駆け、甲府市民御代表43名が平和を願う心で広島市へ派遣されました。一行は、8月5日、午後7時に甲府市役所前をバスで出発して、6日の平和記念式典に参加して7日に帰甲しましたが、それまでの模様が同年8月25日のYBSテレビの1時間番組で放映されました。平和記念式典への参加が、今後、地域に深く根を下ろし、私たち一人一人が平和運動へと発展することが望まれます。

 

 平和を願って  

山梨県中央市  河野六郎さん 

当時22歳、広島で任務中  

 

 

 私は8月6日の広島に原爆が投下された日、大阪の部隊本部に資材発送のため隊員数名で宇品駅に到着、直後、駅前で原子爆弾にあいました。私の隊は大阪の隊(宇品派遣班)で隊員も隊長以下15名くらいで宇品の船舶司令部のそばにありました。

 晴天だったあの日、8月6日は原爆の効果は大変良く、そのため被害も大変大きく、多くの人々を焼殺しました。

 ピカッと青白い閃光、ドーンという爆音と強い爆風、真っ赤な火柱のきのこ雲が、モヤの晴れた空に浮き出てどんどん自分の方へ寄ってくるようでした。

 翌日から数日、援護活動のため市内に入りました。

 たくさんの目をそむけたくなるような火傷の人々、真黒で男女の区別もつかない人々、防空壕の中に寝ている人を起こすと、背中の火傷にウジがわいておりました。道路にムシロを敷いて寝かされていた人々にも火傷にウジ虫がウヨウヨと這い廻っておりました。うめき声と「水をくれ」という声、今も耳元で聞こえてくるようです。毎日部隊列の路側で死体を焼く。焼いても焼いても運んでくる死体。その焼く臭いは鼻を付き胸が悪くなってくる。そうした毎日でした。

 宇品駅に行くと、広い駅ホームに西武2部隊と思われる兵隊が見わたす限り寝かせてあって、ここでも水を求める声とうめき声。そして死体と・・・・・・。広島の町のいたるところ、こんな光景でした。

 9月7日、大阪の部隊本部に帰り、そして9月9日復員、ふるさとの土を踏みました。 

 帰ってから胃の調子が悪く、下痢も続いて本当に弱りました。昭和58年1月に肺腫瘍で大手術を受け、2年経った今でも重いものを持つことや労働はできなくて困ります。

 病気をするたびに家族が心配するので、戦友の勧めがありましたが、被爆者手帳の交付をためらってきましたが、去る51年勤めを辞めて老後の健康を考えやっと手帳の申請をしました。原爆にあわない人にはなかなか理解できない心の悩みを持ち続けてきました。基本要求で云っていることは、まったく私の云いたいことです。多くの被爆者が私と同じ悩みを持って、40年の歳月を生きてきたのだと思うとき、核兵器はどんな言い分があっても決して使用してはならない兵器だと心の底から叫びます。

 そして、戦争のない平和のために重い口を開いて話をしました。

 

 

 忘れられぬ長崎の朝

山梨県上野原市 桑原 淳さん 

当時16歳 長崎で海軍少年兵として任務中

 

  昭和20年8月9日午前11時2分・・・・・私には忘れられない長崎市の原爆体験の日です。当時私は16歳10か月の海軍少年兵で、魚雷艇の通信手でした。部隊は、熊本県天草牛深にあって、本土決戦に備えていました。部隊の品物が少なくなり、私たち8名は本体である長崎県川棚基地から30トンほどの貨物船(徴用船)で、手榴弾の火薬、魚雷調整用の油脂、布類、日用品等を運搬する命を受け、これを満載し牛深へ向け航行中の8月2日夜半、長崎半島沖で船のエンジン部分が故障しました。仕方なく長崎港三菱造船所に入港、修理を依頼したが修理できず、8月4日頃長崎市旭町の林兼鉄工所に廻送しエンジンを下ろし修理中でした。初めは船内で食事をしておりましたが、近くの商家の奥さんの好意により炊事場を使用させていただくことになりました。

 8月9日、当日は朝から夏の太陽がギラギラ輝き、それは暑い日でした。船が繋留されている岸辺では、近所の子供等5、6人が水泳をして遊んでいました。一度警戒警報のサイレンが鳴ったようでしたが、毎日のことでありあまり気にもしておらず、私は先輩の人たちが先に食事をするまで洗濯をしてから食事を、と思い道路に面した屋外の水道栓へ5,6歩歩き出しました。その時、勝手の窓ガラス越しに強烈な目を射る閃光・・・・・続いて身体の右側からものすごい爆風で砕け飛んできた窓ガラスの破片により、私の体はまりのように左側の壁にいやというほどたたきつけられて転倒しました。倒された私の体の上に土壁がドドーと落下して起き上がれません。体の上の土やガラスを押し上げやっと立ち上がりました。顔面、左手甲、右側腰部にガラスの破片が突き刺さり出血しています。右手の傷口を押さえながら道路へ出ました。その時の光景は40年近い年月が経過した今でも忘れることはできません。さっきまでまぶしいほどに輝いていた太陽はなく、港は夜のように暗く、風がものすごい勢いで渦巻き、木片、屋根のトタン、ゴミが舞い上がり飛び交い、とてつもなく大きな竜巻が渦巻いているような感じ。もしかしたら船の火薬が爆発したか・・・・と思いながら船に走りました。船は大きな波を受け揺れてはいるが異常はない。これはいつもの爆弾とは違う新しい方の強力な爆弾た感じました。近くで水泳をしていた子供等が熱い熱い!と、手で自分の顔や腕や身体をなでると皮膚がベローッと20センチも30センチもむけ落ちてしまうのです・・・・。そして、私の目の前で倒れてしまう。私も右手の甲から出血が多くて、目の前がかすんできて、立っていることができませんでした。そのうち私を心配して飛んできてくれた先輩が、しっかりしろ!と私の左腕を取り身体をささえて、山の上の救急所へ連れて行ってくれました。そこで応急的に上腕部を強く縛り、止血の処理をしてくれました。高台の救急所から見渡す長崎港・・・それは、先ほどまで明るい静かな港町ではありません。

 家は倒れつぶされて方々で火災が発生、次月に救急所に上ってくる血だらけの負傷者、頭の毛のちぢれた火傷の老婆、その負傷者を呼ぶ家族や知人、本当に手のつけようない惨状で、正にこの世の地獄図です。その夜は近くの防空壕で対岸の火事を見ながら夜を明かしました。

 翌日、三菱造船所にある病院で、右手甲を3針縫い合わせていただきました。病院には被服がボロボロに破れた身体中に水泡が一面にできている人、顔が黒焦げで頭の毛が焼けてしまい男女の見分けのつかぬ人、死を待つばかりと思われる人が次々にかつがれたり、戸板に載せられていたりして来るのです。私の傷などは恥ずかしいようなものでした。その医師は昨日から一睡もしないのでしょう。目が赤く充血していましたが、兵隊さんは次の任務があるでしょうからと云って、傷口を縫ってくれました。本当に頭の下がる思いで一杯でした。

 長崎市に新型爆弾投下の報を聞いて、川棚の基地から11日に代替船が迎えに到着し、その船に荷物を積みかえて天草牛深へやっと帰りつきました。

 私は、運よく家の中にいたために原子爆弾特有の熱線も受けず、直接強い爆風の被害もこうむらず、2日後には長崎の地を離れたため、放射線障害も現在のところなく、何とか今日まで生きのびております。しかし、あの日多くの人たちが唯一発の原子爆弾で死んでいった悲惨な事実は、私の傷と共にいつまでも消えることも忘れることもないでしょう。

 8月9日の光景を思い出しながら。

 

 

            無 題    

山梨県笛吹市  白沢 いづみさん 

当時21歳 広島で被爆   

 

             焼けただる体うづきてうめきしに

                ただ油あるのみ共に泣きたり

 

           爆風に飛ばされて案ず夫の身を

                  かけゆけば悲し全裸の波

 

          一瞬の閃光にたちまち瓦礫の山と化し

               生地獄なり人のたうちまわる

 

 

 

 広島原爆   

山梨県富士吉田市  渡辺 光雄さん 

広島の暁部隊で徹夜の任務後、就寝中に被曝

 

 

 昭和20年8月6日の明け方、広島市皆実(みなみ)町の陸軍船舶通信部隊「暁部隊」は一部の兵を除いて寝静まっていた。5日深夜から6日未明にかけて、隣の呉市が米軍の空襲を受けた時徹夜で警戒したので昼まで就寝することを許可されたのだ。第5中隊第7班の2等兵だった私は木造2階建ての1階で、硬いベッドに横たわり白い敷布を頭からかぶって寝入っていた。北側の窓に近い場所だ。太陽が昇り、駐屯地の広い営舎と一棟に800人近い兵隊を収容して並ぶ兵舎に照り付けていた。

 突然、私のまぶたの中を、青白い光が走り、続いて兵舎が音を立てて崩れる。何ごとかさっぱりわからないまま、あわてて崩れた兵舎から抜け出し、北側の丘の比治山公園に登った。町を見渡すと一面に土煙が上がり、霧に覆われたようである。その土煙から、つるりとむけた腕や足の皮をぶら下げた人の群れが現れる。これが最初に見た地獄の光景だった。「原子爆弾」という言葉を聞いたのは、それから2日経ってからだった。

 瑞穂村(現富士吉田市)の瑞穂実業学校を卒業したあと、東京の逓信講習所で無線通信を学び、卒業してすぐに中野郵便局電信課に勤務した。職場にはトン、ツー、トン、ツー式の無線機がずらりと並んでいた。まだ電話が普及していず、電報が一番早い伝達手段だった時代、一日の電報扱い数はここだけで3000通を超えた。電報には官報、局報、私報の順に優先順位がある。投球にいる地用出身の若者たちが、実家に召集礼状が届いたことを知らせるときの電報は官報で、どの電報よりも優先された。地方の町村長が発信する「レイジョウキタスグカヘレ」という電報が日ごとに増えている。職場では、男性が次々に戦地に出かけてしまい、代わりに女性の無線士の姿が目立つようになった。

 私は20年3月中旬、郷里で徴兵検査を受けた。19歳と18歳の人たちが集まった異例の合同検査で、「合格」といわれた。東京の下宿に帰ると、後を追うようにして、「レイジョウキタスグカヘレ」の電報が届いていた。3月24日のことである。その晩、東京は新宿一帯が米軍の空襲で焼け野原と化した。それまでに数十回の空襲を経験し、下宿を焼かれて吉祥寺、東中野、野方を転々とした。焼夷(しょうい)弾の炎に追われ、機銃掃射にも狙われたこともある。

 ”門出の日”の空襲だ。野方から立川まで歩き、そのから列車で富士吉田の実家へたどり着く。出征して広島の部隊の栄門をくぐったのが4月1日で、サクラの花が咲き誇っていた。暁部隊の専門は、主に兵員や軍需物資を輸送する船の通信である。駐屯地は広島通信第2連隊の跡地で、宇品の港はすぐ近い。南の営門は、道路を挟んで広島高等師範、付属小学校と向かい合い、北側にある比治山公園は市民の憩いの場所だった。

 部隊は本部、本部付きの中隊、無線隊5、有線中隊1からなり、一中隊は10個班(1個班80人前後)の編成。各中隊が広い営庭を囲むようにして、5つの木造2階建て兵舎が並ぶ。入隊して知ったことだが、すでに日本の輸送船はほとんど沈められて、本来の船舶通信はなくなっていた。無線機は、比治山公園の下に縦横にトンネルを掘って設置してあった。周辺の都市や軍港が次々に空襲で焼かれたが、広島には空襲が

防空頭巾、モンペ、ゲートル姿の市民が少なく、開襟シャツ、スカートの市民もいる。東京から来てみると、ここは平和に見えた。

 8月6日は朝から暑かった。爆心地から1,2キロ南の駐屯地で、地獄の光景を体験したのは午前8時15分。上空で閃光が走り、光は窓を抜け、敷布を通し閉じた瞼を貫いて、網膜まで届いた。一瞬、世界が青白くなった時、もう兵舎は崩れていた。横倒れでない。上から崩れた。第5中隊800人の兵士たちは、あっという間に兵舎の下敷きになった。私が気が付いた時、落ちてきた梁の下の空間で無傷で生きていた。うめき声の中を「とにかく外へ」と逃げ出した。四方八方を土煙が多い、それが収まった時、広島の街は消えていた。

 比治山公園を後にして部隊に戻ると、5つの兵舎はすべて倒れ、営秘話に黒こげの死体がいくつもある。壊れた兵舎からうめき声が、悲鳴が続いている。部隊の約3,500人のうち、3割が即死し重傷者が6割に達し、動き回れるものは1割しか残らなかった。東京で焼夷弾の空襲を経験していたので、「これは焼夷弾ではない。とてつもないでかい爆弾だ。」と直感したが、まさかこれが原子爆弾とは想像もできなかった。部隊の救助隊が市街へ出た。私は7日爆心地へ行った。陸軍病院は建物が崩れ、死体は入院患者か、医者か、看護婦か、区別がつかず、黒焦げの物体が転がっているような光景だった。立往生したチンチン電車の中で、満員の乗客が立ったまま黒こげになっている。吊革につかまったままの人もいる。広島師範と付属小学校の庭では、朝礼中の生徒、先生1千人以上が、黒く焦げていた。暑い日が続いた。どの死体も膨れ上がっている。10数人が折り重なって死んでいる人もいる。その人たちを助け出しても、収容する場所がなく、炎天下の路上に寝かせるのが精いっぱいだ。死んだ赤ん坊を背負い、肩からカエルの皮をむいたように皮膚を垂らしたまま放心状態で歩く母親とすれ違った。

 「水をやるな。」という命令が出ていた。しかし、いたるところで「水をください」「水を」と懇願され、とうとうそれを断れきれず水筒の水をゴクン、ゴクンと飲んだ人たちは、数時間後に死んだ。市内の死体処理作業に従事して、「炭俵を担ぐようにして」死体を比治山公園に運ぶ。2,30体を一列に並べ、火をつける。油がないので、なかなか燃えない。死体を何度もひっくり返しては焼き、遺骨を講演に掘った穴に葬る。10日間ほどこの作業が続き何体葬ったかも記憶になくなっていた。

 秋が深くなった11月、故郷に帰る。広島の原爆で死んだものと思って、家族は仏壇に線香を供えていた。「放射能は子孫の代まで影響する。」・・・そんな話が伝わっている。それを聞いて私は、広島にいたことを隠そうと決心した。長い沈黙だった。友人らに被爆のことを花入始めたのは10年以上たってからである。

 昭和54年春、九州旅行の途中34年ぶりに訪れた広島の風景は、脳裏に焼き付いたあの地獄の光景とは違うものだった。

 

 

 16才で被爆して          

山梨県甲府市   宮原正司さん

当時16歳 広島で勤務中、被爆  

 

 

 8月6日、雲一つない大変良い天気の朝を迎えました。いつものように霞町の陸軍兵器廊に出勤しタイムカードを押し、廊内の奥にある職場に向かって歩いていた時、突然目の前が真っ赤に見え、ドーンというものすごい音と、竜巻と砂塵が混じった爆風で、私は道路の片隅に飛ばされ、気を失いました。泣き声やうめき声で気がつき、まわりを見ると屋根瓦が頭に落ちて血だらけになっている学徒動員の生徒でした。周りの人たちは、ただ右往左往しているだけ。空を見たら真っ赤な火柱ときのこ雲、やがてひどい雨になりました。私も手足にガラスの破片が突き刺さっていて血が出ています。あわててガラスを抜きました。

 どのくらい経ったかわからないが廊内の軍人の命令でトラックに乗り、市中の怪我人を廊内に収容するため、まだ焼け跡の熱い市内に出て行きました。出勤するときに見た広島の街はどこへやら、焼けただれた人、助けを求める人の声、水をくださいとすがりつく人。髪を逆立て、手足の皮をぶら下げている人、けがをしていない人は一人もいません。夕方まで収容作業を行いました。街は火に包まれ、川には人がいっぱいで、その中に牛、馬、犬、猫も混じって浮いています。収容はしたけれど、倉庫の中にゴロゴロと収容され、薬等何にもなくて、白い油を塗るだけで、みんな苦しさに喘いでおりました。

 水を求めて防火用水の汚い水を飲む、と間もなく死んでしまいます。飲まさないようにと注意されていましたが、ヤケドをした人たちは飲みたい一心で這って行ってでも飲みました。昼は収容作業。夜は体に沸いたウジ虫を取り去って白い油を塗り、徹夜で見守りました。翌日より爆心地近所、広島駅、横川駅近所等々で死体集めをして、焼却作業です。焼いても焼いても減らない死体の山、一週間位毎日毎日そんなことを行っていました。

 その間、私自身発熱し吐気がして頭髪が甚だしく抜け始め、恐怖心におびえまいた。また、食あたりでもないのにドロッとした異様な黒い血便と下痢症状が続き、もちろん食物は大豆やカボチャですが、身体は衰えめまいがして、たびたび道路に倒れましたが、それでも死体処理の作業は半ば強制的にやらされました。 

 8月15日、終戦になってやっと家に帰りました。と言っても、家は屋根は落ちどうしようもない状態なので、元金物屋のあったあたりに行き、焼けた釘を拾ってきて、雨露をしのぐ程度に修理し、元醤油味噌屋の焼け跡を掘って、埋まった大豆を掘りだしてきて、似たり、煎ってポリポリ食べたりしました。幼馴染のヤッちゃんは、中学二年生でしたが、熱が出て髪が抜け、呼吸が苦しくなり一週間で死んでしまいました。同じように熱があり頭髪も抜けた私は、下痢をしながらも生きている。食べるものもなく身体は重く、だるく、やせ細り、息も苦しくて寝ることの多い毎日で、

9月頃には体全体が黄色くなり黄旦病にかかりました。そうしたある日、アメリカ兵がジープで来て、検査だと言って寝ている私を比治山にあるABCCに3回も連れて行きました。何の治療もしてくれませんでした。

 下水作業を4年間しましたが、途中で肝炎にかかり小網町の医者に2か月入院しました。また、日を置いて原爆投下数日後のように下痢、黒い血便となり4か月生死の境をさまよいました。その時の体重は11貫くらいだったのを覚えています。何もしないのに鼻血がすぐに出て困りました。目も被爆前は左右とも1.5視力があったのが0.4に落ち、視界がボーとかすんで見えるような状態になり、腰や背中が痛み眠れない日々が続きました。 

 被爆後10年目、26歳で東京に出て豊島区の病院で原爆手帳で診てもらいました。白血球減少症でした。30歳で結婚をし、東京で食堂を開店し、10人近い人を雇って頑張りました。しかし白血球は相変わらず少なく、すぐに疲れてしまう、そんなことを繰り返しながらの7年間でした。姉が三浦半島の方に住むようになり、私達も久里浜駅前にお店を持ちとても盛りました。

 私は相変わらず鼻血が止まらない。そんなものですから横須賀の病院まで通うことが多く、妻がお店は仕切ってくれたようなものでした。よくなるどころか悪くなく一方で心細い日々でした。生きているより死んだ方が良いと何度思ったことでしょうか。

 そんな時妻の実家から帰ってこないかと言われ、昭和53年の秋の終わり頃甲府に来ました。共立病院に通いいろいろ検査を受け、治療をしてもらい少しは元気になりましたが、2年目に入った2月に食道静脈癌になり、手術を受けました。その時に認定の手続きを取りましたがダメで、中央相談所にも相談して再申請をしましたがとうとう認定されませんでした。聞くところによると、原爆を受けたとところが2キロ以内であることが第一条件とか、あまりにもひどい考え方だと思います。 

 今戦後36年目、私たちの周囲には核兵器がいっぱいある。あの悲惨な焼け跡の風景はもうこりごりです。次の時代の少年、幼い子によい世界を残していきたいと願っています。そのためには、生きる限り核戦争に反対し、被爆者援護法の制定を要求し続けます。

 

<編集者より>

宮原さんは通院の私のところによって、広島の人に会えたと喜んでくれ、話をしていきました。その時絵を描くことと、手記を書くことを頼みました。絵はすぐに描いてくださいましたが、文の方は

ノートに残っていたものをまとめました。

昭和56年秋ごろから声が出なくなってまた入院し、東京の病院に行ってレーザーで切ってもらいました。とてもうれしそうに、こんなにご飯がおいしいとは思わなかった。よかったよ、と言い声で食事もできたと、その笑顔と声は今も忘れません。その時の笑顔が最後で、その後は苦しみの日々が続き、昭和56年1月2日永眠なさいました。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 運よく生き残って

山梨県都留市 八幡 ミツエさん 

 当時36歳 広島 主婦(妊娠中)朝食の支度中

 

 広島に原爆が投下されたとき、私は3歳の女の子と1歳6か月の男の子の母で、お腹には6か月の子供がいました。広島はあまり爆撃を受けていませんでしたので、割合にのんびりとしていたように思います。

 前の晩は警戒警報であまり寝ていませんでした。空襲警報が解除になり、モンペを脱いで台所で朝食の支度を始めた時、聞きなれない爆音!ビックリして、座敷にいる主人に大きな声で、「B29ですよ。早く防空壕に入りましょう。」というか言わないかに、

パッと写真のマグネシュウムをたいたような青白い閃光と共に家がバラバラと倒れました。これで死ぬのかと思い、一時何もわからなくなってどのくらい経ったでしょうか。子供の泣き声に「アッ、子供がいたんだ。」と壊れた家の中でやっと抱き上げましたが、真っ青な顔で頭から血がダラダラと流れておりました。急いで医者に連れて行かなくては、と思い「お父さん」と奥の方に向かって大きな声で叫ぶと、「のり子が大変だ。」という声が帰ってきました。「この子は助かりませんよ、のり子だけでも助けてください。」と言いながら、外に飛び出しました。さっきまでのあの8月のサンサンと照っていた太陽はなく、まるで夕方のような暗い中を、どこにこの子を連れて行こうかとキョロキョロしていました。近所の人に、「八幡さん、お医者さんはどこにもいませんよ。逃げるよりほかありませんよ。」と言われて私はハッと我に返りました。これはいけない、逃げなければ、と思いながらヒョット自分の家の方を見ると、火が出ておりました。隣の家も焼けています。

 私が住んでいたのは天満町でした。広島は川の多い街で、私は天満川に向かって150メートルくらい、子供を抱いて走りました。途中崩れ落ちた家の屋根瓦の中から手だけが出ていて、「助けて!」という叫び声。その声は私の命のある限り決して忘れることのできない声でした。「子供を抱いていて、助けてあげられないのよ。ごめんなさい。誰かに助けてもらってね。」と言いながら私は走り抜けました。天満川に浮かぶ製材所のイカダに飛び降りました。見ると川の中州に数名の人が避難しています。子供を抱いていては泳げる自信もありませんでしたが、思い切って水の中に飛び降りました。運がよいというのはこのことかと思います。水は私の胸までしかありませんでした。もし水がもっと深かったら、今日の私も息子もなかったのです。この時から私は運命論者になりました。川の中を中州に向かうとき、今でも忘れないのですが、裸の女の子が「お母ちゃん」と、泣きながら流されておりました。川で泳いでいたのでしょうか。その手や足から皮膚が垂れ下がっているのです。どうしてあんなに

皮膚が下がっているのだろうかと思いながら、中州まで川の中を歩いていきました。私の家の方角はあちらこちらで火が燃えています。

 12軒の隣組の中で家族全員が助かったのは2軒だけでした。私の家では、家屋疎開のために主人が休んでいたので全員助かったのです。原爆というものはこわいものだと思います。近所に電信の仕事で第五師団の地下壕にいて、無事だった人がいました。私を見て「八幡さんは怪我をなさったけど、私は元気でよかった。田舎に疎開しますよ。」と元気に話されたのに、一週間目に亡くなられました。他の爆弾では想像もできないことです。あの閃光を戸外で受けた人は、一瞬で頭の毛は焼け、皮膚はペロリとむけて手の先、足の先にゴミのようにたれたり、唇はむくれあがってみにくい顔になってしまいます。 全市が一面にペシャンコになり、医療も何も行えないのでやっと水のような赤チンをつけてもらうことで、どうしようもありません。ふつふつと焼けていく家々、大きく膨れ上がった死体で一杯の川の中、手をユーレイのように胸のところまで上げ、その手から皮膚をぶら下げ、頭髪を逆立てて全裸で歩く人の群れ。まさにこの世の地獄そのものでした。

 先日あるところでこんな話をされた方があります。「不景気をふっとばすには戦争をすればいいんだよ。日本には物があり過ぎる。戦争さえすれば景気はよくなりますよ。」これを聞いて私はゾクゾクっと鳥肌の立つ思いでした。平和があってこそ人類が栄えていくのです。原爆の恐ろしさを知らないからこんなことが言えるのでしょうが、今度戦争をしたら人類は滅亡してしまうのです。あの地獄を知っている私は、思い出したくないあの日のことを人々に知ってもらうために、筆をとりました。ふたたび被爆者を作らないために、被爆者援護法の即時制定を要請する署名を頂きに、私も都留市長と市議会議長のところに行きました。生きているうちに援護法ができるように、みんなと力を合わせて頑張りたいと思います。

 

 

 

   無 題                

日々野 学さん

当時32歳 広島で海軍二等水兵として任務中

  

 

  あのあたりの広島の空きのこ雲

  見ずともマイクがとうす慰霊祭

  広島やぽかりうきける白きくも

  ピカドンとよばれし子等もいまとうく

  あの光あとのこしたる肌をみる

  来る夏の背なのケロイドなみだする

  被爆者や御霊しずかにやすみしか

  被爆者の心もよそに各党党

  被爆者や苦き心を二世三世

 

 

 

 思い出したくない思い出

      山梨県甲府市 中沢 フジエさん 

 当時21歳 勤務先の銀行に向かう途中、広島駅前で、爆心地から約1.8km 

 

 

 原爆。なんと恐ろしい言葉だろう。あの日から40周年を迎えんとしている現在、忘れたいと努力しても、体に深く刻み込まれた原爆の跡、その上今でも寒い時に痛むケロイド、忘れさせてくれません。あの時の体験を書こうとすると、何故か涙が出てきます。両親を犠牲にした口惜しさ、それだけではない。どうすることも出来ない感情を抑えることが出来ません。あの日の異常な出来事、約10か月の病床生活、一日中話しても尽きないほどの苦痛、到底正確に表現することは難しい。

 8月6日、勤め先(住友銀行広島支店、爆心地より100m位)の掃除当番だったので、いつもより、一列車早く呉線坂駅を発ち、8時過ぎに広島駅に到着。市電に乗り換えるため、駅前広場の停留所に並んでいました。あと2,3人で前の電車が満員となり発車したときでした。B29の爆音が聞こえ、日傘を閉じて思わず空を見上げた瞬間、ピカッと強烈な閃光と爆音で私は10m位飛ばされ、気を失いました。気が付いてみると、辺りはフラッシュをたいた時のように薄煙に包まれ、呆然と倒れていました。

 不気味な静けさ、時間にして幾秒だったろうか。たちまち地獄の底からでも叫ぶようなうめき声に、立ち上がりました。どこで何が起きたのだろう。周りを見渡す余裕すらもなく、近くの防空壕の中に入りました。途端にボロをまとい、皮膚は真っ赤に焼けただれ、顔や背中から血の流れるままの、まるで幽霊のような人々が立っていました。私は無意識のうちに救急鞄から鏡を出しました。隣にいた男のひとが、「駄目だ!」と言って取り上げてしまいました。その折自分の顔を見たら、おそらく気絶したと思います。ふと自分の姿に気づいてみたら、着ていた洋服はズタズタに焼け、白いシュミーズとモンペの胸当、救急鞄だけが残っていました。左の手足はほとんど火傷し、ボロ布のように皮膚がぶら下がり、鳥の皮をむいたように赤身に血がにじんでいまいた。頭、顔

、首の火傷には気づきませんでした。右の手、両膝は飛ばされた時、地面が火となっていたのか、転んだ格好に火傷していました。

 恐ろしさにふるえ、慌てて防空壕から出ました。銀行の駅前支店に気づき、助けを求めに行きましたが、そこでもガラス等でみんな、怪我をしていて他人どころではなく、口々にわめきながら人々が群れをなして来ました。周りの建物が倒れ始め、同時に火事になりました。誰かが、「練兵場へ逃げろ!」と叫びました。倒れる建物の間をぬって火に追いかけられながら、無我夢中で駅前の広場へ走りました。途中で先ほど発車した満員電車の骸骨が目に入り、あの電車に乗れなくてよかったと、ゾッとしました。駅の構内に入り、燃えている汽車の間を通り抜けて、やっと練兵場に逃げました。そこには朝礼で上半身裸でいたらしい兵隊さんの、黒焦げの死体が折り重なっていました。その間を、この世のひととも思われぬ人たちが右往左往していて、生地獄を見たようでした。警防団の人が、集団でいると機銃掃射されるのでバラバラになって山へ逃げるよう叫んでいましたが、その山にも火の手が上がりました。私はただただ火から逃れることしか頭になく、方向も考えないで大勢の人々について行きました。夏のエナメルの草履に焼き付いた両足にも気づかないくらい、必死でした。

 何時間歩いたかわかりません。やっと松林の日陰のある田舎に出ました。後でわかったのですが、そこは広島市外の矢賀町でした。そこでは国防婦人会の白いタスキをかけた人たちが、バケツから水を配っていました。暑さでのどはカラカラ。でも私の姿を見て、「水を飲むと死ぬるよ」とくれません。我慢できず、あちこちの水を求めて歩いていたら、運よく友達が見つかりました。幾度も幾度も名前を呼んで必死で助けを乞いました。友達が、「あなたは誰?」と尋ねるほどの姿になっていました。頭も毛は逆立ち、顔の左半分は皮膚が垂れ下がり、腫れていたそうです。友達に手をかけられた途端、張り詰めていた気持ちが一度にゆるみ、歩けなくなりました。火傷が広範囲なので、手をかけるところがなく、苦心して近くの救護所へ連れて行ってくれましたが、駄目だと冷たく断られました。太陽がジリジリ照りつける道を二人で泣き泣き歩き、親類の家へたどり着きまいた。その家の庭には力尽きた人が7,8人倒れていました。

 私はゴザを敷いて寝かせてもらいもらいましたが、急に痛み出し、苦しみ始めました。特に焼き付いて草履を脱がしてと泣いて困らせたそうです。手の付けようがなかったとのことです。その家ではただオロオロし、何とか生きているうちに、家族へ連絡する方法ばかり考えたと後で言っていました。交通機関も電話も不通だったので、自転車で夕方やっと私の家へ連絡してくださいました。母は一刻も早く迎えに行かねばと半狂乱でしたが、近所でもほとんどの家に被爆した人がいるので、なかなか人が見つからず途方にくれました。そのうえ、隣組からの命令で建物疎開の勤労奉仕に出ていた父と姉が被爆して帰っていまいた。夜11時ごろ、やっと知人が自転車で来てくれましたが、疲れと痛さで意識もはっきりせず、自転車には到底乗せられない状態でした。リヤカーに戸板を載せ、座布団に膝を立てて座り、胴体を縛って声をかけながらゆっくりゆっくり夜道を帰りました。坂町の家についた時は夜明けでした。

 あまりにも無惨な姿の私を見た母は、わが子とは信じられず、幾度も幾度も私の名前を呼んで確かめました。時間が大分経過していたので、顔の相はますます変わり紫色に腫れ上がり、まるでお化けのようだったそうです。焼け残ったカバンの中の真黒焦げになったお弁当、左手首にくい込んでいた腕時計が私という証明だったとのことです。それからが一層大変でした。布団に寝かせるにも、まず垂れ下がった手足の皮膚の始末、足の甲にくい込んだ草履を脱がせる苦心、母は震えて泣いてばかり。結局姉が必死の思いでハサミで切ってくれました。火傷が布団にくっつかないよう焼き付いた手足の指を一本ずつ離す苦労、並大抵のことではなかったそうです。火傷から出る海は血の腐ったような臭いで、体にかけたタオル、浴衣は埋めるより仕方なく、買えない時代だったので大変だったようです。うっかりするとウジがわくし、火傷が広範囲なので一日に3,4回のガーゼの取り換えと、薬を塗るだけで精一杯でした。その度ごとに痛さに耐えられず、殺して殺してと泣きわめきました。医者はなかなか来てくれず、薬は手に入らず、役場から配給されるわずか一日一合の油ではどうすることも出来ません。身動きできず、ただベッドの上でうめき声をあげる生きたお化け人形のような状態が続きました。

 あらゆる素人療法、母、姉の懸命な看護のおかげで火傷の方は順次回復に向かい始めましたが、10月ごろ、食事が全然のどを通らず、口もきけなくなりました。とても助からないと、母の叔母が枕元で、お経と仏話を聞かせてくれました。不思議なほど頭の中だけは、はっきりしていました。このまま死にたい、と心の中で叫んでいました。でも仏話に出てくる極楽の美しい花畑も、亡き父の仏の姿も、頭に浮かんできませんでした。一瞬にして、死んだ友達の方がどれだけ楽だったかと、うらやましく思いました。

 それから半月くらいして、奇跡的に口が利けるようになり、ソーメンが食べられるようになりました。12月頃にはひどい寝ダコにまで苦しめられました。翌年2月、火傷はほとんど治り、座る練習を始めました。半年ぶりに頭の毛にくしを入れたら、すっぽり抜けてびっくりしました。座れるようになって、自分の手で食事がしたくて、頑張りましたが、何分力がなく、空の茶碗すら持てませんでした。次は歩くこと。長い期間、両膝を立てたままの姿勢だったので大変です。医者に、歩けるようになってもビッコでしょう、と言われ皆を落胆させました。近所の人が気でも狂ったのかと間違えられるほどの、母の涙ぐましい努力が、私をむち打ちました。痛さを泣き泣き我慢した甲斐があって立つことが出来、初めてみんなに支えられながら、部屋の中で一歩足を進めた時の恐ろしさ、今でも忘れません。深い谷底へ落ちる思いでした。10か月ぶりに、杖をついて家の中を歩けたときの喜び、言葉にはなりません。その時の体重は28キロでした。

 私はこうして助かりましたが、火傷のずっと軽くなった父は原爆から数日間、下痢が続き、8月18日、私のことばかり案じながら、51歳で亡くなりました。母もあの日から1年余り、一度も外出せず、ただ私の看護に明け暮れでした。そのうえ父の死、肉体、精神共にすっかり疲れが出て病に倒れ、他界しました。

 自分の命と引替えに、私に二度目の生命を与えてくれた両親に感謝し、また詫びています。この尊い命を大切にして、元気で生き抜くことがせめてもの償いだと自分に言い聞かせています。書いても書いても書き足りない苦悩、誰のも味あわせたくありません。

 二度と核兵器が使われないよう、真の平和な世界をみんなの力で実現したいと思います。

 

 

 地獄からの叫び声

     山梨県笛吹市 白沢英寿さん 

当時27歳 広島の船舶集団司令部で任務中

 

 

 私は船舶集団司令部の一員として広島で被爆いたしました。昭和20年8月6日は、真夏の太陽が焼けつける雲一つない炎熱の一日でした。朝礼のため、司令部の北側に整列したその直後、私たちの斜め左上空より、マグネシュウムを目の前でたかれたような閃光と、焼火箸を顔に当てられたようなヂリ、ヂリとした熱さ、そして猛烈な爆風が斜め左上空より私たちを吹き飛ばした。もうもうたる土煙の中を這い廻り防空壕に逃げ込んだ私たちは、今まで経験したことがない突発的な出来事に、呆然としてなすすべもなかった。しばらくして、外に出てみると木造の船舶兵団司令部は、ガラス戸はもちろんのこと、柱さえも折れてさんたんたる有様であった。大体何事が起ったのだろうが、と右往左往する中で閃光を受けた方向を見上げると、巨大な雲の柱が立ちその先端が開きかけて、中心部は無気味な赤紫色をしていた。異様な光と爆風、そして、熱線は何であろうか。司令官の沢田中将も明言できなかった。それが地球を破壊し、人類を滅亡抹殺させる原子爆弾であったことを。

 私はその方向にガスタンクがあったので、爆弾がガスタンクに命中し、爆発したのではないかと判断した。とにかくどえらいものが私たちの頭上でさく裂したものだと、その強烈さに驚くばかりだった。その中、近くの藁屋根の民家が火を噴いて焼け始めた。喧騒の中で副官が司令部にいないことが確認されたので、捜索に行くことになり、幾班かに分かれて司令部を出発し、駅方向に歩き始めて異様な姿の人間がとぼとぼと歩いて来るのに驚いた。裸同然で真黒な顔、ボロ布をつるしたかのように腕の皮をずるっとたらし、声もなく行く姿。

 これはどえらいことが突発したに違いない。市の中央部は火煙に包まれて全く分からない。倒壊をまぬがれた鉄筋の建物や、火の手の廻らなかった周辺の学校や、広場の木陰には数え切れないほどの被災者たちが、照りつける真夏の太陽をさけて集まっていた。副官がいないかと足を踏み入れると、「兵隊さん水をくれ」「助けてくれ」と悲痛な声をあげる。すでに死んでいるのか動きもしない人、目や唇が腫れ上がりそっくり返っているものすごい形相の黒い顔。日赤病院の被災者の中で赤子の泣き声がする。原爆のショックで生まれたのだろうか。母親は死んでいるのかのように動かない。その傍らで赤子だけが勢いよく泣いていた。これが生地獄の現実かと目をそむけた。歩いている道には、死人がゴロゴロしえいる。倒れた柱の下敷きになって逃げられず死んでいる人、勝手口を思われる辺りに子供を抱きかかえるようにして死んでいる母親の姿は、実にあわれで見るにしのびなかった。

 司令部に帰りついたころにはトラックで被災者が逐次運び込まれていた。手を差し伸べるところもないほど焼けただれた人たちばかりで、おろすことも出来ず板を渡してソロソロ降りてもらう始末であった。司令部にあった塗り薬をすべて使い果たしても足りたものではない。ボロボロで何とか立っているだけの車庫にこの人たちをやっと収容した。しかし、息絶え絶えの火傷の人たちには何をするすべもなく、聞くに耐えないほどのうめき声は地獄からの叫び声だろうか。そのうちに一人死に、二人死に、次々に死んでしまって、生きていて自分の家族や親類の家に引き取られた人は何人であったであろうか。夜となく昼となく死んでいく人たちは丹那の浜で焼かれていった。その臭いとその思いに食事も喉を通らず、眠れぬ幾夜かを過ごしたことか。

 原爆が投下されるまでの広島は、焼夷弾の一つも投下されていなかったが、呉や岩国には爆弾の投下や艦載機の機銃掃射が度々行われ、飛行機の襲来と共に火煙や黒煙の登るのが手に取るように望見された。広島は原爆投下のために、計画的に残されていたのだろうか。一つの爆弾でこのような威力あるものを投下されたのでは、本土決戦、水際作戦、一億火の玉だとか戦意の高揚をさけび、竹やりや縄ののれんの火叩(消火道具)作って訓練しても何の役に立つものかと痛感された。 原爆の被害が火一日を大きく伝えられ、現実の様相を知るにつれて恐ろしくさえなってきた。沖縄に向け救援派兵される輸送船も、ほとんどが途中で爆沈されて海の藻屑と消えてゆく情報が直接入ってくる。船舶兵団司令部にいるだけに、末期的不利な戦局であることを感ぜざるを得なかった。そのような中においても、海ではベニヤ板で造った畳二畳くらいの大きさで、押さえればペコペコするような船の両方の舷側(側面)にひとかかえもある爆弾を付けて、水上特攻隊と称し、一命もろとも突っ込んでいく訓練を懸命にやっていた。しかし、莫大な物量と段違いに進歩していたレーダー網には、かなうすべもなかった。

 そして8月6日、原子爆弾が広島に投下され、さらに長崎にとどめの原爆が投下され、敗戦の詔勅(しょうちょく)となった。爆発力が更に威力を増しているという現在の原子爆弾が再び地球に投下されるようなことがあれば、人類はおろかすべての生物が壊滅して消え去ってしまうだろう。戦争のない平和な世の中はないものだろうか。どうして力比べをしなければいけないのだろうか。今でも世界のどこかで戦が続けられ、尊い命が散っている。原子爆弾や核兵器の製造が禁止されて、戦いのない平和の、すべての人が安住することのできる世の中はやってこないものだろうか。その願いを私たちは被爆者の一人として世界中の人々に訴えたい。

 

 

 運よく生きて

     山梨県南部町 遠藤善作さん 

       当時18歳 広島の鉄道隊員としてで任務中、爆心地から約2.5km

 

 

 私は二度目の招集で、昭和20年7月に広島に行き鉄道隊員として、横川町の方に居りました。爆心地から2.5キロのところにある楠小学校で補充兵の訓練を毎日行っておりました。原爆の投下された8月6日は、よく晴れた雲一つない暑い日でいた。その日は、部隊が山の中の小学校に移動する日で、朝から忙しくしており、まだ学校に残って片づけをしている兵隊もおりましたが、私は移動をする兵隊たちの隊列に加わって歩いていました。

 その時「ピカッ」とマグネシュウムをたいた時のような青白い光が目の前をかすめ、続いて「ドカン」という大きな地響きにすばやく地に伏しました。その時、顔や腕に火傷をしました。私の傷は軽傷で物の数ではありませんでしたが、兵隊の中には顔が大きく膨らんで誰だかわからないような人もたくさんあり、腕のヤケドで皮のむけた人もありました。また、学校に残っていた兵隊の中にはガラスの破片が体中にささって血だらけになった者や、倒れた校舎の下敷きになって死んだものもあり、やっと出てきた兵隊も服がやぶれ、顔や手から血の吹き出ておる状態で、とてもまともに見ることのできない有様でした。私も学校に残っていたらこんなことになっていたのかと思うと、ゾッとする思いでした。軽傷の兵隊だけで野宿をしながら目的の山の中の学校に着き、傷の手当てを受けましたが、終戦になっても治りませんでした。

 私は兵隊生活も長く、中国でもひどい場面も見てきましたけれど、広島の原爆のようなひどい悲惨なものには遭わなかったし見たこともありません。一発の爆弾でと考えるだけでも恐ろしい事です。子供や孫たちの幸せを思います時、どんなことがあっても決して核兵器は使用されてはいけないと思います。年を取って腰も曲がってきました私ですが、核兵器の廃絶と被爆者援護法の制定を心から願っております。

 

 

 ヒロシマ―あの時の手記

山梨県南アルプス市 小田切 恒広さん

       広島の旧電信第二連隊で任務中に被爆 爆心地から約2キロ

 

 東京に在住の知人(当時女子高生である被爆者)が一通の新聞の切り抜きを送ってきた。関千枝子さんという作家の記録で次のようなことが書いてあった。「昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が落とされ、20数万人の命が奪われた。その日早朝から、県立広島第二高等女学校の2年4組の生徒たちは、広島市雑魚場町(現国泰寺町)で、瓦運びをしていた。警戒警報が解除されて間もなく、B29の爆音がした。見上げた空に、ゆらゆらと落ちてくる落下傘を見た。午前8時15分閃光と大爆発音・・・たまたま私は前夜からの下痢で学校を休んでいたのです。現場にいた先生3人と、級友39人のうち38人が、20日までになくなりました。生き残ったのは、たった一人でした。」

と記している。(これは大勢の犠牲者の中での、本当に針の先ほどの一端の情景だが)この時の2年西組は45人、この日偶然にも欠席をして命拾いした生徒は関さんを含めて6人だったそうだ。関さんは被爆直後「全身に大やけどを負って死んでいった級友たちの姿を目のあたりに見て、39人のクラスメートと3人の先生の被爆状況をしっかり確認しておきたいと思って、関さんの姉さんが5年がかりで撮った原爆慰霊碑の写真集と共に惨状記録をまとめた。」とのことだが、この記録を遺族と後の世の人に残し、送りたいと思ってご苦労された模様である。

 私もあの時の惨状をこの目で見たものの一人として、せめて意とするものの何百分の一しか表現できないとしても、核は絶対に否定しなければならないということを雄叫びをもって記したくなる衝動にかられる。今、国際的に核の廃絶は叫ばれているが、決して他人事の問題ではない。我々人類全体の責任だ。・・・・・核の使用存続によって人類の絶滅は必至だから。

 私は何年か前に、ちょうど娘が中学2年のころ、学校の宿題で親子作文を書くようにとのことで・・・ 戦争経験のある父を持っている人は、どんな形でもよいから書くようにとの、先生と娘の強い要望で書かされたが、原爆投下のころのその一端だけを、当時の作文集より一部拾ってみる。

 

 その時私は広島市の比治山下の、暁16710部隊(旧電信第二部隊)という無線の教育隊に配属され第四中隊付になっていた。そのところであの、世界の歴史に残る原爆に見舞われてしまったのだ。一生涯忘れることのできない、20年8月6日午前8時15分だった。 

 外は快晴に恵まれて、8時過ぎというと真夏の暑さも1時間ごとにその強さを増してくる時間だった。前の晩の夜11時ごろから警戒警報が、 空襲警報に変わって、夜明けまで、空襲警報が続いて、ひと時も休むことが出来なかった。やがて警戒啓もうも解除され、6日の朝の7時ごろより勤務者以外の者は、午前10時まで仮眠してよいとの上からの通達があったので、私も2階の居室で人事係の森先という曹長緒に休んでいた。休んでからしばらくしたと思うが、足元に500キロ爆弾を落とされたような感じのする大きな爆発音とともに、真っ白いような強烈な閃光が走り、一瞬視力が失われて部屋の中が壁の崩れるホコリと共に真っ暗になった。寝台に休んでいた私も「空襲だあっ」と大声をあげて飛び起きようとするとき、爆風で寝台から吹き飛ばされて床の上に転がり落ちた。周囲が真っ暗なため、手さぐりで部屋からはい出した。私より数秒早く飛び出した森崎曹長は、建物の梁(木材)が折れて崩れ落ち、そのために顔面が八つ裂きになって重傷を負ってしまった。九州出身のひとだったが、生命に別条なかったのが不幸中の幸いだった。私たちと廊下を隔てて向かいの部屋に見習士官が5人休んでいたが、その部屋は原爆が落ちた側の部屋だったため、屋根が崩壊して3人が重軽傷を負った。

 私たちのところは爆撃の中心地から2キロの距離だったが、被害も大分大きく、兵舎が崩れ、外にいた人たちはほとんどが直接光線をかぶって、露出した皮膚はただれ、表の皮膚はそっくり一皮むけてしまった。第四中隊は僧院250有余名の編成だったが、その中無傷のものは、裏山に防空壕の壕堀作業に行っていた坂本軍曹(埼玉県出身)の率いる45名の人たちだけで、あとの人は、皆それぞれに重軽傷者となってしまった。私の部屋は原爆の落ちた反対側にあったため、直接光線を受けなかったのが何よりだった。私たちの事務所は1階だったが、書類は散々に吹き飛んで、廊下を一つ隔てた部屋に、隣の部屋とこちらの部屋との書類が入り乱れていたのが不思議でならなかった。私のその時シャツのままでいったん表に飛び出したが、空は一面真っ黒い雲上のものに覆われていた。一時的ではあったが、小雨のようなものさえも降った。その時は一瞬ではあったが部隊全体が、ひっそりと静まり返って物音ひとつしない。空虚な感じがしていたことを覚えている。

 書類の整理があるのですぐ部屋に引き返して服装を整えて、とりあえず非常持ち出し、重要書類の整理にあたった。しばらくして命令会報のラッパが鳴ったので、すぐに傍らの裏山まで行って命令を受領した。命令を受領している間に立っていられないほど、急に足が痛んできて中隊本部の壕のところまでやっと歩いてきた。その時は座ったまま命令を中隊に報告する始末だった。部屋に休んでいるときにガラスの破片で3か所ばかり傷を負っているのだった。

 傷口は大きいのが5センチくらいの感じだったが、出血が割合少なかったのにも今でも不思議な気がしている。部屋に戻って靴を履くときにも夢中で痛みも感じなかったのも不思議だ。痛みを覚えてから靴を脱ぐ時はさすがに大変だった。やっとのことで衛生兵に脱がせてもらって治療したくらいでもちろん入院等はできない。

 衛生兵に入院を勧められたが入院する心積もりも自分ではなかった。病院には重傷者が溢れていて、こんな程度のものは傷にはならないのだ。

 その夜私の中隊に「広島市内」の巡察命令が出て中隊長と私の二人で、部隊から広島駅の裏側にある東練兵場までわずか2キロから3キロ内外に記憶しているが、それだけの距離を往復してくるのに、夜お10時ごろから朝の4時ごろまでかかったことを覚えている。この道路までも猛火が溢れてすでに12時間くらい経過しているので焼け落ちたところが多く建物によっては盛んに燃えているものもあった。広い道路では既に死んだ人、身動きできない重傷の人、寝たまま横になってうなっている人、幼児から老人まで全く数限りなく、道路の両側にどこまで行ってもその犠牲者で男女の性別すら難しい。40年経った今になってももっとも脳裏に焼き付いているのは3,4歳くらいの幼児の焼きただれた顔や全身(もちろんそばには父も母もいない)である。その顔は真っ黒くいように腫れ上がって瞳は糸のように細く横に流れているだけ・・・・裸のまま動かない子供、倒れてそのままの子供・・・その時の幼児の瞳が・・・苦しさに喘ぎながら声も出さずジッと見つめていたあの瞳が今もはっきりと浮かんでくる。

 一緒に巡察に行った中隊長は、片腕を負傷して方からその腕をつっている。(中隊長は高田邑夫中尉といって、陸軍士官学校出身のまだ数え年齢24歳の気迫に満ちた青年将校だった。)私は両足を負傷してビッコを引きながら歩く。巡察とはいっても、ほんとに状況視察しかできなかった。私たちが通ると「兵隊さ~ん、水をくれ~、水をくれ~、兵隊さ~ん水を頂戴、水を頂だあ~い!」と精一杯の声を出して叫んでくる。声さえも出なく、腕だけを動かして訴えている人、すがって来る人もいる。正に生地獄・・・悲惨だった。

 持っちる水筒の口を、負傷者の口につけてやると両腕の効く人の中には水筒にかじりつく者もあり、つかんで離さない。髪の毛はぼうぼうに焼けちぢれ、衣服は焼け焦げ、川に飛び込んだ者は全身泥だらけ。直接光線を浴びた人の露出していた部分の皮膚は表面の皮が皆焼きはがされて、筋肉だけが不気味に露出している人も数多い。(その筋肉が日が経つと共に急速に腐敗して化膿したあとには、2,3日経つと真夏のことでウジ虫が沸く。全身がそんな症状の人も多く生地獄という表現はもっともこの場合当てはまる表現だった。)

 練兵場に着いた時には、あの広い練兵場が足の踏み場もなく、敷き詰められたように重軽傷者で溢れていた。その悲惨さは言葉やペンで表すことのできるものではない。原爆の恐ろしさ、惨めさ、同時に戦争というものの強烈な犯罪性とその悲惨さを全身に味わったものとして、戦争によって人を殺し傷つけることを許すことはできない。人を殺し傷つける行為は、理由の如何を問わず人間のなすべきことではない。核という文字、戦争という文字を世の中から抹消しなければならない。市内から郊外へ逃れて亡くなった人や、市内を流れる太田川等に避難しながら亡くなった人々の遺体収容が翌日から始まり、次の日も次の日もトラックに満載されて運ばれた。その光景をまざまざと見た時は、このままでは完全に人類の滅亡だと慄然とした。

 人間が生きるための目標・・・それは絶対的に核をなくした平和と安全の確保でなければならない。戦争というものを絶対に否定し、核兵器を廃絶しなければ、人類の未来はあり得ない。戦争は人間一人一人の尊い生命を誰彼となく廃人にし、死に至らしめ無にしてしまう。これ以上に遇にして罪悪なるものはない。最近は核反対の運動もマンネリ化し、等閑にされがちな傾向に陥りつつあることに、いらだちと怖さを痛感する。 

 (以上親子作文より)

 

 現在も多くの人々が核兵器の放射能の後遺症に苦しみ、さらに世界の各地で核実験や核廃棄物の放射能を浴び続けている事実が報じられている。核兵器反対運動を一部の人たちだけのものにすることなく、我々の身近な一人一人が環を広げ、反対を叫ぶものにしていかなければならない。世界人類の全体の運動として。

 中央大学教授伊藤成彦氏は、反核と第三世界―文学者は訴える―の中で次のように書いている。

 1983年10月15日から一週間、西ドイツを中心に展開された、反核運動は、その規模内容ともに、これまでの反核運動を大きく超えるものであった。10月15日土曜日、西ドイツの首都ボンで、6.5キロ離れたアメリカとソ連の大使館を4000人の市民が「人間の鎖」でつないで双方に反核のメッセージを届けるという象徴的な行動で始まった反核行動週間は、16日「宗教者の行動日」、17日「婦人の行動日」18日「軍国主義反対と国際連帯の日」、19日「労働者の行動の日」、20日「教師と生徒の行動の日」、21日「議会の行政関係者の日」・・・と職業別の運動を細かく積み重ねて草の根運動の環を広げてきた。今日の日本人には、一つの運動を起こす場合にも、人々相互間のつながりに欠けている点はないだろうかと反省させられる。お互いの意思の疎通の下に、理解しあって進んでゆくことが出来たなら・・・と。今全世界のどこの国においても、人々は核無き平和と願って運動を展開して模様だが、世界で初めて原爆を投下された待ちである広島は、40年を過ぎた今、山陽線の一大都市である。

 明るい近代的都市として発展したにもかかわらず街の裏と隅を訪ねるとき、未だと当時の大きな傷跡が深くうかがえる。私たちも時代の流れの中で、戦争に参画した経緯を持っている。そして私は5年10か月の戦争経験長後に広島において、あの経験を味わい、目の当たりに見てきた。私は核兵器の反対の声をいつまでも叫ばなければならない。そして、この声を世界の各民族の声として、全人類の声として拡げなければならない。

 

 

 

  皆んなで無くそう核兵器

      山梨県上野原町  伏見成夫さん

当時20歳 広島で被爆  

 

 昭和20年8月6日午前8時15分43秒、真夏の太陽を受け不気味に光る巨大な原子雲の下に、広島の核時代の原点となった。

 一瞬にして、30万とも40万ともいわれる広島市民の命が奪われ市内は壊滅した。幸い私は、建物は傾いたが下敷きにはならず、ガラスの破片による軽傷の程度で済み、数名の負傷者を引率し、市内の病院を次々と探したがいずれも跡形もない。やむなく宇品に戻り応急手当てをしているうちに似島の検疫所が収容可能の報に接し、小舟で10数名分の同所に移った。ここは

収容定員3000人、しかし被爆時の収容者は2万とも3万とも聞いた。軽傷だった私たちは、治療を受けながら重症患者の看護を手伝った。

 全身ボロ布のように皮膚が垂れ下がって、息絶え絶えのものが多かった。火傷がひどいので、患者は水を欲しがる。少し大きなうめき声が静まったと思うと息絶えている。軍医は「こんなひどい火傷では助からない。患者の最後の頼みだ。欲しがる水はやれ」という。こんな一夜が明けると裏庭は死者の山、一行の負傷もほとんどよくなったので宇品に戻り雑務整理に従事し、同年9月中旬郷里に帰った。

 昨年5月、永い念願が叶い、再び広島を訪れる機会を得た。まず平和記念公園に行った元安川、本川の三角州に平和を願う人々の熱意によってつくられた公園である。原爆で亡くなった子供たちの霊を慰めるために、募金で建築された原爆の子の像や、核兵器が廃絶するまで燃やし続けるという平和の塔などを見、改めて平和を熱望した。折しも鹿児島のある小学生の一群が、教師に付き添われて千羽鶴を掛けて、亡き子供の霊を慰め平和を祈る姿はいじらしかった。児童生徒に混じって一般人も後を絶たなかった。また数万の無名戦士を合祀した無名戦士の墓を訪れ胸に迫るものを覚えた。そこで傍らの人の話によると、かつて我々が治療を受け、また重症者を見た似島の収容所(検閲所)の一角に、避難して死亡した被爆者を合祀した千人塚も建立されているとか。コースの都合で、これを訪ねることはできなかった。返す返す残念に思える。

 平和記念資料館に行き、中を一巡し原爆投下時の状況、熱線の威力、爆風の威力、放射線の威力とその障害作用等々に当時を思い起こし、認識を新たにした。

 あれから40年、ようやく米ソ超大国の核軍縮の道を探るジュネーブ会談も開かれるが、核兵器がいかに恐ろしく、いかに人間の尊厳を粉々に打ち砕くものであるかを内外に知らしめ、一日も早く核兵器の廃絶を期したいものである。

 

 

 猛火の中の子と母

     山梨県上野原市  小沢万彦さん 

     当時20歳 広島の船舶通信補充隊で任務中 爆心地から約1キロ

 

 

 8月6日、一発の爆弾によって、10万人、20万人の尊い命をなくしたあの惨事の中で、一命を取り止めることが出来た私は、核兵器のない真の平和を築きたいという念願で、私の体験の一端を発表します。

 私の隊は広島駅から南に1キロの所にある比治山の船舶通信補充隊で、私は約5千人の将兵と共に軍務に励んでおりました。山の下には地下壕があって、通信機材が納めてあり、5日の夜は監視の任についておりました。翌朝隊に帰り一休みしておりますと、空襲警報が発令され、急いで衣服をまとい任につきましたがすぐに解除になりました。6日の朝、空はよく晴れ渡り、8月の太陽がサンサンと照りつけ、とても暑い暑い朝でした。兵舎に入って半袖、半ズボンでくつろいでいると、青白い閃光が走り、グラグラメリメリという大音響とともに窓は壊れ、ガラスの破片が強い爆風で飛んできました。B29の敵機より投下された原子爆弾が破裂した一瞬です。

 爆心直下では直径約100mあたり4.5トンから7.5トンの圧力の爆風がおそいかかったのです。白煙黒煙が立ち込め、高さ数千メートルのあの「きのこ雲」が発生しました。ハッと我に返ると、机と腰掛の間にはさまれておりました。周りには、建材が八重十文字になって壊れており、二階の材木や防火用水等が雨のように落ちてきます。これは爆弾の直撃を受けたな、ぐずぐずしてはいけないと思うのですが、なかなか抜け出せない。やっとのことで隙間からはい出しましたが、兵舎の中は歩くことも出来ない状態で、隣の戦友は木材の間にはさまれて苦しんでいて、声をかけても返事もできない有様。何とか戸外に出ることが出来ましたが、あの広い兵舎はもうもうとした砂塵で、教練中だった兵隊が倒れて苦しんでいて足の踏み場もなく、向こう側の医務室は真っ赤な炎に包まれておりました。

 町の中心から逃げてくる人たちは泣き叫び、火傷の手を「ゆうれい」のように前に上げて、頭髪を逆立て、まさに生地獄そのものでした。ふと自分の手や足を見ると、少しも痛みを感じないのですが、血が流れガラスの破片で光っております。水道に行って洗っても洗っても、血が止まらず、どの兵隊の手も足も真っ赤になって血が流れております。衛生兵が赤チンと三角巾をくれたので、ガラスをかじくっておとし、膝に赤チンを付けてしばりました。私を呼ぶ声に振り返れば水道の下に私が面倒を見ていた17歳の可愛い少年兵が爆風で飛ばされ、良くもあんな狭いところに入ったもんだと思うような、狭い水道の下に挟まっていました。2,3人の兵隊と一緒に引っ張り出しましたが、グミ色に膨れ上がってとてもひどいものでした。衛生兵に応急手当てをしてもらいましたが、帰るまでどこに収容されたか生死のほどもわかりません。

 9時30分ごろでしょうか。黒い雨が降ってきました。私は戦友と一緒に、中隊から建物疎開に出た数名の兵隊と、公用で市内に行った兵隊の行方を捜しに町の方に行きました。町の方は煙と炎で一杯で、京橋川には熱さと火傷で水を求めて入った人たちで一杯で、中には死んだ人もありました。一命を取り止めたとはいえ、傷ついた人たちがぞくぞくと火のない方に避難しています。狂気のように子供の名前を呼んでいる母親。頭髪を逆立ててぼろぼろの衣服の切れ端をまとったり、火傷ではがれた皮膚を垂らして裸同然の人たちが歩いてきます。子供たちは裸で遊んでいたのでしょう。上半身は真っ赤に焼けただれており、女性は黒のモンペの間から真っ赤な肉が・・・皮膚は垂れ下がっており、死んだ子供を背負った母親もいます。倒れた家の下敷きになり助けを求めている人、うめく人、泣き叫ぶ人たちばかりでした。「兵隊さん水をください」と、取りすがられ、私の水筒も空になりましたが、中隊の兵隊は見つかれません。そのうち左足がひどく痛くなり、火も廻ってきてこうしてはおれない。グズグズしていると火に囲まれて帰れなくなると、比治山の方に向かいました。

 帰り道忘れられない光景にあいました。倒れて燃えている家の前で、夫人が子供の名前を呼びながらオロオロしている。「あぶない、早く逃げないと火が付きますぞ」と叫びましたが、足は痛むし、障害物は一杯で近づけない。そのうち狂気のように我が子の名前を叫びながら、燃えさかる家に飛び込んでしまいました。それを目の前で見ながら、どうしてあげることも出来なかった。あの痛ましい姿は今も忘れることが出来ません。

 夕方になって市外、岡山、山口の方から救護隊が来て、後片付けや病人の手当てにたずさわりました。国民学校が病院になり、そこに次々と病人が運ばれてたちまち一杯になり、その人たちは「水をください」と叫び苦しみながら、次々と死んでいきました。翌日左足がグミ色になり、とうとう歩けなくなりました。仁保町の小学校の野戦病院に収容され、麻酔も何もしないで赤チンをかけて、ガーゼを切るハサミで切ってガラスの破片を取り出しました。ピンセットでまだ出る出ると、カチカチ音を立てて両手に一杯のガラスを取り出しましたが、痛いのを歯を食いしばって我慢しておりました。やっと済んで、足を天井からひもでつるして、板の上に毛布一枚を敷いて休みました。階下には一般の人が収容されておりまして、昨日町で見てきたのと同じ火傷で真っ赤になった肉と皮膚のぶら下がった人たちが、泣くやら親が子供の叫ぶやら、水を欲しがるやら、とても話も出来ないほどの騒がしさでした。背中の火傷には、一面にウジ虫が沸いて、ウヨウヨと這って、痛い痛いと悲鳴を上げており、生きている人にウジ虫がわく等、とうてい想像もできないことがたくさんありました。戸外には死体で一杯で、何か所も穴を掘っては死体をまとめて油をかけて焼きました。何日もそれが続き、部屋にいてもくさくて胸が悪くなるようでした。

 10月、足を引きずりながら、山梨に帰ってきました。戦争はこわいものです。それは私たちを、私に対して無神経にしてしまいます。私も帰った当座は、近所に葬式があっても、怪我人があっても、悲しみを感じませんでした。それだから、平気で人を殺すことが出来るんだと思いました。どんなことがあっても、戦争はしてはいけない。人間が人間でなくなることは恐ろしい事です。まして核兵器のもたらす残忍さは言いようのないもので、体験した私たちは、もう二度とこんな恐ろしいことがあってはならないと、みんな考えております。どんなに話しても、あの日の何分の一も話せないもどかしさで一杯です。

 

  小沢さんは、昭和57年6月9日に亡くなられました。この一文は、同年5月3日に行われた「日民法廷」での証言をまとめたものです。ご冥福を祈ります。

 

 

 うらめしい原爆

   山梨県富士吉田市 中村美智恵さん

   当時、広島に住んでおられ、役所に勤務

 

 

私は横川町の家を出て、いつものように宇品行きの電車で、勤務先の糧抹省に向かう。 良く晴れた暑い朝でした。「オハヨウゴザイマス」と元気よく役所に入ったとたんに、棚に並べてあったビン類が私に向かって飛んできて、何ごとかとビックリ。早く来て机に向かって仕事をしていた人の頭の上には、容赦なくビン類が落ちてきて大けがをする。わずか数分の違いで、あとから来た人は顔や手足に火傷をして髪を振り乱し、「あついよ~」「いたいよ~」と泣きながら役所に入ってきます。どうしたらよいのか、手の付けようもない有様です。

 私は怪我一つせず、運がよかったと思いました。家のことが心配だけれど、街は火の海で、とても横河まで四里の道を帰ることはできません。二日後に、宇品線沿いに廻って帰ろうと広島駅まで来ましたが、校内は火がおさまっていたけれど、ガレキの中を歩くのは不可能です。戸板の方に北上し、三笹を経てやっと家に帰りました。

 焼け落ちた家に足を入れて、その熱さにビックリ。近所も一面焼け野原です。その日近所の人と一緒に、建物破壊に出かけた父のことが気になり、探しに行きました。火傷をしてうなっている人を見たけど、父ではない。近所の小父さんから「天満町まで一緒に歩いた」と聞かされ、横側から土橋、己斐、天満町と死体とガレキの中を探して廻りました。ついに見つかりませんでした。

 母と妹は一緒に十日市の高田医院に行っていました。丁度診察を受けるところで、二人とも吹き飛ばされましたが、軽傷だったので安佐郡の親類に疎開しました。気になるので行ってみましたが、軽傷だと思っていたのに、二人とも頭髪がきれいに抜け落ち、体中に斑点が出来て、いつ死ぬかと心配ばかりしていました。呉にいた兄が、ビタミンCの注射薬をたくさん送ってくれて、軍医さんに注射をしていただきました。そんなことが良かったのか、暮れの頃から毛も生えてきて、何とか元気になりました。しかし、やはり体中どことなく悪くて、いつも医者通いで、入院や退院を繰り返しながら、57年に膀胱ガンで亡くなりました。解剖したら、体中ガンだったそうです。妹も胃ガンで亡くなりました。

 友人の中に、基町で被爆した人がありました。たくさんの怪我人、死人の中で無傷だったので、病人の看護をしていたのに8月末には亡くなってしまわれました。恐ろしいことです。私も33歳の時、子宮ガンになり、東京の慈恵医大の病院に入院し手術を受け、4か月も入院しました。最初の1年間は毎月、その後の4年間は年1回の通院のおかげで、何とか元気に生きております。

 昨日、押し入れの整理を始めたら、12歳で亡くなった息子のランドセルや、服、通信簿が出てきて・・・・また泣きました。昭和28年に生まれた息子が8歳の時、近所の病院で診てもらったら「胃潰瘍」だから手術をするように言われました。どうしても信じられないので、しゃにむに退院させて、知り合いの先生に診てもらったら、「脾臓」がはれているから東京に行って検査を受けた方が良いと言われ、入院しました。その検査はかわいそうで見ておれないようなひどいものでした。手術をしなくてはならないが、中学生にでもなれば体力もつくからその時に、と一か月入院して帰りました。それからず~っと、学校に行ったり、休んだりでした。4年生の夏休みも過ぎ、2学期から学校に行き始めましたけれど、どうしても調子が悪く、また「脾臓がはれている」と言われました。学校は、体育を見学するなら行ってもよいと言われ、秋の運動会の練習も見ているだけという毎日でした。それでも毎日元気に通い、クリスマス、正月を楽しみにしていました。

 私の家では魚屋をしていましたので、暮れとか正月は今と違いとても忙しく、子供のことはほったらかしでした。正月に姉が映画を見に行くので、ついて行きたがりましたが、正月映画は込み合って空気も悪いのでダメだと行かせませんでしたら、寒い道路でビー玉を一人でしていたとか、あとで近所の人から聞きました。2日の夜は10時まで、親子でトランプ等をして遊びました。もっと遊びたがるのを、「また明日にしよう」と言って寝せました。

 夜中に姉娘の大声で行ってみたら、真っ赤なキレイな血を、ガボッ、ガボッと血の海になるほど吐いていました。ベッドからやっと布団におろしましたが、動かせばガボッ、ガボッと血を吐く。お医者さんに来てもらい輸血を行いましたが、どんどん血管が硬くなって、4日の朝、7時ごろ息を引き取りました。食道と脾臓をつなぐ血管が切れたんだそうですから、どうしようもなかったと思います。

 生きていたら32歳、死んだ子供の年を数える母親です。服等を泣きながら焼きました。私のせいかと思うとまたひとしお悲しくなり、戦争さえなかったら、原爆さえ使われなかったらとうらめしくなります。どんな理由があっても、「被爆者」を再び作らないでほしい。息子の死を無駄にしないために、平和な世の中をつくるために。被爆者援護法を一日も早く制定してください。

 

 

 

 悲惨な原爆の思い出

    山梨県富士吉田市 鈴木寅男さん 

       当時19歳 広島で初年兵として訓練中 爆心地から20km

 

 私は、北巨摩で生まれ北巨摩で育ち、19歳の昭和20年4月に、東京に繰り上げ入隊しました。自動車と馬の輺重兵(しちょうへい)で、広島市から20キロほど離れた八本松町の奥にある原村で、初年兵としての訓練を受けておりました。8月6日の朝、広島市の上空に真っ赤な火柱のようなきのこ雲を見、その日の午後救援のため広島に向かいました。本郷まで行ったら汽車が動かなくなり、夜通し歩いて明け方に広島に着きました。

 そこで見たのは、怪我をしてうんうんうなっている人々の群れ、皮膚をぶら下げた半裸の女学生のあわれな姿。「兵隊さん、水をください。水を」と声をかけて取りすがってきます。水をやると死ぬからダメだと言われていたので、あげませんでしたけれど、今思えば一口ずつでもなぜ飲ませてあげなかったのかと、悔やまれます。少したってから見た時、その人たちはみな息が亡くなっていましたのに。

 お城のそばで死体の整理、つまり一か所に集めて焼くことです。7日間その作業をしましたけれど、その数は実におびただしい数で、とても丁寧な扱いなどできるはずもありません。穴を掘って死体を入れ、ガソリンをかけてまとめて焼く。そうした7日間が過ぎ、八本松の隊に帰りました。

 鳥取の隊に入る予定でしたが、終戦になったので山梨に帰りました。殴られっぱなしの軍隊で、次の新兵なしの最後の新兵として5か月。いやなおもおいでと、原爆の悲惨さは私の一生忘れないものです。2年前、急に胸が苦しくなり入院しました。狭心症で心筋梗塞になる恐れがあると言われ、定年前に勤めも辞めて病院通いをしております。原爆のせいとは思いたくありませんが・・・。

 もう二度とあんな悲惨な戦争はしてはいけない。核戦争が起きたら大変です。そうせないためにも頑張らなくてはと思います。

 

 

 やっと生きのびて

  山梨県富士吉田市  小草 よし子さん 

広島の自宅に在宅中  

 

 

 私は広島市富士見1丁目に住んでいた。その日、警報が鳴ったので、いつものように隣の防空壕に避難させてもらっておりました。その防空壕は石で囲って、中には大きな木を並べ、下には水をたたえてあるという頑丈な4畳半くらいのものでした。後10分そこに居れば家の下敷きにならなくとも済んだのに。警報が解除になったので、もう大丈夫と思って我が家に帰りモンペを脱いで、胴巻きをほどいてホッとして一休みしようと横になった。その時、ガラス戸に七色の光が一瞬走ったかと思ったら、何もわからなくなりました。どれくらいたったか分かりませんが、子供の泣き声に気が付き、辺りを見ました。爆風で吹き飛ばされたのでしょうか。何か暗い穴の中に押し込められたような気がしました。家の下敷きになっていたのです。

 手を伸ばしたら何か竹のようなものがあって、取ったら壁土が落ちてきました。身動きが出来ず困っていたら、私の頭の上とコツコツと歩きながら、「この辺には小草さんの所があった辺だけど」と大声で「オバサン」「オバサン」と呼ぶんです。私も大きな声で「あなたの足の下に居るから出してください」と呼びました。二人で瓦をどけ、土を取り去ってくださるけど、隣のお蔵の所まで燃えてきている。急がないと・・・。やっと手が出たら二人で引っ張って外に出してくださいました。体中傷だらけだけど、ゆっくりあたりを見ている間もない。でも、町内は全滅のようでした。火に追われながら比治山に向かいました。途中で兵隊さんが「これはヒドイ」とトラックに乗せて宇品に向かい、似の島の隣の鯉尾という島に運んでくれました。衛生隊のあるところでしたけど、やっぱり薬はなく、毎日バタンと倒れては次々に死んでゆく。昨日話をした人が今日は死んでいます。次は私の番かと不安でどうしようもありません。

 一週間目に隊の人に頼んで、大美島の御洗居(ミタライ)の実家にやっと帰りました。親兄弟は広島の富士見町の焼け跡で死んでいるのではないかと、掘り返してみたが骨がない。どこかに逃げたか、街の中で死んでいるのではないかと毎日探したが見つからないので、御洗居に帰ってきたところでした。何はともあれ無事で帰れてよかったと、みんなで喜んでくれました。

 9日目くらいから体中にポッ、ポッと斑点が出て、口の中ははれ上がり、のどは詰まって何も食べられなくなりました。その中、肌はゴツゴツなるやら、熱は40度近くも出るやら髪の毛も抜けてきて、まあとても助からないと思いました。私はちょっと信仰をしていました。五里ばかり離れた山の中に、お灸の上手なおじいさんがいたのですが、その人にお灸をしてもらって治った夢を見まして、兄弟に頼んで行ってもらいました。そのおじいさんも「ピカでやられたんじゃあ、駄目だから」と断ったけれど、駄目でもよいからぜひ一緒に行ってほしいと、台風で雨風の強い中と無理やり頼んできてもらいました。

 数か月お灸をしてもらって、しばらくしたら傷口が避けて、どす黒い血がパッと出ましたが、その血はとても臭い血でした。それから、少しずつ物が食べられるようになり、兄が手に入れてくれたビタミンCの注射のせいか、斑点も少しずつ薄らぎました。父はどこかの棚に残った小さなブドウを一房もらってきて、絞って飲ませてくれました。渋みが強くておいしくはなかったが、肉親の限りない愛情が私を元気にしてくれました。

 昭和25年に、山梨の叔母を頼って二人の娘を連れてきましたが、白血球が一万もあったり、バカに少なかったりで、どうしたらよいかと悩みました。内田先生がとてもよく診て下さって、その苦しい時も通り過ぎ、なんとか毎日を働きながら生活しております。今でも雷さんと稲妻の光におびえてしまいみんなに笑われます。

 もうあんな事があってはならない!

 そのためにも被爆者援護法を一日も早く制定さえせてもらいたいと思います。

 

 

 死線をのりこえて

             山梨県甲府市 匿 名 

 広島で船舶教導連隊隊員として任務中

 

 忘れもしないあのいまわしき日、8月6日8時、私は広島の宇品にあった船舶教導連隊におりました。演習はじめのベルが鳴るのと同時に、空襲警報のサイレンが鳴り、艦載機が飛来、わずか30分で解除になりました。間もなく隊の上空に爆音が聞こえ、雲の中からB29が3機降下してきました。真ん中の一機が左右にぐらついたと思った瞬間に、左右の二機が急に先行をはじめ、真ん中の一機はどんどん遅れてしまう。きっとあの一機は先ほどわが軍が射った高射砲の一斉射撃の砲弾でも受けたのではないかと思いながら眺めていました。すると突然、黒いものを落としました。途中で落下傘が開いたので、どうも機雷みたいだが、どうして宇品湾なんかに落とすのだろうと思っていたら、どうやら中心部に落ちる様子です。大事にならなければいいがと思った瞬間、空中でさく裂し白い煙の輪が出来ました。途端に耳をつんざくような爆音が起こり、私は5m位吹き飛ばされていました。今度見ると先ほどの煙の輪は真っ赤な火の輪になっていました。同時に市内のあちらこちらから火の手が上がり、見る見るうちに街は火の海となってしまいました。それは本当に一瞬の出来事でした。

 私の隊は救援には行きませんでしたが、宿舎と紡績工場の跡にヤケドをした人たちを収容しました。来る人来る人、それはひどいヤケドでしたが、つける薬もなるわけではなく、赤チンをぬるのが関の山という有様で、水を!水をください、と誰もが口々に叫び、うめき声をあげ、大変なものでした。夏のこととて皮のむけた体にはウジ虫がうようよと這い廻っている。衛生兵がピンセットで耳の中から摘み取っているのに、神経がマヒしているのか、何も感じない表情でした。次から次へと毎日死んでい行くので、身につけていたものを封筒に入れ、名前のわかっている人は封筒に住所氏名を書いておきました。営庭の北の角に穴を掘って死体を並べ薪を積んで焼却し、その灰を先ほどの封筒に入れておいて、探しに来た肉親に渡しました。来るにも来る日も人を焼く臭いで、その仕事についていた新兵さんは、食事もノドを通らないで可哀そうでした。焼く兵隊だけではなく、その臭さはひどいもので、私達も食事がのどを通りませんでした。終戦の日まで、私達は通信機をかついで比治山に登り、山と海とで通信を交わす等の軍務につきました。

 山梨に帰ってから会社に勤めましたが、疲れてどうしようもなく、2時間以上はとても続けて仕事ができません。社長は休んでいいと言ってくれるが、一緒に働いている人たちの手前そんなことも出来ず、結局会社を辞めました。そして自分で仕事を始めたけれど朝10時のお茶の時間が待ち遠しい。お茶を飲むのではなく、休みたいのです。2時間ずつ仕事をしていても3時になるともうだめなので万才橋まで歩いて釣りをしたりして3時間くらい遊ん来て、夜その分を仕事をするという毎日を過ごしました。

 昭和37年の秋、全身が麻酔しすごい熱が出て、医者3人に診てもらったけれどわからない。そばを歩かれても体が痛くて、静かに歩けと叱ったほどです。そのうえ一日に3回も絞るほどに汗でびしょぬれになって、着替えをするのに大変でした。不思議なのは首は動くし、話も出来るんです。もと相模原の病院にいて近所で開業していた倉本先生に診てもらいました。高い薬だけと飲みますか言ってくれた薬、当時一粒100円で一日12粒を4回に分けて3日間、計9日間のんで3回休み。また12粒から始める。でもその薬を二回り飲んだら、ずーっと楽になったが、何せ高くて困るので神経内科の先生に診てもらって処方箋を書いてもらい、薬局でもらうようにしました。どの先生も病名を教えてくれない。悪い病気だから言わないのか、よけい気になります。年が明けたらすぐ診に来てくれるといった先生も来ない。家の人が訪ねたけれど薬を飲んでいればいいと言って処方箋をもらってきました。

 3か月たって弟に支えられながら布団の上を歩きました。一歩畳の上に足を置いた途端しびれてしまい、コタツまで座布団をつないでもらって、やっとコタツに入ることが出来ました。麻痺になる前に尾てい骨の上が重苦しかったが、原爆で飛ばされたときに打ったせいかな、くらいにしか考えませんでした。まさかそのせいとは考えられないのですが、歩けるようになったけど箸を持つのがやっとで、茶碗は持てず、握力が無くて力が入らない。5か月たって自転車に乗ったけど握力がないので、ゆっくりゆっくり毎日カイシュウ温泉に通い、一日に3時間くらい入っていました。悪い時は3時間入っても何ともなかったけどおいおいよくなり、1時間入っていることも出来なくなり、何病ともわからない病気を別れることが出来ました。

 昭和47年11月に脳動脈で県病院に入院し、頭を切って手術を受けました。今でもレントゲンを撮ると、手術した方の大脳が、手術しない方よりずっと大きくなっています。その手術をしてから片足が利かなくなり、靴を履いてもボツボツしか歩けず大変不自由です。

 左の眼がかすんできたり、どこも良いことなしです。原爆のようなひどい爆弾はないと思っていたけど、今はその数倍の力を持つ核兵器が5万発もあるとか。考えただけでも身のすくむ思いです。生きるのも、死ぬのも地獄という兵器は二度と使われてはいけないと思う。核兵器のない世の中を願っております。

 

 生き残って

 

 山梨県甲府市 米内幸子さん 

当時27歳 広島で   

 

 

 8月6日の朝8時過ぎ、マグネシュームをたいたような青白い光が走った。と思う瞬間に、障子がガタガタと音を立てて揺れた。何ごとが起きたのかと、跳ね起きた。胸がドキドキするのを押さえながら、どうなることかと心配したが、その後何も起こらずホッとしました。広島の街を20キロも離れた山間の叔母の家です。甲府空襲で焼きだされた姉が、7月31日未明3人の子供をすれて帰って来たので、すぐに疎開するようにと準備しましたが、空襲後発熱、下痢と長旅ですっかりやせ細っている子供を、医者の遠い田舎にすぐに行くのは・・・とためらいましたので、私が一足先に行って片づけをしてくることになり、帰りは叔母の家のそばに工場疎開をしている車に乗せてもらって、5日の夜中に帰ることになっておりました。ところが5日の朝早くから腹痛、下痢、嘔吐と、それが昼過ぎまで続き、家の中さえ歩けなくなってしまい、帰れなくなって6日の朝も布団の中にいたわけです。

 生死を分けた8月5日の下痢は、60余年の人生の中でただ一回あっただけの出来事です。運というのでしょうか。ガタガタと障子が音を立てたころには、家の下敷きになっているはずの私は、原爆死からまぬがれたのです。

 夕方頃になると広島駅前に爆弾が落ちて、ヤケドをした人がぞくぞくと八本松の駅に降りていると聞き、さあー困ったことになった。私の家は駅から遠いから大丈夫だと、心に言い聞かせながらも不安な一夜を明けました。

 7日のお昼頃、学徒動員で工場に通っていた姪がトボトボ歩いて来る。大丈夫だったんだと思ったが、母と姉たちは死に、父が胸に穴が開いていることを告げた。 

 8日の朝一番のバスで八本松駅まで出たが、汽車は当時一列車一人か二人しか乗れなかったので、姪と二人は広島に向かって黙々と歩きだした。海田市内まで来たら、家々のガラス窓が壊れていた。広島に近づくにつれて被害が大きくなってきた。

 広島駅のホームの屋根は崩れ、あわれな姿でした。前を見てびっくり、己斐から江波まで一望に見渡せる。出かけるときの賑わいはどこにもなく、鉄骨のビルが所々に残っているだけ。ひょいと足元を見ると真黒に焦げた男女の区別のつかない死体が転がっていて飛び上がった。ガレキの間からも死体が、じっとしてはおれない気持ちに急き立てられ、我家の方向に向かってガレキの中を必死になって歩いた。川底で魚が泳いでいるのが見えるほどにきれいな川に、なんと真黒な死体がどの川にも一杯です。街のあちらこちらで火が燃えている。異様なにおいが満ち満ちている。やっとたどり着いた我家の焼け跡、なべ、窯が転がっている中に30cmくらいの真黒なものが二か所にある。駆け寄ってみると焼け残りの背骨です。急いでその下を掘ったら真っ白な骨の中に金歯が・・・、母の骨です。一方の骨の下には姉の骨のそばに小さな可愛い歯が並んでいました。私が捜しに来た時、すぐにわかるようにと、背骨を残して置いてくれようにも思われ、悲しさもひとしおでした。3人の子供の骨が見つからないので家中掘り返しましたが、とうとう見つかりませんでした。

 街の東西を問わず、死体を焼く火が燃えており、何一つない焼け野原の上を爆音高々と飛行する敵機に、言いようのない憤りを感じました。その焼け跡で、まんじりともせず一夜を明かし、残りの骨を焼く木片を見つけるために江波の方に向かって歩きました。

 電車通りにムシロを敷いて、その上にヤケドをした人がズラーと並んで痛い痛いと騒いでいる人、小さな声で水をくださいと悲しい声、どうしようもないうめき声、ただ白いものを塗ってもらっているだけ、傷口にはハエが群がり、あたりにはウジ虫が這い廻っている。あの光景とあの声は今も忘れることが出来ません。木片を集めて母と姉の骨をこの手でダビにふしました。なんとも悲しい、淋しい気持ちで「生きていてよかった」とはとうてい思えませんでした。

 近所の人たちや友達のことを聞けば聞くほど、その悲惨さに胸が締め付けられるようでした。二夜を焼け跡で過ごし、父がお世話になった先生にお礼を述べて田舎に帰り、簡単な式を済ませ、戸籍等いろんなことで8月中何回ともなく広島に行き、何年か草木も生えないと言われた跡を焼け跡を歩き回って手続きを済ませホッとした矢先です。

 9月1日、見知らぬ人が迎えに来た。義姉が8月6日八丁堀あたりで、電車の中で爆弾にあい運よく無傷で疎開先に帰ってきたけど、15日ころ熱が出て風邪かと思っていたら髪の毛は抜け、体中に斑点が出来て今朝早く息を引き取ったので、来て葬式をしてくれと言われ、その人に連れられて5キロ歩いて、2駅汽車に乗り、4キロ歩いて空を指さして、あの山の上ですと言われたときの悲しさ、疎開先の家に一歩足を入れてびっくり、そのにおいは母の骨のにおいでした。

 一緒に出掛けた10歳の甥は血の毛のない真っ白な顔、頭髪はなく、母親の後を追う日がいつかと思ておりましたが、少しずつ元気になり良かったと安心しました。

 ところが、被爆した母親の父を10日間くらい飲んだ2歳の女の子が、母親の死後15日くらいしたころから元気がなく、ポンポンが痛いと言い出し、そのうちに体中に母親と同じ湯に赤い斑点があちこちに出始め、そこから血を噴き、「痛い、痛い」と言いながら、目からも血を流して、小さな生命の火は消えました。こんなひどいことがあっていいのでしょうか。原爆のせいだと思うとひとしおにあわれで、憤りがいっぱいでした。 無事復員してきた兄は、廃墟の街で妻と娘の骨、傷ついた父と4人の子供を前に今浦島太郎のようだと何とも言えぬ顔。

 骨の見つからぬままに死んだものと思い、○○童子と戒名を付けた姉の息子は、生きて甲府に奇跡的に帰ってきた。(手記第一集に)

 8月6日の一発の原爆は、私の人生のすべてを変えたと言っても過言ではありません。どんな理由があっても核兵器は使用してはいけない。使わせてはならない。人間の世の中にあってはならない、あの悲惨な状態を再び誰にも味あわせてはならない!とのために生命のある限り頑張りたいと思います。

 特に最近の軍備拡大の進んでいる今日、戦前のように戦争反対等と言うことが出来なくならないうちに、被爆者として体験を語り、書き残して平和のために役立ちたいと思います。

 核兵器廃絶、被爆者援護法制定のために多くの人々が力を結集してゆけますことを心から願っております。

 

 あとがき 

   米内幸子さん

 

“やっと肩の荷が下りた”それだけが、今の私の気持ちです。来る年も来る年も「きのこ雲」第3集の発行を、と言いながら、40周年が来てしまいました。第2集発行の時、原稿をお寄せ下さった方々に対して、申し訳ないと一人で気負って走り回りました。いろいろな事情で遅くなりましたことを心からお詫びいたします。

 昭和31年、日本被爆協が長崎において結成されました時、「大会宣言」「世界への挨拶」として、「・・・私たちは自らを救うとともに、私達の体験を通して人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。人類の生命と幸福を守る砦として役立ちますなら、私たちは心から“生きていてよかった”と喜ぶことが出来るでしょう」と、被爆体験を通して人類の危機を救う被爆者の決意を明らかにしております。29年経った今、まったく同じ思いを込めてこの本を発行いたしました。

 核軍拡競争を止めさせ、買う戦争を絶対に起こさせないため「生き証人」として訴えます。

 きのこ雲第3集が“絶対に子供や孫を被爆者にさせない”ために、広く活用していただけますことを強く願っております。

 最後に無理な条件を受け入れて印刷を引き受けて下さった「三愛印刷」のスタッフの皆さんに熱くお礼申し上げます。

 

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会 「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会