『きのこ雲』 第2集

昭和49年(1974年)発刊

15名の被爆者の方々に体験談を寄せて頂きました。

題名もしくはお名前のところをクリックしてください

第2集発行にあたって・・・・高橋 健さん   広島 当時19歳 爆心地から約2km

私の被爆体験・・・・・・・・越賀 大流さん    広島 防空通信隊として任務中

きのこ雲の下で生き残って・・中田 武男さん

8月6日の記憶・・・・・・・日向 退助さん    広島 当時27歳 船舶通信連隊として任務 爆心地から約1.3km

8月6日の記憶・・・・・・・清水 幸平さん    広島 特攻隊の訓練を受けていた

8月6日の記憶・・・・・・・小沢 万彦さん    広島 当時19歳、暁部隊として広島で任務

8月6日の記憶・・・・・・・相吉 英一さん    広島 兵隊として任務中  爆心地から約24km

8月6日の記憶・・・・・・・清水 要四郎さん 広島 兵隊として任務中  爆心地から約3km

生き地獄の体験・・・・・・・広沢 猛さん     広島 暁部隊で任務中 爆心地から約1km

死線をこえて・・・・・・・・深沢 政治さん    広島 当時28歳 兵隊として任務中  爆心地から約1km

運命の朝・・・・・・・・・・吉野(旧姓) 静湖さん 

一被爆者の回想・・・・・・・白沢 いづみさん 広島 当時21歳

あの日、広島で・・・・・・・赤池 輝朔さん    広島 当時26歳 元海軍

20.8.6 原爆被害者として想うこと・・・勝村 由尾さん 

広島の夏・・・・・・・・・・渡辺 渡さん     広島 当時21歳 小隊長教育のため広島で任務

奇跡の生還・・・・・・・・・遠藤 孝さん     広島 暁部隊で任務中

 

 

 第2集発行にあたって

 山梨県甲府市 前甲友会会長 高橋 健さん 

当時19歳 爆心地から約2km 

 

 昭和45年に「きのこ雲」第1集が発行され、その冒頭に私が小文を書いています。

その中で私は被爆者援護法の制定という私達の要求が顧みられていないこと、我が国がアメリカの核の傘の下にくり入れられ核兵器禁止の声が踏みにじられている政治状況があること、被爆者が差別を受けているという社会的状況の中で私達が無力感を覚えること等に触れています。

それから4年の月日が過ぎ、来年は私達が被爆して30年になります。 本県の被爆者の多くは50の坂を越えました。 いまここに「きのこ雲」第2集を発行するにあたり前回とほとんど同じ事を言わなければならないことを残念に思います。 私達の精一杯の運動にもかかわらず被爆者援護法はまだ制定されておりません。 前国会では野党四党の被爆者援護法案が共同提案されました。 国会の場で援護法が討議されたことは画期的なことであり、私達に大きな希望を持たせましたが、政府自民党の賛成が得られずあえなく廃案となりました。

 米・ソの地下核実験は続いています。 中国・フランスも毎年のようにきのこ雲を立ち上らせ、最近はインドまでが核爆発を行いました。 日本はいつも潜在的核戦力所有国の筆頭にあげられております。 私達の要求にもかかわらず、非核三原則は立法化されていません。

 核兵器をなくすことは可能だろうか? 核戦争は防ぎ得るものなのだろうか? そのように問いかけることが既に大時代な響きを持つのではないかという気さえするこの頃なのです。 ある人々は「核抑止力」があるから戦争は起こらない、日本はアメリカの核の傘の下で安全であると言います。 核兵器に一時的な抑止力があるとしてもそれは恐怖のバランスであり、ヘビの綱渡りのような危なっかしいものでしょう。 核兵器の上に平和が築かれるとするのはごまかしに過ぎないと私は考えます。

 ある天気の良い日、人々はあるいは職場で勤務に励み、あるいはマーケットで夕食のための買い物をしているでしょう。 教室では学生達が先生の話を聞きながら勉強しているし、運動場ではボールを追って子供達が駈け回っているでしょう。 恋人達は街を散歩し、母親は子供をあやしているでしょう。 すると突然全ては、巨大な火の玉に包まれ、人々の希望も、未来も一瞬にして文字通り消滅し、幸いにして(というより不幸にして)生き残った人達は、この文集の中で多くの被爆者達が述べているような苦しみの末に、結局はやはり死んでいきます。

 この様なイメージは私達被爆者にとっては、過去の経験と結びついて、逃れられないものとなっています。 そして多分核兵器の完全禁止が成し遂げられないならば何時かは現出する事態なのです。 私としては願わくは、生きてそのような事態にぶっつかるものならば、その前にこの世を去っていたいものだと思いますが・・・。 このような事態を防がなければと私達が説くとき、かつてはそれは説得力を持っていました。誰もがそれぞれ戦争体験を持ち、そのような戦争が悪であり、この世にあってはならないものであることを自明であると考えていましたから。

 戦後30年が経過し、人の心も変わりました。 かつての切実な戦争体験も忘れられてきました。 時は過去を美化すると言いますが、かつての苦しかった戦争体験を懐かしむ風潮さえあります。 また戦争を知らない人達の中には、現在の鬱積した状況からの脱出を戦争ゴッコに求めようとする気風さえあります。 戦争というものは、この様にして起こるものなのかもしれません。 第一次世界大戦の惨禍が忘れられた時、ファシズムが台頭し、平和運動は第二次世界大戦を防ぐことが出来ませんでした。 現在の情勢の中に何かそれと似たものを嗅ぎ取り、戦争の足音を聞くと言ったら言い過ぎでしょうか。

 本心は戦争反対であったのに、それを言う勇気がなく、自らも戦争の中で命を失った人は大勢いたでしょう。 この人達は死に際して、たとえ殺されても戦争に反対するのだった、その方がこのように犬死にするよりははるかに良かったという後悔に苛まれたことでしょう。これは恐ろしいことです。 私達被爆者は核戦争に反対します。 広島で、長崎で死んだ人々の恨みを慰めるためにも、私達は語らなければなりません。 戦争は防がなければならない、戦争は悲惨なものである、戦争で格好良く死ぬことは出来ない。 それは私達が一番知っていると。

「話半分、という言葉があるが、この世で大体の場合、話は2倍、3倍と大きくなるものだ。 しかし原爆だけは全く逆で、いくら言葉を尽くしても実際の半分も伝えることが出来ない。」とある被爆者は語っています。 〃こればかりは経験した者でなければ分からない〃被爆体験を私達はそれぞれ持っています。 しかし言葉となって口を出たとたんにそれは平凡なものとなってしまい、私達が伝えたい内容の半分も伝わらないもどかしさを私達はいつも感じます。

 それでも私達はこの小冊子を発行しました。 たとえ不十分ではあっても原子爆弾の残虐さ、非人道性を話したい。 戦争というものの悲惨さを理解してもらいたい。 そのことによって核兵器完全禁止、世界平和が実現するのにいくらかでも貢献することを期待したいと念じながら。

 

 

 私の被爆体験

 越賀 大流さん

防空通信隊として広島で任務

 

  私は広島で被爆した。 これより先、昭和20年3月、京都の桃山連隊に入隊。 北支に行く予定であったが舟の都合がつかないまま待機していたところ、4月に広島の第2軍総司令部内防空通信隊に配属となった。 場所は東練兵場内戦車隊跡にあり、私は暗号解読に従事していた。

  8月6日朝は事務室で仕事をしていた。 ピカッと光ったと思った瞬間何かの下敷きになり

 何もわからなくなった。 どの位の時間が過ぎたのであろうか。 長かったようにも思えるし、ほんの数秒間だったような気もする。 薄暗い所から這い出した私の目に入ったのは完全につぶれてしまった兵舎であり、耳に入ったのは助けを求める人々の声であった。

  机の陰にいたため命は助かったが、半袖の肘から下は指の先まで火傷を負い、背中から横腹にかけてはガラスの破片でかなりの傷を受け(今でもその一部は体内に残っている)、出血のため立っているのがやっとという状態であった。 つぶれた兵舎には間もなく火が廻り、その中からは下敷きになって助けを呼ぶ悲鳴があちこちから聞こえていたがどうすることも出来ず、生きながら焼かれた兵隊も数多くあり全く悲惨な光景であった。 

  その後私は練兵場の隅のテント作りの収容所に入れられ、火傷に油らしきものをぬっただけで5、6日放置されてころがっていた。 広い練兵場は負傷者であふれ、一目でもう駄目と思える人達が「助けてくれ」「水をくれ」と弱々しい声で呼びかけても誰ひとり見向きもしなかった。 こうしてこの人達は次々に息を引き取っていった。 死骸は穴に放り込まれ、薪と一緒に焼かれた。

  やがて私は可部から3キロばかり奥の大林国民学校に収容され、100人位の人達と一緒に毛布2枚を与えられてゴザの上に寝かされた。 火傷には相変わらず油がつけられ、柿の葉がきくとか言って煎じて毎日飲まされた。 背中の傷はアルコールでふくだけであったが、たまたま隣の人がお灸の先生だったので毎日足や背にすえてくれた。 みんな赤痢のような症状で便所は真っ赤に染まり、食事も私は無理して何とか食べたが喉を通らない人が多かった。 昨夜まで一緒に話していた人が朝には冷たくなっていたり、髪が抜けた人はほとんど2、3日の中に死んで行き、9月15日解散になった時には3分の1くらいしか生き残っていなかった。

  私は傷も直らないまま志摩半島にある妻の実家に帰りそこで半年ほど養生したが、柿の葉やお灸が効いたのかどうか、現在まで特別にこれといった病気にもかからず生きてきた。 最近は年齢のためとは思うが、血圧が高く動脈硬化であると診断されている。 次男が腰の骨がゆがんでいるとかで長時間立っているのが苦痛らしく、被爆後生まれた子であるだけに、原爆のためとは考えたくないが、やはりどうも不安である。

  戦闘員も非戦闘員も、女も子供も全く無差別にしかも大量に殺戮し、30年たってもそのために苦しまなければならない原子爆弾は、どのような理由があるにせよ人類の上に使用させてはならない。 またどこの病院でも被爆手帳さえ持って行けば無料で治療してもらえ、生活の保障をしてもらえる「被爆者援護法」が一日も早く制定されることを強く要望したい。

 

 きのこ雲の下で生き残って

      中田 武男さん

 

 

 昭和20年8月6日の朝、ふだんより15分くらい遅れて下宿を出ました。 広陵中学前  電停で電車を待っている時、ピカッと光を受けてすぐに伏せました。 今から考えれば光った時はすでにやられていたわけですが、その時はそんなことは分かりません。 日頃の訓練でとっさに伏せたのですがそれからがはっきりしません。 とにかくしばらくたって立ち上がってみたら、ついさっきまで建っていた家並みはペシャンコになってしまい、私の左のホホと手がピリピリしびれております。 思わずホホに手をやったら濡れた感じでした。

 下宿にとって返してみたらそれも見事につぶれていて、その中から小母さんが這い出して来ました。 ヤケドには油がよいと云うので近所のこれもこわれた家から油を取ってきてつけてくれました。 歩いて部隊まで行きましたが、隊の事務の女の人たちはガラスの破片を身体中に受けて可哀そうなものでした。 自分はその日のうちに「似の島」に連れて行かれました。 毎日顔の火傷から黄色い水がタラタラ流れてそれをふくのに忙しい始末でしたが、いのちは助かりました。

 島に送られてきた人たちの中にはヤケドで重湯も自分で飲むことができず、やっと流し込んでもらうような人も多くいましたが、そのような人たちは3日くらいで息を引き取って行きました。その人たちは大きな穴を掘ってその中に埋められ、小さな箱に頭髪だけが入れられました。

  島に来ている人たちの名前を広島の街に書き出しておいたので、それを見て吾子をたずねて来て変わり果てた姿に泣き伏す母親たち、今も脳裏に焼きついております。 

  そんなことをしながら島に2か月ばかりいて、山梨の地に10月20日頃帰りつきましたが、両親は生きて帰った息子に大喜びでした。

 私の姿を見て口を開いたままものも言えなかった様子を今でも思い出します。 帰って来てしばらくは顔の半分が真っ赤で外にも出られず家の中に閉じこもっておりましたが、近所の人たちは「あの息子は帰って来たというのにさっぱり顔も見ないが、一体どうしたというのだろう。」と言い合っていたそうです。

 幸い、ヤケドもケロイドにはならず、現在では一応元気ですし、子供も今のところ何の影響もなく安心しておりますが、もう絶対にこんなひどい戦争はまっぴらごめんです。 あの

悲惨な思いはどこの誰にも味合わせたくない、味合わせてはならないとしみじみ思います。

 二度と再び原子爆弾などという、一発で何十万人もの大量殺人を行う兵器がこの世で使われることのないよう心から願っております。

 

 

 8月6日の記憶

山梨県南巨摩郡身延町 日向 退助さん

       当時27歳 船舶通信連隊として広島で任務 爆心地から約1.3km

 

 

 私の名前は日向退助、現在、下部温泉で有名な下部町に住んでおります。 そして私は、29年前のあの広島へ世界初の原子爆弾が投下された歴史的瞬間を目の当たりに見た者でもあるのです。

 当時私は、広島市の比治山公園のすそにある船舶通信連隊へ大手町の明治橋のたもとの下宿先から、毎日通うという生活を送っていました。 下宿についてのようすは後でくわしく述べますが、下宿には妻と2人で住んでいました。

 そして、あの8月6日の朝は、確か、5日に呉市に空襲があったため、いつもより30分程早く兵舎に向かいました。 8時ちょっと過ぎにはもう兵舎に着いていました。 その途中の道路には、中学生の奉仕隊が動員されており、道路いっぱいに隊列を整えていました。

 兵舎に入ると、中では呉市の空襲のため、不眠不休の状態であった隊員がみんな仮眠をとっていました。 その兵舎というのは2階建てで、1階、2階ともそれぞれ2段になっていて、ベッドが置いてあり休めるようになっているのです。 私もすぐ下のベッドのあいている所に横になりました。 日の光がさしてきたので、戦闘帽で目の所を隠して寝ていたら、飛行機の爆音がしてきたのです。 となりに寝ていた神奈川の人が、確か伍長だったと思いますが、「窓をあけて見てみろ」と言ったので窓を開いてみました。 するとその男は爆音だけで判断したのか、実際、機影を見たのか、「1機だよ」と言ってまたすぐベッドに入りました。 その瞬間です。 頭を向けていた北面の壁の方から、真っ黄色、まさに黄土をぶちまけたように壁一面が真っ黄色になり、目の方に軍刀の長さ、太さの閃光が向かってきたのです。 そのようは、黄色い色をつけたマグネシュウムがたかれたとでも表現しましょうか。 あの太陽がある雲の状態の中で上がる時のように真っ黄色だったのです。 私は思わず手で目をおおいました。 それで光は直接目にうけなくてすみました。 しかし、手にはもちろん火傷を負いました。 その手は腕時計のバンドの跡がくっきり残り、バンドの位置を超えて手の先の方まで火傷の跡がありました。 腕時計は焼きついて落ちてどこかへいってしまいました。 その時はまだ火傷の程度は赤身程度でした。 他に頭に何か落ちてきたのでしょうか、脳天から少し血が出ていました。

 その後階段を降りたのか、またその階段が倒れていたのかよく覚えていませんが、夢中で靴を(その靴をすぐはいたのか、持ち出して後ではいたのかはっきりしない)はいて、比治山の方へ向かいました。 当時比治山には、部隊で通信できるように通信機をおいたり、避難できるように洞窟が掘ってあったのです。 洞窟といっても完全なものでなく、ちょうど日清戦争の時の砲台が残っているすぐ下の方にありました。

 そこに向かう途中の光景がまた悲惨でした。 だれもかれも比治山をめがけて相当長い列を作っていました。 そして奇妙なことにほとんどの人が手を上に上げているのです。 中には降参の意味で手を上げている兵隊もいたようですが、たいていの人は火傷を負った手が痛くて上げずにはいられなかったのです。 中でもうすいカーボンのように煤けた人がたくさんいましたが、そんな人は比治山のすそにたどりついたとたん息が絶えてしまいました。比治山のすそには、たいへんな数の死体ができました。 私はその時は、手の火傷のために手を上げずにはいられないということもありませんでしたが、洞窟の中に入ってしばらくすると、痛くて手をあげなくてはどうしようもなくなってきました。 見ると赤身程度だった火傷が、汁気がでるようになっていました。 最後には手をつるしました。

 さて、その頃、爆心地から2キロ以内にあった大手町の下宿に残っていた妻はどうしていたでしょう。 その下宿先は松浦さんと言い、先代が代議士で当主は薬剤師で清涼飲料や缶詰工場を経営していた、かなり裕福な家でした。 家族構成は、疎開して当時家にいなかったおばあさん、主人、奥さん、子供は、娘が2人と小学2年生の男の子、それから朝鮮人のお手伝いが1人いました。 私達はその家の離れを借りていたわけです。

 原爆投下の時間というのが、ちょうど主人が出勤するために木戸を出た時であり、その主人は大火傷を負い1週間後亡くなってしまいました。

ここで少し妻に登場してもらいましょうか、以下しばらくは妻の記述です。

「私は、あの日主人を送り出してから離れで編み物をしていました。 すると母屋の方から『ごはんです』と呼んでくれたので、編みかけでしたが、せっかく呼んでくれたのだからと思って、母屋の方へ行きました。 まあこのことが私が助かった一因となったと思っています。

もしあの時、編みかけだからと言っもて1人で離れにいたら、今どうなっていたか見当もつきません。 ちょうど食事をしていた最中でした。 天井の明かり窓から突然ピカッときたのです。 私は家が直撃を受けたのだと思いました。 家具という家具が何もかも路地に吹き付けられ、食器戸棚も倒れました。 私は、はだしでとび出し、離れに行ってどういうわけか蚊帳を引っ張り出して、港の方へみんなで逃げました。 その蚊帳は、蚊の多い広島では木と木の間に吊っておくと、結構役に立ちました。」

 妻がこんな経験をしている時、まだ町中は暑かったので自分の体に水をかけ、下宿の方へ行って見ました。 しかしそこはきれいさっぱり、全く何もありませんでした。 そこでがっくりし、下宿から50メートル程の明治橋の方へ行ってみると、川の中は死体でいっぱいでした。 その途中では、電話の回線が溶けずにたれ下がって道路をいっぱいにしていました。 また、馬が倒れていたり、防火用水に頭を突っ込んで死んでいる人もいました。 その日は何の収穫もないままくたびれて、比治山の洞窟に帰って眠りました。

 次の日、また町の中を歩き回っていた時、日赤病院、文理科大学の近くの御幸橋で、たまたまみどり町へ引っ越すのに、荷物を乗せた大八車を引いていたおじさんに出会いました。

みどり町にはおじさんの弟の家が幸いにも残っていたのです。

 その後、妻にも会うことができ、8月10日に広島を出、9月12日に山梨へ帰ってくることができました。 8月6日からその間、広島で夢中で過ごしました。

 また手の火傷は時計のバンドの跡が黒みをもって、その後3、4年残っていました。 原爆での火傷はうす皮だけ黒くなり、中まで黒くなるのではないようです。 けがの状態により、助かる人と助からない人がはっきりしています。 助からない人は、その後一週間ぐらいでまず脱毛が始まり、次に歯ぐきから血が出るようになり、最後に腹に針で突いたようなあわつぶのような赤い斑点が出ると、たいていの人が死んで行きました。 また投下後、町へ出て行って救援活動を行った人が放射線に感染したということもあったようです。

 私たち夫婦は幸いにも軽いけがで済みましたが、いったい私と共に兵舎で寝ていた人達はどうなったのでしょうか。 どこかで無事に生きていてくれることを、今は願うばかりです。

 

 

 8月6日の記憶

 清水 幸平さん

広島で特攻隊の訓練を受けていた

 

 昭和19年に、私は現役で、宮城県石巻の部隊に入隊し、3か月後に広島県の宇品に転属になった。 8月6日の朝は、朝礼、食事をすませ、演習に行こうとしたが、空襲警報が出されて、防空壕に避難した。 空襲警報はすぐに解除になり、作業に行くために舟に乗り込んだ。

 舟を泊めてある繋船場から5メートルも離れないうちに後頭部と首に異様な暑さを感じ、すぐに海に飛び込んだ。 泳げない私が、地下たびをはき、作業服をきたまま、どんな格好で泳いだか、わからないが無我夢中であった。 なんとか繋船場に泳ぎ着き、そこにいた兵隊に引き上げてもらった。

 爆音は耳にしなかったし、何が起こったのかわからなかった。 駅の方を見ると真っ赤なボタン色の雲が舞い上がり、大きなキノコ雲が音もなく広がってゆく光景は、何とも言えぬ無気味なものである。 こりゃ、ガスタンクでも破裂したのだと瞬間思ったが、これが原爆だったのである。

 ビショ濡れの作業服のまま作業に行った。 部隊に帰ってみると、屋根の瓦は飛んでいるし、窓ガラスは破れているし・・・・その夜、広島市は一晩中燃えていた。

 明くる日、市の中心部へ作業に行った。 消防署の跡には、男女の区別のつかない死体が真っ黒いままころがっていた。 電車の中にはぶらさがったまま死んでいる人もいる。 防火用水には、顔を突っ込み、半分焼けて、生きている人がいる。 その人の時計は動いていた。 市の中心部から見えるのはお石塔だけだった。

 収容所で亡くなった人達を集めては、穴を掘ってガソリンをかけ焼いた。 焼き切れない人達を御幸橋から舟で〃似の島〃に送った。 持つと、ズルリと皮のむける死体を最初は気持ち悪がっていたが、そのうちに悪臭にもなれ、死体のそばで食事もした。 今は交通事故を見たっていやなもの、思ってもゾッとする。

《特攻隊訓練》

 当時私は、金輪島という小さな島で、特攻隊の訓練を受けていた。 ベニヤ板でつくった一人乗りのボートに自動車のエンジンを取り付け、両側に爆雷をかかえて、敵艦めがけて攻撃するのである。 爆雷を投げつけて、自分はすぐに帰ってもいいと上官は言うけれど、それはすごく早い舟で、自分もやられてしまうし、舟のつくりは攻め込むだけが精一杯である。

運良く解散になり本当に助かった。

《心配な子供の健康》

長男はまだ21歳ですのに、血圧が高くてフラフラすると言っている。 次男は今年小学校に入学だが、心臓が悪く、2つも3つも持病があって、手術も2回ぐらいに分けてでないと出来ないと言われた。 普通の小学校には行けず、遠距離の富士川小学校の特殊学級に入れている。 これが果たして原爆によるものかどうかよく分からないが、親としては心配でならない。                                     《被爆者援護法の制定を!!》

 去年の11月、今年3月にも中央行動で、援護法の制定を要求して国会に行ったが、自民党の壁が厚くてくやしい思いをした。

 でも、昨年は見向きもしなかった自民党が3月には、自民党本部に私達を入れて被爆者の要求を聞くという様に変化した。 あと一息、被爆者は団結して、来年は原爆が落とされてから30年になるのだから、それまでに必ず援護法を私達のものにしよう、頑張りたいと思っている。

 

 8月6日の記憶

 小沢 万彦さん

当時19歳、暁部隊として広島で任務

 

 19歳の私は、兵隊25人の中に混じって甲府駅前で知事の訓辞を受けていた。 あの恐ろしい地獄の広島を予期する事なしにバンザイをもって広島の暁部隊へ送り出されたのである。 2500名から成る暁部隊は6中隊ほどに分かれていて、350名の中隊に山梨県出身者は私一人だけであった。 中隊の半分は本隊所在地のフィリピンへ配属され、残りの半分は皆バラバラになってしまった。 その後誰とも行き会わず、はっきりした消息は分からないがおそらく生きて故郷へ帰ったのは私を含め、3、4人ほどであろう。

 

 あの日8月6日の前夜も相当ひどい空襲で、私は比治山の穴で一睡もせず通信機の監視をしていた。 朝になって兵舎に戻り上官から「一日寝てろ」との命令を受けた。 その時は空襲解除になっており、私は装具をはずし、裸で同班の者達とお茶を飲みながらバカ話をしていた。「ピカドン」はその時、そこへ来たのだった。

 兵舎がにぶい音とともにつぶれ、ガラスがバラバラと私の体にふりかかって来た。 が、しかし、この時そのガラスの破片が体内にくい込んだ事など少しも気づかないでいた。 夢中で外に飛び出すとそれはもう見渡す限りもうもうとけぶっている。

 私は傷を負った身で医務室へ飛んでいったが、その医務室は丸焼けだった。 本部も部隊の西側半分が焼け東側半分だけが残った。

 部隊で確保しておいた三角巾、アカチン、リバノールなどで軽く手当を済ませ、戦友を捜しに街へ出た。 その時はまだガラスの入った足は化膿していなかった。

 うちの部隊を境に東側は家がつぶれ、被服敞あたりからは何とか家の形は残っているが、瓦が落ち、柱などが曲がったりしていた。

 西側は全く家の跡形もなく見るのも虚しい荒涼とした焼け野原となっていた。

毎日歩き慣れていた所でも方向がまるっきり分からず戦友もどこにいるのか分かったものではなかった。 

私の脳裏には今もってさまざまな恐ろしい光景が焼き付けられている。

 土地の人達に出会った。 彼らはほとんど衣服というものを身に付けず、たまたま見られる服も黒とも赤とも似つかぬ色で染められていた。 恐怖と絶望の中で涙や血とほこりにまみれていた。 時折哀願の目を向けて助けを求め、寄りすがってきた。 可哀想に思うのだが私としてもどうしようもない状態で困ってしまった。 

 今の広島城のある広島師団、そこでは見習い士官の教育をやっていて、あの日の朝、見習い士官達が訓辞をうけていた。 そこに落ちたのだ。 一人残らず死んでおり全く見るに見られない悲惨な光景だった。そこは広島の中心地なのである。

 朝の出勤時だったため電車が横倒しになっておりその中にびっしり学生などが缶詰状態で死んでいた。 生きている人もいたがそれらの人は気が変になっていたみたいだ(もっとも私もその一人であったかもしれない)。 女の人も髪の毛を乱し、ボロボロの布がところどころにくっついてぶら下がっている程度で、ほとんど真っ裸だった。

 暑い放射熱のためか多くの人が川の中に飛び込んでいた。 涙と汗と油、そして生々しい血のどす黒い液体の中でたくさんの人々が死んでいた。

 私は、それらの死んでいる人達を見ても不思議なことに涙が出てこなかった。 無情というより死に関して無神経になっているのだった。 戦争とは人間の死に対して無神経にさせてしまうものである。 平気で虐殺も出来る本当に怖いものだ。

 それから私は元学校の野戦病院へ行ったが、そこでは流言飛語のごとく火傷にはじゃがいもを擦って塗れ、味噌をつけろ、油を塗れなどという話が飛んだ。 そうすると余計に蝿がたかって、ウジが火傷の傷口にわいたりしたものだった。 病院は1階が一般の人、2階が軍人となっており、2階の軍人用にはまだアカチンなどもあったが、1階の一般用には薬などまるっきりなかった。

 私のすぐ横に寝ていた少年兵。 彼はひん死の状態で一言もものが言えなかった。 当時、中隊では伝染病がはやっていて、トイレで手を洗わない者にいちいち「手を洗え」と注意する役を順番でやっていた。 その少年兵は、トイレのところで天幕をはって兵隊が手を洗うかどうか見張っていたのである。 その時に原爆が落ちたため彼は爆風で天幕にくるまったまま、水道の下にめり込んでしまった。 どうして入ったかと思うくらいの小さな穴である。 やっとのことで引っぱり出されたが体全体がはれあがりぐみ色になっていた。

 彼は間もなく野戦病院から山口県の病院に運ばれたが生死は分からない。

 また下士官の一人で、結婚して栃木にいたが休暇で広島に帰っていて亡くなったという悲しい話も聞いた。 まだ私の中隊は被害が少ない方である。

 すでに私の足は化膿していた。 今も傷跡が残っているが、くるぶしからガラスの破片がいっぱい出てきた。 その時、はじめてガラスが落ちてきた事を思い出した。

 足がたいへん腫れ上がり太くなってしまった。 上からひもをつるし、足をつって寝ていたのだが、空襲になりまわりの者は皆飛んで降りた。 私はこんな状態で「いまさら・・・死んでもいいや・・・」と寝ていたら、しばらくして終戦になった。

 痛む足でそのまま原隊に戻り長い間いた。 収容係などもやっていたのだが足はますます化膿して太くなり痛む。医務室で切開してやると言われ、ガーゼを切るハサミで足を切った。 薬といえるものはアカチンだけである。 ピンセットでつまみ出したら、まだガラスが両手いっぱいに出てきた。 そんな貧弱な手当に、おまけに夏の暑い盛りである。 傷口はいっこうにふさがらなかった。 栄養も悪かったのだろう。 

 一ヶ月ほどしたら元気な者は家に帰してやると言われ、手を上げろ、足を上げろ、歩いてみろという簡単な診断があった。 「だいじょうぶだ、帰れ。」と言われた。 傷のある足に草履をもう一方に靴をはくという格好で家に帰ってきた。

 それでも足はなかなか治らず、1年ほどたってぼつぼつ治りかけてきた。 食料増産の時期で、今でこそ桃畑ばかりだけれど、当時は米をせっせと作っていた。 傷口に水が入るため痛くて田の中へ入ることができなかった。

 今こうやって文字に書き表そうにも何分の一が書き表せようか・・・・。 だが被爆者も世間から忘れ去られようとしている。 自分自身も話したり、書いたりしなければ、印象がうすれてしまいそうである。

 

 最近、北海道の釧路にいる戦友が「今年はお前の番だ」と言われ広島の原爆病院で診断を受けてきた帰りに家に寄った。 彼は電電公社につとめているが費用は全部北海道の方から出ているという。 北海道では毎年順々に広島に派遣されて診断に来るという。 道庁との交渉で費用は全部北海道から出ているらしい。 甲友会の話をしてやると、彼はたいへん感心していた。

 

 

 8月6日の記憶

 相吉 英一さん

 兵隊として広島で任務、 爆心地から約24km

 

 8月6日、八本松の演習場で整列しておりましたが、花火のような光とドカンという大音で、皆ひっくり返る程でした。

 午後1時頃、カンパンを持って広島に救援のため向かい、夜10時過ぎ広島駅に着きました。 真っ暗な広島駅は、人々のうなり声が満ち、わけのわからないことを叫んでいる人が一杯でした。

 翌朝、明るくなって見たら、道の両側には焼けただれてうなる人、「水を、水を」と叫ぶ人の姿で一杯で、何ともこの世のものとは言えない悲惨なものでした。 私は、東京の3月10日の空襲にも支援に行って、何とひどいものだと思いましたが、広島のあの日の光景は何ものにも比較にならないほどひどいものでした。

 病院の焼け跡には、ベッドのとおりに並んで焼け死んでおり、学徒動員で出て来ていた子供達は、折り重なって全部死んでいました。 水筒や弁当箱が無惨に焼けて、一層あわれに思いました。 川の中には、大きく何倍にもふくらんだ人で川面がふさがっています。 最初のうちは棒で引き寄せて、おっかなびっくり引き上げておりましたが、しまいにはそんなことでは間に合わないと、裸でかつぎ上げても平気になりました。 死体はたまる一方でどうしようもなく、毎日毎日穴を掘っては死体を並べて、ガソリンをかけて焼きました。 私はその作業を専門に8月末までに25日間もやりました。 

 そのころから体がだるくて、熱は出る、食欲はなく下痢もともなうので、臨時収容所に入院しました。 その時、同じ症状の兵隊が100人入院しました。 入院というのは名のみで、何の手当もしないで、毎日ブラブラしているだけです。

 毎年4月に戦友会をしておりますが、年々1人2人と亡くなっていることを聞きます。 白血球がどんどん減って亡くなる人も多いようです。 私も低血圧で目まいがするのはいつもです。 健康診断をもっと何とかしたいものです。 

 インドでも原爆の実験をした様ですけど、新聞紙面で実験を知るだけと違って、原爆に逢って、目の当たりにあの悲惨な状態を見てきた者には、実験をする国に対して憎しみを感じます。 もう絶対に、核兵器を造ったり使ったりしてもらいたくない。 この地球上で、原水爆の実験、製造、使用をしないよう強く要望します。

 

 

 8月6日の記憶

 清水 要四郎さん

兵隊として広島で任務 爆心地から約3km 

 

 現役兵で仙台に入隊し、昭和18年10月、広島の宇品にある元紡績工場寮の兵舎に落ち着いた。 将校当番兵として、毎日朝8時に衛門を出て将校の下宿先に行き、片付けと掃除、夕方には布団を敷きに行くという単調な日課の繰り返しであった。

 8月6日、いつものように8時に衛門を出て、御幸橋近くの下宿に行く途中、顔に強い光線を受け、熱いのを我慢して行ったが、下宿の屋根がそっくり飛んでしまっていた。 私がタオルで顔を冷やしながら隊に帰ろうとする頃に群衆の中で怪我をしていないものは一人としてなく、裸同然の姿で体中血だらけにして、宇品の方向に走っていく様子は、身の毛のよだつ思いだった。 中隊では私が死んだか、ひどい怪我をしているものと思って捜しに行くところだった。

 上官の知人が行方不明なので、捜して欲しいと頼まれ、顔が真っ赤にはれているのを冷やしながら、毎日弁当を持って、市内のあちこちにある収容所を捜して廻った。 収容されている者は殆ど火傷をしており、ひっくり返せば皮がつるりとはげて、傷からは蛆がわき、顔などとても見分けがつかなかった。

 その後、私は顔のはれがひどくなり、隊で二、三日休んでいた。 兵舎には収容された人々が床の上に寝かされていた。 火傷で体が熱いので、板の上に寝ると冷たくて気持ちが良いのである。 でも、長い間同じ姿勢で寝ていると痛くなって、ころりと寝返れば皮がペロリとむけ、板の上に皮だけが張り付くという状態の者ばかり、「水をくれ、水をくれ」と口走りながら、殆どの人が死んでいった。 隊の隅の方は、毎日死んでいく人を焼く火葬場に成り変わった。 雨の降る夜は、焼け跡や道路に青白く、リンがチョロチョロと人魂のように燃えて気味悪く、見た者でなければ想像できるものではない。

 顔の火傷もよくなり、特に体の異状はなかったが、故郷に帰ってから間もなく熱がでたり、1年を通じて、体のあちこちに湿疹ができ、皮膚の柔らかいところはじくじくとしている。かゆみ止めをやめると狂い死にしそうになり、薬と縁が切れないでいる。

 定期健康診断の最、県立中央病院でこの事を訴えて良く診察して欲しいと言うのだが、「そんなもの(原爆)関係ない。」と剣もホロホロ。 他の病院へ行っても同じことなので困っている。 

 5、6年程前から肝臓が腫れ始め、下を向いて仕事をすることが出来ない。 養蚕や田植をすれば、入院か通院を繰り返し、何のために農業をしているのか分からない状態である。今年は養蚕を中止した。 50歳という年齢で、普通ならまだ十分に働けるのに、こんな体になったのも原爆のせいだとしか考えられない。

 あれから30年になろうとしているのに、国は満足な救済措置を講じようとしていない。現行法では制限が多く、地方の医療機関では医師の認識が足りないため、一段と取り残されたように感じる。

 被爆者の声(援護法)を国は真剣に取り上げ、一日も早く安心して生活できるようにすべきだ。 そのことが、原爆で苦しみながら殺されていった人々への唯一のはなむけだと思う。

 

 生き地獄の体験

 広沢 猛さん

広島の暁部隊で任務中、爆心地から約1km

 

 私は昭和19年秋、山口県こがね郡西部第8部隊に船舶兵として入隊、20年1月16日広島にある暁6167部隊に配属になりました。

 あの8月6日は、早朝はどんよりとした天気でしたが、8時頃からはきれいに晴れ上がり良い天気になりました。 私は公用のため、広島駅まで電車で行き、そこから歩いて舟入本町に向かいました。 その途中、8時15分頃だったでしょう。 上空約9000メートルのところをB29が一機飛んできました。 私は笑いながら「Bさん、また来たか」と気にもしないで歩いていました。

 その瞬間パッとものすごい閃光が目の前を走り、私は思わず二、三歩歩いてその場に伏せました。 その後のことは何もわからないが数分間倒れていたのでしょう。 気がついた時は建物は倒れ、下敷きになって助けを求める人、声も出ずにただうなっている人、傷の痛みに悲鳴を上げている人。 私は夢中で隊までとび帰りました。 隊も窓ガラスはめちゃくちゃになり、数人の人が怪我をしておりましたが、私はとにかく部隊まで帰れてよかったとホッとしました。

 何気なく街の方を見ると大きな入道雲がむくむくと広がって、どんどん高く上がっていきます。 実に見事でした。 街には真っ赤な火の手が上がり、あちこちが煙で何が何やら分からなくなりました。 がその時市中では生き地獄の様相が繰り広げられていたのです。  

 そのうちに怪我人や火傷をした人達がぞくぞくと集まってきました。 火傷を負った人達の顔を見ると浅黒いような色で皮膚は焼けただれ、手の先には血とほこりで黒くなった皮をぶら下げ、半裸というより裸に近く何と言っていいのか分からぬありさまです。 そのうちパッタリ倒れて息を引き取る。 まるで今まで考えてもみなかった光景があちこち到る所で出現し、何とも悲惨なあわれなことでした。 手当といっても赤チンと油があるだけ、手当らしい手当もできませんでした。

 昼食にはカンパン一袋をもらいましたが、どうにも喉を通らず、そばにいる人達に分けてあげました。 親子抱き合って涙を流し、「兵隊さん、ありがとう」と喜んでくれたのは忘れられない思い出です。 こういう有様を見てフッと思い出したのは、自分の任務のことです。

 しかしもはや舟入本町は火の海でどうにもなりません。 もし舟入本町まで行っていたら私は今こうやって手記を書いたりすることはできなかったでしょう。 今でも私はどうして火傷をしなかったのか分からない。 きっと大きな建物の陰だったのでしょう。 そうとしか考えられません。

 日はとっぷり暮れましたが、広島市内は真っ赤に燃えて、苦しむ人、泣く人と悲惨な状態でした。 B29一機で市民をこんなに悲しい状態にした原子爆弾の恐ろしさを私は一生忘れることはできません。

 翌7日、私は2、3人で広島市内に向かいました。 道々には黒く焼けた死骸がころがり、川にはどちらを見てもふくれ上がった死人が浮いている。 鼻をつく悪臭と死体を焼く炎が全市をおおっていました。 一昨日までのあの美しい広島の街が一瞬の間に灰になるとは、誰も想像できなかったでしょう。 何と恐ろしいことでしょう。 暑い8月の太陽はようしゃなく照りつけ、川のほとりは死骸の列です。 見渡す限りの焼け野原で、目をさえぎるものもなく市の向こうの端まで見通せます。 その上を吹き渡る夏の風は死臭と腐臭を運びあわれな広島の姿です。

 数日たって、全く火傷もなく傷も負っていない私が何となく体がだるく、食欲もなく、日に日にやせて、頭の毛も少々抜けてくる。 どうなることかと心配な毎日でした。 それでもどうやら9月2日復員式をし、5日に無事なつかしの故郷の土をふむことができました。

 家の者はもう私のことはあきらめていました。 何もない広島へ手紙を出しても次々と返ってくるばかり、生きて帰るなどと信じられなかったのでしょう。 帰ってからも相当苦労しました。 体にブツブツが出て半年は家で静養し、やっとぽつぽつ勤めに出られるようになりました。

 今考えるとあの恐ろしい原子爆弾を受けた私が、こうして勤務できることは、不幸中の幸いであると思う。 けれど毎年秋から冬にかけてブツブツが出来る。 カイセンみたいなのが1か所よくなればまた違ったところに出て悩まされています。 今後いつどのような病気が起こるかと思うと心配でなりません。 県病院で医者に話しましたが解らなくて、付け薬をくれただけでした。 原爆を受けた人にはこんな皮膚病にかかっている人が多いと聞いておりますが、みんな大したことはないと言われて塗り薬をもらう位で終わっております。 もっと被爆者の病気を知ってもらい、もっと勉強して私達が安心して相談でき診てもらえる医師・施設が欲しいと思います。

 被爆者手帳をもらうのも手続きがやっかいで、かなり長い間もらえませんでした。 年2回の健康診断には必ず行くことにしていますが、今度は手帳に「正常」と書かれて帰ってきました。 今までは「精密検査を要す」と書かれたのでしたが、現状はここ2、3年前から年齢の関係もあるのか、急に視力が衰え、今では老眼鏡をかけていますが、それをはずすと全く見えなくなります。 そして少し無理をすると、すぐ肝臓など悪くしたり、血圧が上がったりする。 また疲れやすくすぐ風邪を引いたり、鼻水が出たりします。今でも体にブツブツが出来、ジンマシンというより何かただれたような、固まったような、カイセンのような感じの症状が出る。 普通のかぶれだったら暑い時出るが、どういうわけか秋から冬にかけての寒い季節にそれが出ます。 

 来年は被爆30周年になります。 長い間ほったらかされて来た私達のこの苦しみに対して、国家に補償してもらいたいと念願してやみません。

 

 

 

 死線をこえて

 山梨県早川町 深沢 政治さん

当時28歳 兵隊として広島で任務  爆心地から約1km

 

 原爆が投下された8月6日の朝、前夜から4、5回空襲警報がありよく眠れない夜を過ごし、部隊の起床時間は2時間延ばされていました。

 私達の班は当時中島小学校の建物が疎開のため壊され、近くの大田川の川辺にその材木が置かれているのを舟に積み込む使役につくよう命令を受けていました。その古建材を使って似の島に通信基地を作るためです。 私と班長と兵隊達21名は8時過ぎに中島公園に着き一休みしていました。 兵達は弁当の整理をしており、私は川の土手の大きな松の木の下で、ポケットからタバコを出して一服つけておりました。

 その時です。ピカッと光ると同時に爆風が来たので思わず伏せました。 しばらく様子をみていましたが、次の爆弾が落ちてきては大変だと川に這いながらたどり着きました。 すると一緒にいた連中がもう川の中にいたので、「おい、みんなえらい速いじゃないか。」と言ったら、「いや、自分たちはハンゴーの整理をしていたら何のことはない、爆風で川に投げ込まれたんだ。」ということです。

 そのうちあたりが真っ暗になり大粒の雨がポツポツと降り始め、暗い町の中からあちこちに火の手が見えました。 「さあ大変だ。」と言うので点呼をとってみたら、21名が1名足りない。 あたりを見まわしたがいないので土手の上にあがったら、加藤上等兵(召集兵)がうつ伏せになっていました。 背中に大きな木が落ちてきたらしくウンウンうなっている。  

すぐ川の中に抱き入れました。 重態なのでこのままではいけないと、比治山の部隊まで連れて行こうと戸板に乗せ、火事になっていないところをよって行くのですが、至るところに死体がころがっていました。

 やっとの思いで中隊まで着いたが、建物はあとかたもなく、空襲のときに避難する洞窟に入ってみたら、部隊の兵隊達が何人かいました。 「隊では何人建物の下敷きになったか、どこにいるのかさっぱり分からない。 外はまだ危険だから出なくてここにいた方がよい。」と言われたので、その日の夕方まで洞窟の中にいました。

 私は中隊のある比治山に帰るとすぐに、朝食べたものを全部吐いてしまい、頭はどうしようもなく痛く「困った困った」と思っていました。 この病状は自分ばかりでなく、他の連中もみんな隊へ帰る途中で吐き、体が弱ってフウフウ言っています。 これでは再び使役に出るという状態ではなく、仕方がないから2、3日様子を見れば治るだろうと軽く考えていましたが、食欲もなく、食べられるものといえば果物だけです。

 敗戦まではこのような状態でこわれた兵舎を修理した掘っ立て小屋に他の兵隊と共に住んでいました。 18日頃から、みんなの頭の毛が抜け始め心配です。 医務室に行くと軍医が「梅毒から来たんではないか」と言ったので、私達はカンカンに怒り「同じ所にいた者全部が毛がなくなったのに、なんちゅうデタラメを言うか。」と言ったことでした。 その頃、市中に応援に出かけていた衛生兵が「地方(軍隊以外ということ)でもこんな状態になった人は亡くなっている。」と言ったので、早速日赤病院と宇品の野戦病院に10人ずつ入院しました。

 私は日赤病院に行きましたが、毛がどんどん抜けるし、喉ははれて痛くて何も通らないのです。 私達は不思議と火傷がなく、中に、2人ほどポツポツと赤い斑点がある程度で何の外傷もありませんでした。 入院して1週間くらいたってから、便所に行って倒れ洗面器一杯の血を吐いてすぐに息を引き取ったり、苦しさのあまりベッドから落ちて血を吐いて亡くなったりで、次々に仲間が減っていきました。 15日目にはついに私が1人になってしまい、私はというと白血球が800にまで減り生きた心地がしません。

 いよいよ1人になり、このままここにいては私も死んでしまうと思い、医務室をたずねて「宇品の野戦病院に入院した10人はどうか」と聞いたところ「あっちの人は元気だ」と軍医が答えます。 「それでは私も宇品にやってくれ」と頼むと、「いやあ、実は宇品の人はみな死んだ。それを言うと気を落とすと思ってついウソを言ったのだ」と真実を伝えられました。 さあ、その晩は居ても立ってもいられません。 「ここで死んでは悔しい。 1歩でも2歩でも故郷の家に近づいて死にたい」と強く思いました。

 いろいろ考えているうちに寝てしまったのでしょう。 夢を見たのです。 アメリカの軍医が来院し私の喉の手術をし「明日の朝水が飲めたら助かる」と言いました。 助かりたい一心で、水が飲めれば助かるんだというのが頭にこびりついているものですから、ベッドからのりだし、誰かが通ったら早速水を貰おうと待っていました。 1人看護婦が通ったので大声で呼んだけれど見向きもしないで行ってしまい「くやしい!なさけないなあ」との思いが一杯です。 またローソクをともしてベッドのそばを歩く人がいるので、呼びかけても全然だめなのです。

 考えてみれば喉がはれてしまって声が出ないのだから、いくら叫んでも人に聞こえないのは当たり前です。 素通りして行くのに腹を立てていても仕方がないと思って、ベッドから大急ぎで廊下に出たら、ちょうど婦長さんが通りかかったところです。 「深沢さん、どうしました?」ときかれたので、水を飲むと助かるという夢の話をして、すぐに水が欲しいと頼むと、ベッドのところまで水を持ってきてくださいました。 何も通らなかった喉だったのに、その水が何と1週間ぶりに飲むことができ、さあうれしくて「私は助かる。私は助かる。」と大喜びし、安心してぐっすり眠りました。

 翌朝、看護婦さんと婦長さんが廻ってこられ、婦長さんの顔を見たら昨夜のことを思い出しはずかしい思いをしました。 「深沢さん、昨夜のことを覚えていますか。」と聞かれてハイと言いますと「それはよかった」とのこと。 「実はあれから心配で何度も覗いたり、服を脱がせたりしたんですよ。 よく眠っていらっしゃったけれど、熱にうなされてしもしない手術をしたと言い張ったり、変なうわごとを言うので、これで最後かとあきらめていたのですよ。」「それにしても昨夜のことを覚えているようなら大丈夫、よかったよかった。」と喜んでくれました。 その朝は体の調子が良く、それからは1日、1日と良くなって、おかゆも食べられるようになりました。 夢を見た次の日に、スイスの軍医が来院し、いの一番に引っ張り出されたので、きっとよく効く薬でもくれるだろうと期待して行くと、今までのことを調査して、タバコをくれただけです。 がっかりしました。

大分よくなった頃故郷の父と叔父と弟が、米や玉子を持ってきてくれました。 私の体をしげしげ見て、この分では大丈夫だから早く帰って家の人達に知らせて安心させてやりたいと、弟を看病に残してその日に帰りました。 弟は次の日から地方に行っては果物を買ってきて食べさせてくれました。 肉親がそばでつきそってくれているので、心強く病気には一番よく効きました。 そのうちに病院から「進駐軍が来るから帰省するなら今帰るように」と言われて、弟もつきそってくれていることだし心丈夫なので、自己退院して故郷に帰りました。 頭の毛が全部抜けていて恥ずかしい思いをしたことを憶えています。

 帰ってからも果物、野菜を主に食べておりましたら、おいおいと毛もはえてきました。お灸もあちこちにいってやり、体にいいと云うことは次々に何でもやりました。 おかげで何とか元気になりました。 3年ばかり前に盲腸だと言われて手術をしたのですが、盲腸のそばにおできが出来ていて1週間程度の検査の後、大腸を2、3寸切り取る手術をしました。

 被爆のためか疲れやすく、仕事でも、釣りでも、鉄砲をやっても午前中だけです。 21人の中でただ1人生き残った私です。 あの時の人達の名前も分からないのでは申し訳ないので広島に行って名前を調べたり、お参りもしてきたいと何時も思っています。 もうこんな恐ろしいものが地球上で作られたり、使われたりすることは止めてほしいと思います。

 今年の春、会社を定年で退職しましたので、私達のような原爆被害者を二度と出さないために力をそそぎたいと思っております。

 

 運命の朝

吉野(旧姓) 静湖さん

 

 

8月6日、快晴、温度はぐんぐん上がった。 いつものように6時に起き、6時少し過ぎ定期的のように警報がなる。 組長だったので旗を出す。 7時過ぎに主人を送り出し、その後お風呂で洗濯をしていたとき、ピカッと。 何かしらと思う間もなく凄い爆音、アッ家のそばに大型爆弾が落ちたのだ、とあわてて奥の押入にとびこんだ。 その時はまだ家の中はそのままだったが、しばらくして出て来たときは目もあてらぬ惨状だった。 ガラスというガラスは全部金槌でたたいたように粉々になり、それが桐のタンスへ無数につきささり、障子は四方の親骨を残すだけ。 床はぬけてがたがた、天井を見れば瓦は飛んで天井板はさいたようにばらばら、そのすき間から空が見える。

あまりの惨状に言葉もなく、ふと気がつくと腕や足から血が流れ、頭には大きなこぶ、何時けがしたのか分からなかったけれど傷だらけ、表を見ればきのこ雲に太陽はさえぎられ日蝕のようにあたりはだんだん暗く、山肌や蓮田、畑の光線の当たった部分は茶色にこげ、何とも言いようのない有様。

その内にこの世の人とも思えないようなぼろぼろな衣服をまとい、皮膚までが腰や手の先にぶら下がり血だらけのひとたちが、死んだ子をかたく抱き、水をくれと入ってくるのです。私の家は宮島へいく郊外電車の己斐駅から二つ目の駅の近くにありました。 これらの人々は裸で裸足なので、はじめのうちは下駄を浴衣をとあげていましたがすぐ品切れ、薬もなくどうすることもできなくなりました。

 その内急に主人のことが心配になり出し、いても立ってもおられず、かといって市中の方はもの凄い火災で行くこともできず、黒い雨も降り出し、どうなることかと生きた心地もしませんでした。 夕方になっても夜になっても主人はとうとう帰ってきませんでした。 後で聞けば大きな建物の下敷きになり、近くから火が出て逃げられなかったらしいとのことでした。

 2日後に隣組の人達が遺体探しに市中へ一緒に行ってくれたのですが、その途中大木や電柱は火を吹き、至るところに黒こげ死体や半焼け死体と目をあけてはおれないような有様、川の中にも無数の死体が浮き、主人もあんなではないか、こんなではないか、と思ううち気を失ったらしく、気がついた時は暗い家の中で寝かされておりました。 枕元には大きなかめに主人の遺骨と遺品のメガネと腕時計が入れられて置かれていました。 やっぱり駄目だったか、私もこのまま目がさめずに死にたかったとさんざん泣きました。 それから数日後、私も熱がではじめたので、これで死ねるかと心静かに死を待ちましたが、業が深いというのかとうとう生き残ってしまいました。

 それから一人で引き揚げて来るまでの苦労は大変なもので、当時のことを知っている方でないとこれは分かりません。 戦争中は婦人会の支部長として皆さんと一緒に何十回となく宇品で兵隊さんを送り迎えしたり、夜中の1時、2時に来る兵隊さんをお泊めしたりしたことでしょう。 悪夢のような日々を今でも昨日のことのようにはっきり憶えています。 今は大した原爆症もなく、1人で(子供のなかったことが良かったのか悪かったのか)お花を教えささやかに暮らしております。

 だんだん年をとって来るにつれ援護法もなく、何の一時金もなく、何時原爆症がでるかどうかという不安は消えませんし、一方では軍人の恩給、遺族への手当、引揚者への補償。

特に元軍人に対しては実に優遇だと思います。 前線で苦労した人は別として、内地にいた上級クラスの軍人達の贅沢さはよく知っていました。 そんな人達への優遇にくらべ、広島、長崎の被爆者への冷遇には何か政治的なわけがあるのでしょうか。

 また広島の原爆病院は赤字続きとか、なぜ国が保障しないのか、みんな国のため国のためとあの当時は夢中になって働いた人達ばかりなのに。

 医療についてもそうです。 病院で原爆手帳を出しても、「こんなもの初めて見た、聞いておきます」とか言って結局は何の役にも立ちません。 あれから30年近くたつ今、政府は1日も早く被爆者援護法を実施してください。 心細い毎日なのですから。

 

 

 一被爆者の回想

 山梨県笛吹市 白沢 いづみさん

当時21歳   

 

 

 原爆・・・何という恐ろしい言葉だろう。

 29年たった現在の平和な世からは全く忘れ去られようとしている事実であり言葉ではないでしょうか。

 戦後に生をえし者はともあれ、あの戦争のさなかに傷ましき犠牲を、思いを、嫌という程身に耐えて生きてきた人々は暗いその過去にふれるのをおそれ又忘れようとしています。 それはつまり戦争への恐怖と悲しみ終結を彩った身も縮むような原爆への憤りを、いやという程心に焼き付けているからではないでしょうか。

 国を挙げての大東亜戦争も終わりに近き、昭和20年3月20日軍人に嫁ぐ身を誇りに感じつつ遠く広島の主人の任地に共におもむいたのです。 主人は丹那の船舶兵団司令部勤務の軍人でした。 道中敵機の空襲はひっきりなしにて、車中人の肩の上に乗るようなみじめな新婚旅行(?)も生きた心地もなく、ちょうど名古屋付近は空襲の後にて沿線のあちこちが夜のとばりの中に無気味に燃え続け、初めて見た空襲のおそろしさに離れきし父母の顔がボーッと涙の中にくしゃくしゃと溶け込んで来るのでした。

 やっとの思いで着いた広島の地は戦争中とは思えない何と素晴らしい平和そのものの落ちついた街、清らかに澄んだ川の流れが当時の面影をそのまま呼び起こす程印象に残っております。 人々は着流しの姿で実に優雅にして恰(あたか)も戦争を知らぬものの如く、斯様な静かな生活が出来るなんて夢にも考えなかった毎日でした。

 私達の新婚生活もわずかの間でしたが、親切な人達にかこまれて毎日が楽しいものでした。然しそんな甘い暮らしも日一日と戦争が急迫を告げると共に、愈々勤労奉仕にかり出され都心の建物疎開のお手伝いに、はたまた松根油を堀に、山又山へと来る日も来る日も大八車を引き歩いたことでした。 若き身で遠く異境の地に嫁し、灯りともし頃ともなれば故郷の父母を恋慕いて、瀬戸の漁り火に涙を流した夜の幾度かありましたことでしょう。

 ああ・・・然しそのもの悲しい哀愁も突然あの8月6日の得体の知れない一弾(敢えてこの言葉を使います)のあの為に木っ端微塵に打ちひしがれて無我夢中で我が事も忘れて駈けずり回ったことか。

 一瞬の閃光・・・到底あの光を見た者にしか通じない言葉かもしれません。 

 朝主人を送り出し洗濯しようと戸外に出ようとした瞬間、耳をつんざく爆音と同時にパッと目をいたあの異様な光、黄赤なるか金か銀か、はっと思う間もなく気がついた時は戸口から家の中に吹き飛ばされて、棚の上の物と一緒にたたきつけられておる有様。 一体何のことやら皆目解らず、唯あちこちが痛むのを意識しつつ起き上がったものの家に中は目茶苦茶で素通しの状態、ただ事でないことに、はっと主人の安否を思い、一目散に隊を目指してかけ行こうと家を走り出た瞬間目に映ったものは一体何と形容してよいのか。 あれこれ将に地獄絵の形相を目の当たりに、つきつけられた思いです。

 火の手はあちこちから上がり、全裸に等しいべっとりとむけた火傷の体、衣服の黒い部分は全部焼けて白い部分だけが火傷の垂れ下がる水ぶくれに、切り抜きの紙の如くはりついて髪の毛もなくあえぎあえぎ助けを求めて歩を運ぶ痛ましき老若男女の数知れず、全く己の目を疑い且つ又覆わんばかりの惨状に、事の実情がつかめぬまま唯々呆然とするばかりでした。

 でこの誰やら解らぬそれらの人達は、続々と公会堂に集まって切なげにうなりながら身よりもなく息を引き取る者、水を求めて泣き叫ぶ子供達、主人のことも忘れてそれらの人々を何とかして上げたいと、あせりながらも付ける薬とてなくあるものは油だけ、唯おろおろと看護に何日かを過ごしました。 道の両側は死人を焼く煙と異様な臭いに包まれて名状しがたいものでした。 あの美しさを誇った広島の川という川は、水を求めては飛び込んで死んでいく死人の川と化し、今じっと考えたいけども筆持つ手のとどまる思いです。

 私も当日の勤労奉仕(建物疎開)が都合悪くて、明日に交代して貰ったのが幸いして死からまぬがれることが出来ましたのを後で思い、さっと身体中から血の気が引いた思いでした。 

私と一緒に行く筈だった下宿の若奥様は八丁堀にて勤労奉仕中被爆し、翠町の家まであえぎながらたどりつき2日間苦しみもがいて、遂にたった1人しかない肉親の女親を残して死んで行きました。 年老いた母親と私達の切なる願いも空しく「母ちゃん」唯一言つぶやきながら真っ黒い水を一筋垂らして・・・

 主人も兵団に服務中朝礼の際被爆し片頰に閃光を受け火傷をしましたが、大したこともなく市内で行方不明の副官を探しに何日も死人の間をかけずり回ったが無駄だった由。 何日かぶりで窓を抜かれた家の中で共に無事を喜び合ったものでした。

 被爆者の看護に己のことも忘れて過ごした1週間後、故郷の主人の父と義兄が私達の骨を拾いに遙々広島の地にやって来たのです。 多分言いようのない気持ちだったろうと思われます。 随分心配したのでありましょう。 広島は草一本生え残っていないと覚悟を決め重い足を引きずって尋ね尋ねに見知らぬ地で、無事の私達と夢にも考えなかった再会に涙を流して喜び合った感激の日も終生忘れられぬ思い出です。

 主人も私も終戦後山梨に帰り、当時は体の不調で随分悩まされましたが現在は健康に恵まれ明るい毎日を過ごしております。 被爆直後から何日も何日も爆心地をさ迷い歩いた主人――被爆者の群れに一緒につききりだった私―――何でもないのが不思議の程です。 然しながら何時突然に如何なる形でか、病魔におそわれるやもはかり知れず、心中の不安を人知れずおそれるのです。

 山梨県においてもそうした毎日を、否現在病魔におかされて苦しみのベッドにおる人達もたくさんあることでしょう。 29年前の唯一つの光を受けたばかりに再起の道もとざされし人もありましょう。 こうした原爆の後遺症やケロイドに悩む幾多の人々に是非暖かい援護の手をさしのべていただきたく、つたない記事を載せて多くの人々に訴え切にお願いいたします。

 

    水求む被爆者の群れ広島の

           川の流れにつらき命絶つ

    一人なる母を残して逝きし友

           切なく呼びて黒き水垂る

    大八車ひきて焼け野原悄然と

           一人帰りぬちゝはゝの里

 

 

 あの日、広島で

山梨県身延町 赤池 輝朔さん

当時26歳 元海軍

 

原爆が投下されたとき、私は窓のそばにいました。 ピカツと熱気を帯びた光を感じたとき、兵隊としての長年の習性で思わず腰を浮かしたのが悪かったと思います。 爆風で吹き飛ばされました。 私の倒れている廻りは負傷者の血とガラスの破片、それに土埃で一杯でした。

 その中で私は立ち上がろうとして気がついたのですが、体が大きな窓枠の下にはさまれて立ち上がれなかったのです。 血の流れる足を無理にすり合わせながら、窓枠から体を外し立ち上がろうとして肘をつくと・・・・ホコリの中から大きな手がニュッと出て怪我をしている私の足に無言のまますがりつきます。 誰だろう、と真っ黒なホコリの中で顔をのぞきこむと同時に、この人は息絶えてしまいました。 人を助けようにも自分も負傷しているし、あたりは死体と真っ黒になった怪我人、梁にはさまれて助けを求めて泣き叫ぶ人、全く生き地獄でした。

 明けて7日の午後、海軍の救護班が小さな天幕を張って治療をするというので、行ってみるとずっと並んでいるのです。 中には並んで順番を待っていながら死んでしまう人もいました。 というのも、何とか生きようと思って治療を受けに行くのですが、海軍が来てくれたといっても、1つの天幕に2人か3人しかいないのですから、傷がひどすぎたり、やけどが多かったりで、治療に手間取ってしまうためなのです。

 私は、うじがわきはじめた傷口が痛かったので、赤チンだけでもいいからぬって下さいと頼みました。 何しろ薄い赤チンで、水たまりのようにたまったところだけ赤くなったのです。 しかしそこは気分の問題で、何となく気持ちが良いような気がしました。

 その日近郊の国防婦人会より握り飯が1人1個の割で配られました。 握り飯を手に持ったまま死んでいる人がありました。 重傷のため、食べる元気もなく左手に握ったまま土の上に寝ていて静かに死んでいったのでしょう。 指を固く握ったので、指の間に大豆や米粒がこぼれかけているのが見えました。

 その時の私達生き残っている者は、なにしろ夢中で、人を助けてやろうとか、人の怪我の面倒をみてあげようとかいうより、自分だけは何とかして生きのびよう、という考えしかありませんでした。 それで死んだ人のむすびでも、取って食べてしまうということにもなるのです。

 軍隊でシナにいたので、人間が死ぬとか人を殺すとかいうことは随分見てきました。 その前線から帰った兵隊であった当時の我々とすれば、死の恐怖という観念は、案外薄かったと思います。 確かに今流に言えば非常識と云うかもしれませんが、毎日そういう経験ばかりで、死とか、人を殺すとか、死んでいくとか云うことをあまり感じない人間になってしまっていたのです。 しかし今広島で、バタバタ人が倒れていくのを見て、全くすくんでしまいました。 男女の区別もつかない焼けただれた死体を、焼け残りの衣服をたよりに整理している人達。 強制疎開の取り壊し作業に苦労して働いていて死んだ中学生の死体の中を、夜半ローソクに紙を巻いて、一人一人の死体をひっくり返しながら、我が子の姿を求めて、名前を呼び続ける防空頭巾の母親の姿。

 兵隊の中にも、至急されたズボンをはいていて被爆し、そのズボンから出ている部分が水ぶくれになってしまった人がいました。 歩くとぶよぶよ動くのですが、膚下に皮の組織がある程度できて自然に切れる前に破いてしまうと命にかかわるということでした。 また九州の人でしたか、被爆による怪我は何もなかったのに、中国にいた時のマラリヤがまだ残っているのかもしれないほど熱が出たのです。 家に帰って8か月くらいして死んでしまったのですが、果たして何が原因なのか分かりません。

 他にも、千葉県の市川市にいる戦友で歩哨に立っていて首から上が全く毛のない人がいます。 まつ毛も眉毛も全く生えず、まつ毛は太ももの毛を移植しました。 終戦直後で1本700円かかったのを覚えています。 彼の場合、他は何でもなく首から上だけやられて、前には1日に2回くらいひげをそらなくてはいけないくらいひげもじゃだったのですが、生えなくなりました。 顔のケロイドはピカピカしてきれいなのですが、薄暗い部屋の中で光るのです。 相手が逃げて2回結婚に失敗し、そのために自殺すると言って大騒ぎしました。

 また以前から部隊の近くでよく遊んでいた五つか六つくらいの女の子がいました。 被爆した後も全く傷はありませんでしたが、何をやっても水一杯も飲まないのです。 1日、2日とふらふら歩いているうちに、だんだん体がむくんで、目は糸一本横においたくらいの形で光が見えなくなったほどでした。 手の指ももみじの葉をひろげたみたいになっていきました。 そしていつか知らないうちに死んでしまったのです。 後から聞いた話ですけれども、その子は爆風でたたきつけられて、体の三分の一くらい肉離れしていたとのことです。

そのため内出血していたのですが、内蔵ではなかったために何日か生きていたのではないかということでした。

 私の場合は肩をやられました。 打ち身程度のもので2、3か月で治ってしまったのですが、1年もたたないうちに再発しました。 それで内船温泉へ2か月行ったのですが以来ずっと、重かったり軽かったりして毎年出ます。 左手が1枚紙をはって何か持つという感じなのです。 鍼はずっと続けていますが治療費が1回1000円から1500円くらいかかり、1か月1万円以上になります。 それにしても、あの生き地獄の中で何日か過ごしてきた私が、こうして無事に生きてこられたことは全く不思議に思えてなりません。

 

 

20.8.6 原爆被害者として想うこと

 勝村 由尾さん

 

 

 広島、長崎の原爆被爆からすでに約30年、もう当時の生々 広島、長崎の原爆被爆からすでに約30年、もう当時の生々しさは一般の人達からは薄れかけている事と想います。 私共被爆者としてもなるべく当時の惨状は想い出したくない事になりつつあります。 しかしながらひるがえって考えますと、原爆被害者の惨忍さは私達しか知らないのです。 人類の将来にこの様なむごたらしさを繰り返さないためには、私達がこの事を記録し語り伝えなければならないのだと思います。

 人間が自己の生存を確かなものにするために、病む者も、戦う者も、同一視した殺傷行為は許されるものではないと思います。 30年経った現在、尚再発の不安を心に持って生活する人間のみじめさを後世に伝えていましめにしなければなりません。

 国の施策も順次改善されつつありますが、健康診断一つとっても、単に規定された検査だけを機械的にするのでなく、医師が直接被爆者の身体にふれて真の現状を診断するように心を通わせていただきたいと思います。

 その他の施策についても「してやる」「施してやる」の考えでなく、この人達を万全にすることに依って将来の世界に対する警鐘とすることを強く望むものです。 私達が一度受けた被爆の心身両面の傷は未来永劫なおるものではありませんが、将来にこの苦しみを人類が味あわない様に、私達も日本政府も強い働きかけを世界に向かってしなければいけないと思います。

 

 

 広島の夏

山梨県身延町 渡辺 渡さん

当時21歳 小隊長教育のため広島で任務 

 

 今日の演習が思いやられるような夏の太陽が赤く輝いた8月6日の広島の朝だった。 警戒警報が解除されたので、私達は訓練実施のため教育隊の庭に整列し始めていた。 堀をへだてて広島城、その横に部隊、教育隊の隣が幼年学校といった軍の中心地ともいう処であった。 私は熊本陸軍予備仕官学校を20年6月に卒業後、鳥取第4補充隊で初年兵教育に当たっていたが、広島教育隊に小隊長教育のため2週間の派遣を命ぜられ、8月4日、広島に到着したばかりであった。

 「おい、ボーイングだ」そんな声を聞いた瞬間、目の前でマグネシウムでもたかれたような閃光。 大地に叩きつけられ、次第に薄れゆく意識の中で目と耳を覆い、ガスの臭いに防毒面に手をやった。 後で考えてみれば皮膚と頭髪の焼ける臭いだったのではあるまいか。

 どれくらいの時間がたったのだろう。 意識を回復して立ち上がった私を驚かせたのは建物という建物が一つもないことであった。 目の前の広島城は石垣のみで、参謀肩章をつけた軍人が1人、なぜかその石垣をよじ登っていくのが印象に残っている。 あたりには余り人影もなく、焼けただれた馬が火の中を駈け回っていた。

 プールのほとりに1人、火傷の左顔面から黒ずんだ表皮が垂れ下がって、放心したように立っている。 思わず「大分やられたネ」と言うと「あんたもひどいネ」と言う。 顔に手をやると皮がとれてしまった。 背中に激痛を感じて、見てもらうと、軍服がくすぶっているというので、プールに飛び込んで火を消した。

 上半身裸体となり、その場に座り込んだ。 あたり一面は火の海。 火傷に炎のほてりがつきささり我慢できない。 惨めさ、くやしさ、それに死の恐怖。 偶然、鳥取から一緒の大石見習士官に逢い、共に風上に向かって避難した。 夢中で火をさけて歩いた。 相変わらず、ギラギラ照りつける太陽と、炎が火傷を刺戟する。 軍人も一般の人も呆然と自失して声を出す者もない。 五体満足の者とてなく、正にこの世の地獄修羅場であった。

 歩きながらふと見ると、防火用水の中に1、2歳の子供が入っていた。 私は一瞬立ち止まったが、そのまままた火の中を歩き出してしまった。 原爆を、そして広島を思う時、私は今も良心の呵責を感じる。 あの時、防火用水の中からあの子を出してやっていれば、と思うといても立ってもいられない。 出してやっても助かるわけはないと思いながらも・・。

 大きな木や、石碑がみな同じ向きに倒れている。 爆弾がどこに落ちたか誰も知らぬという。 とりあえず山の中に避難した。 一面焼け野原と化した広島市が眼下に望める所だった。 火災は何時までも続き、広がっていった。

 そのころから嘔吐と発熱が始まった。 当時私の兄が、船舶見習士官で呉に来ており、営外居住で船越町にいた。 そこへ行こうと、夕方高熱でフラフラする身を鞭打って町へ降りて行った。 途中道をきくと、その体ではとても無理だと言われて断念し、あてもなく人々の群れと一緒に山道を歩いていった。

 数日たって、戸坂(へさか)村に出来た陸軍病院の分院に収容されるまでは、高熱で記憶もはっきりせず夢うつつで過ごした。 分院といっても小学校の校舎で、そこに250名ほどが収容された。 戸坂村は私の郷里に似た田舎で、戦禍は免れていた。 ここでは婦人会、女子青年団はじめ村民こぞって私達の面倒をみてくれた。 戸坂は私の生涯忘れ得ぬ土地であり、私の現在あるもひとえに戸坂の皆様のおかげと感謝している。 

 私はここで24日まで世話になったが、毎日死者のない日とてなく、24日までには1人も残らない教室さえあるありさまであった。 私は額、顔、腕、背中とやられて、横になることが出来ず、坐ったまま眠らねばならなかったので、その苦痛はひとしおであった。 医療品とてなく、夏のことで傷は化膿し、その臭いはまた格別だった。 そして化膿したところには蛆が這い回った。

 広島に投下されたのは新型爆弾であるということ、8月15日に戦争は終わったということは村人から聞いて知った。 人々はそれらについて、いろいろ取り沙汰したが、生ける屍同然の私達にはそんなことはどうでもよいことだった。 

 私は8月24日、鳥取に帰り、生死の境をさまよったが、幸いにして命をとりとめ、生きて山梨の土を踏むことが出来た。 これについては別の機会に語りたい。

 私は九死に一生を得て生還したが、戦時中の多くの犠牲者に心から冥福を祈るものである。

原爆を思う時、戦争に対する憎しみと悲惨さを痛感し、世界に恒久平和が訪れる日を祈念して止まない。

 

 

 

 奇跡の生還

 遠藤 孝さん

広島の暁6710部隊で任務 

 

 頭の毛は全部抜けて無く、全身に包帯をまいた姿で、昭和20年9月16日、私が帰って来た時、父は骨を拾いに広島へ出かけようとしているところでした。 この年の1月、臨時招集で広島の暁6710部隊に入隊したとき、こんなことになろうとはおよそ想像さえしませんでした。

 8月6日は前夜空襲があって眠っていなかったので、命令が出て午前中は床について休んでいました。 私は2階の窓側に寝ていました。 誰かが「B29から何かが落ちてくるぞ!」と、叫んだので、急いで窓を開けてみると、何か風船のような物体がヒラヒラと落ちてくる。 「あーっ、落ちるぞ」と言い終わらないうちに、ピカッと電車のスパークが飛んだように感じると同時に、肩のあたりが燃えだしたのをベッドの上で転がり廻って消しました。 次の瞬間私はかなり離れたドアの所まで爆風で吹き飛ばされていたのです。 一緒にいた5人のうちで他の者は先に飛びだし、私1人が落ちてきた屋根や壁の下に取り残されました。 しばらくたってからやっと意識をとりもどし、上にのっているものをこじのけ、傷ついた片足をかばって立ち上がり防空壕に入りました。 頭が痛く重苦しいので「頭はどうなっているか?」と聞きましたが、みんなは「どうなってもいない、だいじょうぶだ。」と言ってくれました。 それからは意識がはっきりせず、気がついたときは日赤病院のベッドに寝かされていました。

 食物は全く喉を通らず、上半身はひどい火傷で、「寒い、寒い」と震え続けました。・・・

郷里から父親が面会に来てくれたと聞いて、逢おうとして後を追って歩いているが、どうしても逢うことができない・・・そんな夢を見ていました。 今思えばもしそこで父親に逢っていたら、おそらく死んでいたのではないでしょうか。 正気づくと沖縄の女の人が付き添って、毛布を5枚も6枚も掛けて暖めていてくれていました。 頭の傷からも体の傷からもウミが出ていました。 そのうち傷に蛆がわいてそれが傷口を食うのかとても痛いのです。取っても取ってもすぐわきます。 蛆の出る者は助からないということで、私も10日間もの間そのまま捨て置かれた状態でした。 終戦の15日の頃から少し良くなりだし、これなら助かるかもしれないというので、やっと治療してもらうことができるようになりました。 

 部隊が解散になる前日、中隊長が見舞いに来て「遠藤、お前が治ったのは全く奇跡的だ。よく助かったなあ。」と喜んでくれました。 広島を去るとき、中隊に帰って部屋を見てきましたが、影も形もあるかないかというようなものでした。 私の隣の部屋にいた3人の下士官は、梁の下敷きになって即死したとのことでした。 75年間は草木も生えないという話を聞きましたが、全く何もかも悲惨なものばかりでした。

 家に帰ってきた時の状態があまりひどかったからでしょうか、何か変わったことがあると、やっぱり被爆のせいかと世間の人が言うのが、実に切ないものです。 私もまだケロイドが残っていますが、長男(26歳)も自分が被爆二世であることを意識しており、具合が悪いときなど原爆のせいではと不安がります。

 現在健康管理手帳をもらっておりますが、これだけではやはり大きな不安が残ります。 軍人、軍属や遺族家庭には早くから援護措置がなされているのに、こんなひどい目にあった者に対して、国はどう考えているのでしょうか。 1日も早く被爆者援護法を制定するよう強く要望します。

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会 「甲友会」

あの時、あの場所で・・・

山梨県原水爆被爆者の会