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あの日工場内にて・・・・ 西 幸児さん 当時中学2年生(14歳) 爆心地より1.2km
忘れられない光景・・・ ・白沢 英寿さん 広島 当時27歳 兵団司令部で任務中
ピカドンと呼ばれて・小笠原 八重子さん 広島 当時2歳
48年目、初めて語る体験 小田 一彦さん 広島 広島商船高等専門学校で授業中被爆
一瞬の差で・・・・・・雨宮 美恵子さん 広島 当時3歳、爆心地から1.2km
入市被爆者として・・・・ 渡辺 重雄さん 広島 救護活動のため、翌日に広島市に入った
薬のなかったあの時・・白沢 いづみさん 広島 当時21歳
特殊爆弾と聞かされて・・ 小林 隆一さん 広島 救護活動のため、翌日に広島市に入った
直爆をのがれて・・・・ ・石丸 照さん 長崎 当時24歳
日時も解らぬ看護・・・ ・匿 名(男性) 長崎 衛生兵として大村海軍病院に配属中被爆
水槽の水を求めて・・・ ・坂本 虎雄さん 広島 当時25歳 司令部で任務中
ケロイドを残して・・・ ・内藤 昭治さん 広島 当時17歳 暁部隊で幹部候補生として任務中
原爆はいらない・・・・ ・匿 名(男性) 広島 暁部隊で通信教育兵として任務中
何も知らなかった私・・ ・匿 名(男性) 長崎 当時1歳
幼児期に被爆した私・・ ・遠山 睦子さん 広島 当時3歳 爆心地から4km
妹を探した日々・・・・ 中村 百合子さん 広島 当時19歳
奇跡的に生きて・・・・ ・深沢 政治さん 広島 当時28歳 兵隊として任務中
原爆病を克服して今・・ ・匿 名 長崎 爆心地から1.5km以内のところで被爆
核兵器の廃絶を・・・・ ・匿 名(女性) 朝食中に
子供の為に平和を・・・・坂口 忠男さん 長崎 長崎に住む祖父母の安否を気遣い7日目に入市
怖い原爆と癌・・・・・ ・藤野 道子さん 長崎 当時9歳
広島の街と地獄・・・・ ・込山政清さん 広島 宇品派遣部隊で任務 爆心地から約4km
治りにくい風邪・・・・大越 シミエさん 長崎 当時24歳 海軍監督官事務所に勤務
いつか、かならず・・・吉本 富貴恵さん 広島 当時17歳
命令を待ちつつ・・・・・匿 名 広島 呉海兵団
火葬場となった運動場・・藤野義男さん 長崎 当時11歳 長崎市出身 爆心地から3~4k
多くの被爆者を看て・・・渡辺智さん 広島 当時23歳 船舶通信隊
二世にも手帳を・・・・・周防ヨシ子さん 長崎 当時18歳
目の前で倒れた子供達・・桑原淳さん 長崎 当時16歳 海軍少年兵
子孫が心配・・・・・・・匿 名 広島 兵隊として任務中
これからが「私」のたたかい広沢猛さん 広島 暁部隊
幼児の体験、背負う苦痛・佐野真穂子さん 長崎 当時生後2か月 長崎市出身
国連で核兵器廃絶の先頭に・深沢芳造さん 広島 当時25歳 兵隊として任務中
三年の命と云われ・・・・一瀬保さん 広島 当時18歳
運よく生きて・・・・・・匿 名 広島 鉄道隊員として任務
母のお陰で今日・・ ・中沢フジエさん 広島 当時21歳 勤務先の銀行に向かう途中
戦争のないことを願って・渡辺幸永さん 広島 当時19歳 船舶隊
難病とのたたかい・・・・山本トヨ子さん 長崎 当時9歳 長崎市出身
死体の山・・・・・・・・柴山栄一さん 広島 兵隊として任務中
被爆50年・・・・・・・ 高橋健さん 広島 当時19歳 爆心地から約2km
山のような死体・・・・・内藤嘉彦さん 広島 兵隊として任務中
死者にはなむけを・・清水要四郎さん 広島 兵隊として任務中
もし私の娘であったら・・杉山国夫さん 広島 当時19歳 兵務中
運命の朝・・・・・・ ・吉野静湖さん 広島 主婦 広島市出身
被爆のありのまま・・・・ 越賀大流さん 広島 第2軍総司令部情報通信班
死の座をうばわれて ・・・米内幸子さん 広島 当時27歳 主婦 広島出身
振り返る50年・・・・・内藤藤三さん 広島 当時22歳 暁部隊 爆心地から約2km
題名もしくはお名前のところをクリックしてください
たくさんの方々にご投稿いただいたので、①~③の3ページに分けました。
72名の被爆者の方々に体験談を寄せて頂きました。
「きのこ雲」 第4集 ②
平成7年(1995年)発刊
被曝50年記念号
原爆病を克服して今
匿 名
長崎
爆心地から1.5km以内のところで被爆
8月9日、1.5キロメートル以内で被爆した私は、無我夢中で市内上築後町の寮に辿り着いた。作業現場の窓側にいて亡くなった人、ガラスの破片が頭に突きささりくるしんでいる人等々多くの異様な光景の中で自分の安全だけが精一杯であった。
帰宿の途中、あちこちに転がっている死体、火災の中を逃げまどう人々、自分もその一員であった。投下後の翌日、山から被災者がおりて来る。「水を下さい、水を下さい」と水を求める人は全身大火傷、一昼夜手当もせず、強い日光にさらされ、皮膚は真っ黒くただれ、ダルマさんの様に顔はふくらみ、誰なのか見分けがつかない程でした。手当を受ける所もなく、あのまま途中で亡くなられたのでは・・・地獄を見た思いが致しました。
水をあげると死んでしまうからやってはいけないと誰かが言ったけど、お水を上げなかった事が、今はずっと心にかかり後悔しています。
被災者の傷口にはウジ虫が湧き、耳の中までその虫が入り、奥さんが一つ一つつまみ出していた列車内の出来事等々、平和な時代には想像も及ばない体験を致しました。二度と当時は思い出したくないです。
亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。合掌
戦後間もなく生理不順、下血、頭、手足のむくみ、発熱等気力もなく、近在の医院、県立、国立病院等受診するも、病名判らず苦しみました。昭和36年に虫垂炎、43年に卵巣嚢腫摘出、その後も高血圧症、心不全等が続き、平成3年9月、峡南病院小川院長にて甲状腺機能低下症と判断され、手足の冷え、手のふるえもとれた。平成4年の6月末、脳梗塞で倒れ、更に療養のため専門医和歌山県の要外科内科医に入院、その後は投薬を受けながら現在元気に過ごしています。別記健康調査の通り、医師を回り歩きながらポイントを見出せず大事に至った気持ちです。小川院長の言(被爆十年目の頃より甲状腺発病が多い)との事、要院長の言(甲状腺に関しては医学界も今日のようではなかった。情況の悪い時代で気の毒でしたね)とおっしゃいました。
戦争は再び起こさない。核廃絶を訴える。地球上から抹殺するまで。
只今、この訴えを書いている最中、10月27日午後6時TBSテレビニュースは米国内での原爆投下の是非を論じている。自国の犯した罪を正当化しようとする関係団体を腹立たしく感じる。
世界の人々の常識が正しい判断を下し、核廃絶は勿論、戦争のない、地球上のすべての国の平和を願っています。
核兵器の廃絶を
匿 名
広島で、朝食中に被曝
8月6日の朝、松岡家のおじ様と主人は朝食をすませ、軍靴の音を後に部隊へ行き、8時15分頃、女中2人と私を含めた女、子供の食事が始まりました時に、大きな松岡家は明かり窓からの一瞬の光と共に、私達の上にくずれてしまいました。
大きな食器戸棚の下で身動きも出来ない私を、血みどろな女中さん2人が鬼のようになって、手で板をはがして、救い出して下さいました。抱き合って泣いている間もなく、おば様、娘3人、息子1人を掘り出して、回りを見た時、火に囲まれて、1か所しか開いていませんでした。こわれた家の上を歩いて自分達の部屋から、皆の履物と蚊帳を背負って、どことて頼る所もない私達は夢中で励ましあいながら、風上である海辺に向かって逃げ、火から助かり命拾いを致しました。
農家の松の木に蚊帳を張りましたが、たくさんの人が入って来られて、私は寝る事も出来ませんでした。
後でわかったのですが、立派な防空壕の中のものは全滅だったそうです。前の晩、空襲警報でお風呂の中に入れておいた鍋、釜などは新しいままで松岡家から大変感謝されました。
建物のこわれた下敷きになったためか、ずっと腰が痛く、何年かたった頃から変形症となり、痛みに悩まされています。風邪も治ったと思うと、一週間とたたないうちに又風邪を引くというようで、身体はだるく、血圧は低く本当に困りました。2人の子供も血が薄く、輸血にきかないといわれ心配してします。
被爆者にとってアメリカはいつになっても許せないと思います。政府はご機嫌をとっているようで一人で腹を立てています。どうしてあのおそろしい核兵器を早くなくせないのかと思います。核兵器はいりません。
粥米50年を生きて
宮沢 誉福さん
広島
戦争は嫌だ、悲惨だという事です。とりわけ原爆被害の場合は深刻だ。ただの一発で広島の都市が完全に破壊された。おびただしい路上の死骸、頭をけずり取られた子供、ひどい火傷の人、また人。こんな光景を見た現実。
建物疎開のため、勤労奉仕で働いていた男、女、学生の犠牲を想起する時、兵隊以上の哀れみを思います。
被爆者は「ガン」に罹る確率が非常に高い事を聞き、心配だったが、私は被爆して以来、腸を完全にこわし、あちらこちらの病院、医者にかかりましたが駄目で、来る日も来る日も粥食の連日で微熱もあり、寝たり起きたりの毎日で74歳の老齢、全く生きる希望もありません。核兵器は不要です。
子供の為に平和を
山梨県南アルプス市 坂口 忠男さん
長崎に住む祖父母を安否を気遣い7日目に入市
8月9日長崎市に原爆が投下された。その時、私の家族は福岡県大牟田市にいて、投下後7日目に祖父母の安否を気遣って長崎市に行きましたが、電車は浦上駅のひとつ手前の道尾駅までしか行かなかった。浦上の町は原爆の投下で緑の草木は黒くなっており、家は勿論無かった。市電が何台か黒焦げで止まっていた。
至る所に爆死されたと思われる人の山があった。写真で見る情景とそっくりでした。遠く大学病院の煙突の一本は真っすぐに、残る一本は くの字になって立っていた。祖母と連れだって通り慣れたお宮の鳥居は半分で、一本の柱だけで立っていた。
現代の人々はただ写真で見るだけの人が多いが、現に私が見た情景は何とも言いようのないこの世の地獄を見ているようでした。
父も今、胃ガン、母もまた眼の病気、私ものどがおかしい、いつ原爆による病気が生じるか、いつも不安です。
二度とこのような思いや、原爆による病気の不安を子供や多くの人々が味わう事のないよう、平和で戦争のない日々が続くように、戦争も原爆も二度と無いように、まして原爆の投下という事はあってはならないと思い願っております。
直爆をまぬがれて
鈴木 力蔵さん
救護活動ために3日後に広島に入った
命令を受け、水中音波実験のため、滋賀県大津市に行っておりましたが、広島市が被爆したとの知らせで、急遽帰隊しました。8月10日午前8時頃、駅舎の無い広島駅に着きました。
市内は文字通り一面の焼け野原で、海岸の江波が見渡せました。早速、道路の開通を図るための倒壊家屋の整理、被爆負傷者を収容するための仮小屋を作り、死体を定められた箇所に運びましたが、死体は殆どが炭化したものから、建物の下敷きになって押し潰されたもの等、とても人間とは思われないものでした。また、負傷者の中には虫の息で、腹にうじ虫が湧いて、ハエがたかっていて、残酷なこの世の地獄絵を見て居る様でした。
現在の核爆弾は広島の数10倍の威力があり、一発で日本全土が全滅すると言われております。核兵器を廃絶することを願っております。二度と再び私達の体験した様な事があってはならないと思います。
恐い原爆と癌
山梨県甲府市 藤野 道子さん
長崎 当時9歳 長崎市出身
幼少の為、唯々恐ろしく、怖かったという思い出だけです。
友人たちが、癌等で最近よく亡くなりますが、いつ自分の身にふりかかるかと心配です。
核兵器の廃止を‼
県内のすべての医療機関が指定医療機関であることを望む。
広島の街の地獄
込山 政清さん
広島
宇品派遣部隊で教練中
爆心地から約4km
私は宇品派遣部隊でしたので、中心部より4キロメートル離れております。8月6日当日は完全服務で教練中でしたが、敵機が一機見えたので隊長が休止して、その行方を見ていました。
するとパラシュートを落下、何やらぶら下がっていたので、いつものチラシだなと思っていたところ突然閃光があり、頭が熱く、ドーンと大音響、直ぐ防空壕へ、兵舎がこわれた位でしたが、空にきのこ雲がもくもくと上がり、何が何だか見当がつかなかった。
出動命令が出て現地へ、途中電車が黒焦げで、勿論車中の人々も黒焦げです。異臭がひどく、行くにしたがって家はほとんどがガレキと化し、鉄筋ビルが残っている位、中心部に近づくと建物の下に死体があっちこっちとあって、生ある人でもうめき苦しんでいて、うっかり腕など引いても皮膚がつるりとはがれる。
担架で運搬、これが当日のこと、次の日から救護活動に出動、連隊本部から部隊がきた。その為、死体の収容がめざましく、道路上に並べていったがただ夢中でした。
一発の爆弾がこの被害を与えたのにただ唖然としました。
10月になって復員命令が出て家に帰ってきました。まず心配だったのは被爆後2ヶ月も現地で活動していた為、身体に問題はないかでした。それで山梨県立病院の院長先生と母が親しい人だったので、身体検査をすべてしていただきました。結果問題なく正常を認められホッとしました。
現在は県立中央病院で診察を受けており、体調が悪く、いろいろ病気はあるのですが、めまいがひどく、急に家が廻ってしまうので困っています。その為に脳外科へも毎月通院し薬を飲んでいる状態です。
再び被爆者をつくらない「証」としての救護法をお願いします
治りにくい風邪
山梨県甲府市 大越 シミエさん
長崎 当時24歳
8月9日11時、少し早い昼食の準備に出掛けました。食堂の入り口の石段の処で「ピカッ」と溶接の光の様なものを浦上の方向に見ました。その瞬間からしばらくは分からず、気がついた時は暗い所にいた。手首を怪我した程度で助かりました。
翌10日には姑、姑の姉、長女(寿美子)私の4人で姑の故郷(西彼杵郡瀬戸町樫の浦)へ米を少し、衣料等を各人が持って疎開しました。浦上方面が通れないので福田村方面から行く事にしました。黒崎村という所で日が暮れ、姑の姉の知人宅に泊めてもらい、11日も早朝に出発、夕方目的地に着きました。
12日朝、6時頃に伯母と2人で長崎に向かって歩くことにしました。なるべく上手に歩く事を考えて下駄ばきで歩きました。木陰で汗を拭いたり、野宿をしながら長崎に着き、そんな事をして6回も往復しました。
15日昼近く、道の尾近くで、何となく静かすぎるので、「何かおかしいねー」と伯母と語りながら、2、30人位の団体の人に近づきましたら、ラジオがザーブーと雑音しきりでよく解らないのですが、聞いておりました。誰かしら「戦争は終わったってよ。負けたらしいよ。今のは天皇の声だったんだって」との事。二人で泣きました。
二度と戦争は嫌です。70年は草木も生えないといわれましたが、南瓜の花が咲き、あれよあれよという間もあればこそ、アッという間に実がつき、大きな立派な南瓜が焼け野が原にゴロゴロところがっていました。「南瓜を食べると下痢して死ぬぞ」と誰かが言い出し、何か気になって食べませんでした。
昭和34年風邪をひき、咳と高熱に苦しみ、急性腎炎と診断され、即入院で1カ月半も入院をし、無塩食が6カ月間も続きました。疲れても、一寸汗をかいても風邪をひくという具合で大変風邪をひきやすくなり、又なかなか治りにくく早くて2カ月、長いときは1年の半分は「コンコン」の連続です。腎臓が悪くなり、老化が早く、尿が出たいという感覚がなくなるので、冬と風邪が恐ろしい今日この頃です。
世界中のどこでも戦争のない事を願っております。今国会議員の中にも戦争体験のない議員も沢山いるでしょうが、戦争を身を持って体験した議員は戦争による悲しみを二度と国民が味わうことのないよう政治を行ってもらいたい。戦争は戦う人達でなく、国民は貧しい食事、生活で栄養失調にならないよう努力しながら子供達を守っていかなくてはならない。
もう二度と戦争は嫌です。まして核兵器など絶対にいりません。
被爆50周年になる今も苦しみ続ける被爆者として、世界から核兵器のすべてが廃絶される事を心から願っております。
いつか、かならず
山梨県甲州市 吉本富喜恵さん
広島 当時17歳 学徒動員で勤務中
昭和20年3月、私は5年生の女学校、広島第一県女を、1年短縮して4年で卒業しました。そして進学しない者はそのまま、それまでの学徒動員が継続されました。当時、すでに私達は4年の初めから陸軍の被服廠に動員されており、学校の教室をそのまま工場として毎日ミシンを踏んでいました。しかし戦況の悪化と共に大空襲を予想してか、学校工場は24年4月に、安佐郡川内村の役場の一部に移転しており、毎日広島市内から可部線で川内村まで通勤していました。
8月6日当日、被爆投下の時代には、すでに川内村の職場に到着していましたが、母と八丁堀の自宅を失いました。川内村で2,3夜をすごした後、可部町の荷物を疎開してあった部屋に行った記憶があります。そしてそれから連日、母の消息を尋ねて広島市内へ日参しました。ヒッチハイクよろしく通りすがりのトラックへ乗せてもらったり、歩いたりして通ったものです。あちこちの壁などに負傷者を収容してある場所と氏名が書いてあるのを頼りに、探しに探したのですが、どこにお母の名前を見出すことはできませんでした。
自宅の焼け跡にも遺体は見つかりませんでした。そうこうする中に同じ町内の生き残りの方や、疎開していた方々の消息が、焼け跡に立て札として立つ様になったので、その人達を五日市に海田と訪ねた結果、やっと「母と常盤橋まで一緒に逃げたということを人伝いに聞いた」という話を、もう瀕死の重病人となっておられた同じ町内の人から聞く事ができたのです。しかしそこから先の行方は杳として知れず、どこが母の終焉の地であったのか、もう知ることをあきらめていました。ところが昭和40年頃であってと思いますが、外地からの引揚者であった伯母が、それでもと思ってたまたま立ち寄った、東警察署の死者の名簿の中に母の名前を発見してくれました。母の最後の地は大須賀町とあったそうです。
私はいつか、8月6日の同時刻にわが家のあった八丁堀から、常盤橋を渡って大須賀まで母が歩いた道を歩こうと思っているのですが、いまだに果たさずにいます。然し、かならず、私自身の足で歩けるうちに、この道を辿るつもりです。
核兵器の廃絶を
杉田 鉄之助さん
広島
昭和20年8月6日午前8時15分、まさに無警告、奇襲爆撃であった。天を裂く熾烈な閃光と地軸を揺るがす大爆音によって一瞬にして広島市は地面に叩きつぶされ、猛火に覆われてしまった。全市が阿鼻叫喚の修羅場と化し、その中を生きのびた者は全裸、半裸のどす黒く汚れた血だるまの幽鬼の姿となってバタバタと死んでいった。この惨状はとても筆舌につきるものではない。今回の阪神地域の大震災は死者5,000人余、広島、長崎の原爆の死者は20数万人であって、当時の世情から救済の手は何等差し伸べられず、如何に悲惨であったか想像に絶するものがある。
強烈な爆風により、一瞬にして家の下敷きとなったので、頭、顔、背中に裂傷、また打撲傷を負ったのである。それよりも原爆後遺症的な症状が6,7年間続き、その後も何時どんな症状が発生するのか、そのことが頭から離れず心配で過ごした。また、その後子供が生まれたが、遺伝的なものを背負っておらないかと心配が続きました。
核兵器を所有することは、やがては人類の絶滅の危機を裏付けることにもつながるので、核兵器の廃絶を全世界を挙げて取り組んでいくことが必要である。
命令を待ちつつ
匿 名
広島 呉海兵団所属
私は呉海兵団に入団、一週間後に武山海兵団にて三か月間教育を受けて呉に帰国。実習部隊に編入されてからは、広島県内は転々と配置変えされまして、広島に原爆が投下された時には南観音町にあった徴用工員の宿舎の警備にあたっていました。軍からは待てども待てども何の命令も来ないので、私は宿舎の警備にのみ専念しておりました。
終戦となり軍人たちの帰国を見て、私も妻の待つ茅野駅に向かいました。
核は一日も早くなくす事だと思います。そして平和な国々になる事を願っております。
直爆をまぬがれて
矢島 和雄さん
広島
投下時は姫路の軍事工場で勤務
その後広島に入った
8月6日は命令により、姫路の白浜工廠に居り直接被爆を免れました。新型爆弾の投下により広島市は全滅との事、不幸中の幸いでした。
間もなく終戦により広島へ帰りました。広島駅はプラットホームを残すのみで一面の焼け野原を行進して江波に帰りました。江波近辺は、一面あたかも大地震後と同様、家屋すべて倒れかかっていました。私達の学校は鉄筋コンクリートの建物でしたので幸いにも倒壊せず残って居りました。
まもなく8月24日広島を発って帰甲。身延線の南甲府駅まで来た時、待っていたのは我がふるさと甲府の一面の焼け野原のみでした。
ノーモア、ヒロシマ、ノーモア、戦争を強く強く後世に訴えます。直接被爆ではなかったのにもかかわらず、仲間の一人が二年後に白血病で亡くなりました。心理的には一抹の不安はあったものの何事もなく過ごしてきました。現在は20年来の糖尿病と共存して頑張って居ります。核兵器の全廃を訴え実現を願っています。
広島市江波の朝
匿 名
広島
暁部隊に一時入院中に被曝
爆心地から約3.5km
8月6日の朝、空襲警報解除のサイレンにホッとした。
近くの丘からミーンミーンといつもと変わらぬのどかな蝉の声が聞こえてきました。「またB29の素通りか、そのうちまとめてやられるかな」と江波陸軍病院の病棟の一角でそんな会話が交わされたのも、ほんのつかの間でした。ピカッと昔の写真のフラッシュに使ったマグネシウムのような閃光を見ました。隣のベッドに居た上等兵の口ずさんでいる歌も止まり、「なんだ、なんだ」と一言、二言言う間もなく、一瞬のうちに風圧を感じて、とっさに床に伏せながら、わきのベッドの上にある毛布を引っかぶった。
とたんに体の上に何やらしきりに落ちてくる。しばらくしてやっと静かになったので、そっと毛布の間から恐る恐る顔を出すと、周囲の窓は飛び散り、木造病棟外壁の腰板が飛び散ってしまい、柱だけが残って、野外がまる見えになって居りました。体の上に落ちてきたのは、爆風によるこれらの破片でした。居合わせた人達も、何が何だか訳が分からず暫くボーっと立ち尽くして居りました。なかには窓ガラスの破片でケガをして助けを求めている人も居ました。
しばらくすると病院をめがけて、続々と押し寄せて来る人の波が見えました。最初のうちは着の身着のままと言えばよいか、焼けたままボロ布をまとっている人、続いて着ている物は全くない人、更に頭から足まで全く体毛がない上、肌は一皮はいだように黄色くなり、両手をダラッとぶら下げて、あたかも亡霊のような姿で歩いて来る人の群れを見ました。
その時はただ呆然と見ていただけでしたが、後日になると、入院患者であっても、何のすべも出来なかったかと、自分がさいなまれています。
その時は軍医や看護婦さんが、あわただしく飛び歩いても外傷の処置位しか出来ず、それも軟膏、ヨーチン等もたちまち使い果たして、傷を洗う程度で、ベッドもなく、廊下にびっしり並べて寝かして置くだけで、その人達は順次死亡したため、屋外の広場に積み上げた。更に他所で死亡した人を荷車に乗せて運んで来たが、苦しみながら異常な形で死亡し、黒焦げになった人達も広場に積み上げて、次々に焼けました。
数日後、聞いた話だと、爆心地の人は焼けて跡形もなくなったり、ヘルメットの下にわずかな骨片が残っている人もあったり、火で逃げ場を失った人達は川に飛び込んで死に、どの川も死体で一杯だったとの事。このような光景は、見聞きするだけで全く身の毛もよだつ思いです。
戦後50年に達しようとする現在でもなるべく思い出したくない事ですが、これでも爆心から3.5キロメートルも離れた江波町の出来事で、有りのままを確実に語りつぐ事は難しいが、再び繰り返してはならない事だと思います。
現役兵として18歳で暁部隊に入隊、一時入院中に被爆しました。多くの被爆者の病状悪化、死亡の報におびえながら、現在病気と闘いながら、平和な未来を願って、思い出したくない過去の一部に触れました。
(元、人間魚雷の卵)
不安な日々
清水幸平さん
広島
忘れもしない昭和20年8月6日の朝、船で作業に出発の時、青白い閃光を浴び、その瞬間に宇品港に落ちました。何がおきたのか分からず一時呆然としていました。翌日市内に行ってびっくり、家も何もない一面焼け野ヶ原となり、ガレキと死体、防火水槽によりかかってボーっとしている人、電車は焼けて、吊り革を持って黒くこげた人、電車の周りにも黒こげの人が一杯でとても見ておれませんでした。
原爆というとあの日の光景が浮かんで来るので思い出したくありません。
一寸怪我をしても血が止まらず、胃潰瘍でも癌とむすびつけて考え、それに二男が心臓欠陥で生まれたので、これも被爆の為かと何時も思い、毎日毎日が不安です。
二度とこんな悲惨な事のない、戦争のない平和を願っています。こんな不安な生活は誰にも味合わせたくないと、核兵器の廃絶を心から願っております。
火葬場となった運動場
山梨県甲府市 藤野義男さん
長崎 当時11歳 長崎市出身
昭和20年8月9日、一瞬の閃光が浦上地区の多くの人々を地獄の底に落とし入れた。
当時小学生だった私は、この殺人兵器が新聞、ラジオでは新型爆弾と報じられていたのを鮮明に記憶している。
水を求めて皮膚のない身体を半分川につけて息絶えた人、座ったままの姿が、地面のコンクリートに焼き付いた人、蝉取りの格好のまま山中で焼け死んだ子供達など、その惨状は筆舌に尽くし難いものであったらしい。
直ちに、市内の小中学校の一部に救急診療所が開設され、救護及び被爆者の収容に当てられた。医薬品の不足と、患者数の多さで十分な治療は出来なかったそうだ。
それから数日後であったろうか。私の通学している小学校の運動場が臨時の火葬場となり、疎開あとの取り壊された材木を組んで死体の火葬が行われた。荼毘(だび)の炎は昼夜の区別なく天を焦がし、悲しみの鳴咽が運動場一杯に何週間も続いたのを覚えている。
全身を包帯でぐるぐる巻きにした被爆者が、大八車やリヤカーに乗せられて通院している姿が日に日に少なくなっていくのを見ながら、私の母は「少なくなったのは、あなたの小学校に行ってしまったのよ」と目に涙して教えてくれた。あの小学校の運動場で焼けた炎の中に、今でも被爆者の悲しい声が聞こえるようである。
県内すべての医療機関が一般疾病指定医療機関であることを望んで居ります。
火葬場となった運動場
山梨県甲府市 藤野義男さん
長崎 当時11歳 長崎市出身
昭和20年8月9日、一瞬の閃光が浦上地区の多くの人々を地獄の底に落とし入れた。
当時小学生だった私は、この殺人兵器が新聞、ラジオでは新型爆弾と報じられていたのを鮮明に記憶している。
水を求めて皮膚のない身体を半分川につけて息絶えた人、座ったままの姿が、地面のコンクリートに焼き付いた人、蝉取りの格好のまま山中で焼け死んだ子供達など、その惨状は筆舌に尽くし難いものであったらしい。
直ちに、市内の小中学校の一部に救急診療所が開設され、救護及び被爆者の収容に当てられた。医薬品の不足と、患者数の多さで十分な治療は出来なかったそうだ。
それから数日後であったろうか。私の通学している小学校の運動場が臨時の火葬場となり、疎開あとの取り壊された材木を組んで死体の火葬が行われた。荼毘(だび)の炎は昼夜の区別なく天を焦がし、悲しみの鳴咽が運動場一杯に何週間も続いたのを覚えている。
全身を包帯でぐるぐる巻きにした被爆者が、大八車やリヤカーに乗せられて通院している姿が日に日に少なくなっていくのを見ながら、私の母は「少なくなったのは、あなたの小学校に行ってしまったのよ」と目に涙して教えてくれた。あの小学校の運動場で焼けた炎の中に、今でも被爆者の悲しい声が聞こえるようである。
県内すべての医療機関が一般疾病指定医療機関であることを望んで居ります。
思い出したくない
匿 名
広島
8月6日の事は思い出すのも恐い事で、8月6日と聞くだけで頭が痛くなり、食事も取れなくなって体調をこわしますので思い出したくありません。まして話したり、書いたり等出来ません。恐ろしい地獄です。
帰ってから数年後より病院通いとなり、今は家でゴロゴロしている毎日です。
戦争は嫌ですね。もう絶対に人を殺すことのないようにと願っております。
特に、原爆、核兵器等はなくなることを願います。
多くの被爆者を看て
山梨県都留市 渡辺 智さん
広島 当時23歳
船舶通信隊として任務中
私は比治山の暁16710部隊の船舶通信隊の兵隊でした。軍港の呉は毎日の様に爆撃を受けており、広島市も危ないと云うことで通信所を市外の山中に移動する事となり、第2次部隊として派遣の命を受け、兵舎の前に整列し出発の直前の出来事でした。
それこそ強烈な光と同時に物凄い爆音がしたその瞬間、今まで一緒にいた戦友がどうなったのか分からない程あたり一面は薄暗くなり、目に土ぼこりが入り、手探りで防空壕を探し、夢中で避難し、暫くして気持ちも落ち着きましたので外に出て見ると、将校集会所を除き殆どの兵舎が全半壊していた。
街の中心部は一面に火の海と化し、多くの市民が助けを求めて比治山に集まりましたが、その姿はひどい火傷で、男女の別も分かちがたい程でふためと見られない有様でした。
その後、私は日赤病院の患者さんの看護に廻されました。終戦後の9月20日頃まで日赤に居り、その時の事は思い出すのも嫌な日々でした。
私は移動のため完全武装をしていた為に、かすり傷程度で、首に軽い火傷を負いましたが帰宅し数カ月で治りました。
昭和58年夏に肝炎のため1カ月半入院しました。最近になって又悪くなり通院、加療中です。
あのような恐ろしい爆弾は二度と使用することのないようにと願っております。
二世にも手帳を
山梨県上野原市 周防 ヨシ子さん
長崎 当時18歳
長崎で被爆した市民です。話すときりがないので余り話したくない。
横浜市在住の二世には被爆者と同じ「被爆者健康手帳」が交付されております。なぜ同じ親から生まれた子供が二様に分別されるのか疑問をもっております。
目の前で倒れた子供たち
山梨県上野原市 桑原 淳さん
長崎 当時16歳の魚雷艇の通信手
私は16歳と10か月の海軍少年兵で、魚雷艇の通信手でした。部隊は天草牛草にあり、本土決戦に備えておりました。
私達8名は本体である長崎県川棚基地から30トンの貨物船で深牛に向かう途中で8月2日夜半、エンジンが故障しました。三菱造船所に依頼するも修理出来ず、8月4日頃旭町の鉄工所で修理中でした。
8月9日の朝、旭日町の船着場では近所の子供等5,6人が水遊びをしていた。警報のサイレンが鳴ったようでしたが、毎日の事とて気にもせず洗濯しようと思って歩き出した。
その時、強烈な閃光・・・続いてものすごい爆風で私はマリの様にころがりました。その上に土壁とガラスの破片で身体の上に落ちて来ました。顔、手、腰等はガラスの破片で出血しました。やっと道路に出て見ますと、空は暗く、風は竜巻の如くトタンやゴミが舞い上がり飛び交っておりました。
近くで水遊びしていた子供等が「兵隊さん熱いよ」「熱いよ」「助けて、助けて」と言いながら熱線でむけた皮を引きずりながら走って来てバタバタと私の前で倒れていったのに、何もしてやれなかった悔しさ、悲しさ!
出血の為山の上の救護所で止血処置をしてもらい、高台の防空壕から燃え続ける長崎市内、そこでは先程の子供達と同じ姿の人々で一杯。正にこの世の地獄としか言いようのない有様でした。翌日、長崎三菱ドック救護所に運ばれた。黒焦げや、全身水泡の重体滞負傷者の驚く程の数で、死を待つばかりと思われる人が次々とかつぎこまれて来ます。手の甲を3針ばかり縫ってもらいましたが、恥ずかしい様でした。川棚から11日に代替船が迎えに来て呉天草牛深に帰り着く事が出来ました。
疲れやすい、風邪を引きやすい、病気しやすいのは原爆被爆のためであると、すべて悪い方に考えてしまい、神経過敏になり、不調な時には不安でたまらない。いろいろ考えると、核兵器はいらない。「廃絶しかない」。
援護法には不戦の証しとして「国家補償」の明記を要求します。
子孫が心配
匿 名
広島
被爆その朝は、前夜から午前3時頃まで、呉軍港が艦載機の襲撃を受けたので、午前中就寝命令があり、朝食をすませ、床についた直後「B29だ」の声に目がさめましたが、屋根の土煙のため窓が見えません。やっと営庭にでると、前方の兵舎の屋根が波型に破損、瓦が落下中、片や通信教室はマッチ箱を踏みつけたようにペシャンコでした。自分も屋根からの瓦で頭部と腕より出血でした。
この時から、午後1時頃小学校が野戦病院となり、乾パンが支給されるまでの5時間。生涯思い出したくない事実の連続でした。「兵隊さん、水」と言う言葉が最後の人。田の水を飲もうとして、田に頭を入れ死んでいる人達の多いこと。また負傷者は病院に行くから集合に、一人として集まらないのに、敵が上陸したので、戦うのだから集合の言葉には多くの者が集まり、病院行きとなった。後刻考えれば負傷者には理解し難い行動でした。私もその中の一人でした。
私は感じました。人間は予想を越えた変化、特殊環境に合うと大半の人は、その人の体験を主体に判断と行動をすると言うことです。これからは予想を越えた変化、環境をつくらないため核兵器の絶無を念願するものです。現在私は子供達に被爆者であることは口にしますが、当時広島で流言された、草木は3年間芽が出ない。被爆者には子供はでない等々については話題としません。
二世検診等を見れば何らかの学説はあるものと予想されますが、これらについては口にしないよう、生涯続けるものと思います。
これからが「私」のたたかい
広沢 猛さん
広島 船舶隊
昭和19年9月山口県西郡第八部隊に船舶兵として入隊、20年1月広島、暁第6167部隊に配属され被爆しました。8月6日その日は雲一つないよい天気でした。
私は公用のため広島駅まで電車で行き、舟入町に向かって歩いているとき、B29一機が上空を飛んでいるのを見た瞬間、パッとものすごい閃光が目の前を走りましたので、その場に伏せました。その後のことは何もわかりませんでした。気がついた時は建物は倒れ、下敷きになって助けを求める人、声も出さずに、ただうなっている人、やっと部隊に着いた時は、町中真っ赤な火の手があがり、煙で何が何やらわからない状態でした。
市中は生き地獄の様相でした。
飛行機一機で多数の市民をこんなに悲しい状態にした、原子爆弾の恐ろしさを一生忘れることはできません。
昭和20年9月復員後、体に赤いブツブツと疲労、発熱等々苦労している現在です。
幼児の体験、背負う苦痛
山梨県身延町 佐野 眞穂子さん
長崎 当時生後2か月
長崎の原爆投下の時、私は生まれて2ヶ月でした。被爆の時を母は次のように話してくれました。「ピカッ」と光がして爆風が通り、屋根瓦がバラバラと落ち、土煙で暗くなったので、母は私を自分の身体の下に置き、かぶさって、くれたそうです。やっと見えるようになり私をなめてくれたそうです。
このことを母から聞かされたのですが、私はその時に身体の感覚として、目が開かない、息苦しさ、いやな気持ちがあったように覚えているのです。生後2ヶ月の幼児がと思うかもしれませんが、私は一生忘れることのできない実体験です。
私は20歳頃腹痛がありましたが、28歳で結婚、2回流産しましたが3人目が産まれ5年後手術を行いました。それからは腰痛、疲労、目の充血、視力低下の現在です。
生涯苦痛を背負わされた私から、核兵器廃絶を訴えます。
国連で核兵器廃絶の先頭に
深沢 芳造さん
広島 軍人 爆心地から4.5km
私は広島で軍人として10日間原爆で火傷した人達の救援と死体の処理活動をしました。海岸及び空き地等をさがして穴を掘り、死体を集めて火葬にいたしましたが、まさにこの世の生き地獄でした。
私は爆心地より4.5キロの所で、原爆投下時には兵舎の中にいたので、強い光も見ず、兵舎もつぶれなかったので助かりました。
しかし10日間の死体の処理等で受けた放射能の脅威とその障害作用を思う時、一抹の不安はあるものの現在は丈夫です。
被爆国日本が国連を通じて、先頭に立って地球上から核兵器を廃絶されるよう強く希望します。